第1話 八番目
蜂に驚いて、抱いていた子犬を落としてしまったと、お前は泣いた。
その子犬は死ぬまで左の前足を引きずっていた。
これは謝罪ではない。記録だ。
* * *
玄関の暗証番号が変わっていた。
だから、ドアを開けた。手のひらをドアロックに当てて軽くひねったら、開いた。向こうで11年間、城門や牢獄や宝物庫をこじ開けてきた癖が、まだ指先に残っていた。
靴は脱がずに上がった。それも向こうの癖だ。靴を脱いだ瞬間に襲われたら、裸足で戦うはめになる。
リビングには見覚えがなかった。ソファが替わり、壁紙が替わり、テレビの横には知らない家族写真が飾ってあった。知らない男と、知らない女と、知らない女の子。
俺はその写真の前に立ったまま、家を間違えたのかとしばらく考えた。
東京都北区赤羽三丁目。コンビニを左に曲がって二本目の路地。合っている。家は合っている。
間違っているのは、人間のほうだった。
「……あ」
声のしたほうを見た。ソファの陰から、十歳くらいの女の子がこっちを見ていた。写真の子だ。手にアイスを持っていた。溶けたアイスが手首を伝っているのに、本人は気づいていない。
俺はその顔を知っている。
魔王城の手前の村で。焼け落ちた神殿で。魔王の最後の息が途切れた玉座の間で。うんざりするほど見てきた。
自分を殺しに来たものと向き合ったときに、人間がする顔だ。
「大丈夫。おじさんは……」
女の子が悲鳴を上げた。
* * *
【速報】東京・北区の住宅街で外国人男性が暴れる 一家4人けが
7月2日午後3時ごろ、東京都北区赤羽の住宅に身元不明の男が侵入した。男は駆けつけた警察官6人に取り押さえられた。警察によると、男は韓国語とみられる言葉で「勇者」「魔王」「帰ってきた」などと繰り返していたという。なお、一家4人のけがはいずれも、家族が男に振り下ろしたフライパンや椅子の破片によるものと確認された。
最後の一文が、この事件のすべてだ。記事はそれをいちばん最後に隠していた。
映像は四十七秒。俺はそれを百十二回見た。向こうが見せたからだ。
映像の中の俺は、リビングの床に膝をつき、頭を抱えている。椅子が振り下ろされる。脚が一本折れて、画面の外へ飛んでいく。父親がフライパンを振り上げる。母親は包丁を握っているが、振り下ろせない。手が震えすぎて。
そして俺が顔を上げて叫ぶ。
「何言ってんだよ、クソッ! 俺だよ! ここは俺の家だって言ってんだろ!」
字幕にはこう出る。(聞き取れない外国語)
その四十七秒のあいだに、俺は頭の中であの家族を四回殺した。椅子が落ちてくる軌道。男の喉ががら空きになる角度。包丁を奪って突き返す動線。11年かけて体に刻んだものが、勝手に計算した。
俺がやったのは、その計算を実行しなかったことだけだ。
あとで知った。俺が消えた日から、こっちでは4年3か月が経っていた。そのあいだに妻は引っ越した。あの家には別の家族が住んでいた。
向こうで過ごした時間は11年。11年ぶりに帰ってきた人間が、真っ先にすることは何だと思う?
家に帰ることだ。
* * *
日本の警察は、俺を三日間拘束した。
二日目、若い巡査が押収品の目録を読み上げた。通訳はいなかった。彼は日本語で読み、俺は日本語を理解した。4年前まで、この街で会社勤めをしていたのだから。
「刀剣類、一点。刃なし、柄のみ。革袋、一点。内容物、動物の骨と思われる歯、三本。金属製の円盤、一点、用途不明。以上」
刃のない柄は聖剣だった。魔王の心臓を貫いて、刃が溶けて消えた。三本の歯は魔王の牙。円盤は国王が手ずからかけてくれた勲章だ。勇者の称号と一緒に、領地がひとつついてきた。
こっちでは「用途不明」だった。
「質問はありますか」
「その歯、動物の骨じゃありません」
巡査はうなずいて、目録に何か書き足した。あとで書類を見たら、こう書いてあった。
被疑者、動物の骨ではないと主張。
三日目の朝、灰色のスーツの男が三人来た。三人とも俺と目を合わせなかった。一人は俺の顔を見るなりトイレに駆け込んで吐いた。残りの二人が俺の手首に手錠をかけた。手が震えて、三回目でやっとかかった。それから頭に黒い布袋をかぶせられた。
飛行機に乗った。着陸のとき、耳がつんとした。車で二時間走った。未舗装の道で車が跳ねるたび、隣の男が息をのんだ。俺の肩が、彼の肩に触れるたびに。
袋を外されたとき、俺は白い部屋にいた。
* * *
壁も天井も床も白かった。椅子が二脚、スチールのテーブルがひとつ、水のボトルが一本、紙コップがひとつ。壁の一面がまるごと鏡だった。
鏡は見ないようにした。日本の警察署のトイレで一度見て、そこに映ったものがあまりに平凡で、笑ってしまったからだ。
三十八歳の韓国人の男。痩せこけた顔、伸び放題の髭、左眉の上の傷。向こうで11年暮らしたのに、鏡の中の顔はこっちで流れた4年分しか老けていなかった。その計算に頭を使う気力は、なかった。
なのに、どうしてみんな、俺をあんな目で見るんだ。
ドアが開いた。
入ってきたのは女だった。四十代半ばくらい。短い灰色の髪に、黒のタートルネック。彼女は俺を見ても息を止めなかった。この四日間で初めてのことだった。
彼女は椅子に座ると、ポケットから薬のケースを取り出した。錠剤を二つ、水なしで飲み込む。
「失礼しました。精神安定剤です。これがないと、あなたと五分も同じ部屋にいられないので」
「名前は?」
「ここでは名前を使いません。あなたは書類上、『八番目』として登録されます」
彼女がファイルを開いた。日本の警察署で撮られた俺の写真が貼ってあった。その下の欄には「押収品――動物の骨(本人は否認)」とある。
書類は国境を越えても、一文字もましにならなかった。
「世界で八番目という意味ではありません。大韓民国の国籍とみなされる者の中で、です」
「残りの七人は」
「お会いになれません。五人は死にました。一人は刑務所にいます。残る一人は、まだこちらで管理しています」
答えるのが早すぎた。あらかじめ用意してあった文章だ。
「俺はどうなるんですか」
訊いてから、それが本当に知りたいことではないと気づいた。
「いや。どうして、みんな俺を……」
最後まで言えなかった。アイスが手首を伝っていた、あの子の顔が浮かんだ。
「帰還者は、およそ1年のあいだ、相手にとって恐怖の対象に見えます」
彼女が言った。
「誰に対してもです。家族であっても、初対面の人間であっても。何に見えるかは、見る人によって違います。共通点はひとつだけ。その人が生涯でいちばん恐れてきたもの、あるいは、いちばん憎んできたものに見えるんです」
「1年」
「およそ1年です。その後は普通の人間に戻ります。我が国の場合は、ですが」
「他の国は?」
「アメリカでは、銃の事故に分類された事件のうち、かなりの数が帰還者がらみです。あなたのような人を見て、自分の子どもを傷つけに来た怪物だと確信した隣人が、引き金を引くんです。我が国は銃が違法ですから、まだ幸いと言うべきでしょうか」
俺は笑った。
11年、魔王を追った。ワイバーンの毒針を食らって十日寝込んだ。仲間を四人埋めた。そうやって帰ってきた世界で、俺を殺せるのが隣のおっさんの猟銃だなんて。
俺が笑っているあいだ、彼女は何も言わなかった。
* * *
「妻がいます」
笑いが収まってから、俺は言った。
「知っています」
彼女がファイルを一枚めくった。
「現住所も把握しています。ソウルです。再婚はしていません。4年前に失踪届を出しています。2年前、警察から捜査終結の通知があったとき、不同意事由書を提出しています」
不同意。
その三文字を聞いた瞬間、胸の下のほうで何かが引きつった。ワイバーンの毒針より痛かった。
「会わせてください」
「できません」
「なぜです」
「奥様があなたを見たとき、何を見るのか、私たちにはわからないからです」
彼女は俺をまっすぐに見た。
「奥様が生涯でいちばん恐れてきたものが何か、ご存じですか。あるいは、いちばん憎んできたものが。4年間帰ってこなかった夫、かもしれません。その顔をした怪物と玄関で向き合った奥様がどう動くか。その動きに、あなたの体がどう反応するか。断言できますか」
俺は赤羽のリビングを思い出した。あの四十七秒で四回計算した動線を。
断言は、できなかった。
「1年です」
彼女が言った。
「1年後、この現象が消えたら、私たちが責任をもってお連れします。それまで、あなたにはここにいていただきます。私たちの支援を受けるのが最も賢明な選択です。あなたが持ち帰った力は、今この場所では核兵器と同じくらい危険です。威力がどれほどかわからなくても、いつ、どう爆発するかわからないなら、手に負えません」
1年。
向こうで11年耐えた。1年くらい、どうってことない。
そう思おうとした。なのに、指が勝手に日付を数えていた。7月2日。来年の7月2日。妻の誕生日は10月だ。今年の誕生日には行けない。結婚記念日は3月。それも無理だ。
「もうひとつ、申し上げておきます」
彼女の声が、少し低くなった。
「私は七度の失敗と過ちの中で、ただ一人生き残った人間です。だからこの仕事を任されました。できる限りあなたに合わせて説明しているつもりですが……」
テーブルの下で、彼女が両手で膝をきつく押さえつけていた。手の甲に血管が浮いている。震えを止めようとしているのだ。
「私も、外にいる人たちと同じくらい、今あなたが怖いんです」
彼女は俺の目から逃げなかった。
「殺したいほど、憎い」
* * *
4年ぶりに帰ったあの家のリビングで、あの子が何を見たのか。お前は最後まで知ることはないだろう。
我々は知っている。あの子は一生、玄関のドアが開く音を怖がる。
それが、お前の残した左の前足だ。




