第159話 ラクリモーサ(4)
10月の最後の週、郵便受けに管理局の封筒が一通入っていた。
妻が封を切った。中には紙が一枚だけ。様式ではなかった。
白紙に定規を当てて引いた線で欄を作ってあった。欄は五つ。依頼機関、依頼対象、日時、場所、返信。
事由欄はなかった。
1年前の秋にも、同じ紙がこの家に届いた。ラーメンが持ってきた。妻がその話を先に持ち出した。
あのとき俺は、返信欄に「可」と一文字だけ書いた。
妻はその一文字を横から見ていた。俺がボールペンで食卓をトントンと叩くのも見ていた。
日時欄には明日の午後2時。場所欄には刑務所の接見室。12回のうち、最後だった。
妻は紙を食卓に置いた。返信欄を俺のほうへ回した。
俺はボールペンを取った。ところが、妻が俺の手からボールペンを取り上げた。
「今度は、私が書く」
「あなた宛てに来たわけじゃないでしょ」
「依頼対象の欄にあなたの名前があるだけで、返信する人の欄はないでしょう」
妻の言うとおりだった。返信する人の欄はなかった。妻が引いた欄には「返信」という見出しがあるだけだった。
誰が返信するのかは書かれていなかった。
妻が返信欄に書いた。欄は小さかった。妻の字は大きかった。
妻はペンを強く押さえた。紙が少し皺になった。
「夫は帰ってきます」
「夫は帰ってきま」までが欄の中に収まった。「す」は欄の下線を越えた。その払いが長く伸び、文字の下へもぐり込むように垂れていた。句点は紙の縁に打たれていた。
俺はその字を知っている。
4年前、警察署に提出した意見書の一行だけの欄を突き抜けて下へはみ出した字。事由不十分の判定を受けた字。
その字がまた、欄の外へあふれていた。今度は、誰も事由を問わない紙の上で。
「これで、十分?」
妻が訊いた。
「ああ」
* * *
翌日、接見室に録音機が一台持ち込まれた。
面談官が持ち込み届を出した。録音機、1点。用途、測定。
班長はその行を書き留めた。何も言わなかった。ただ、用途の欄にある『測定』という言葉を、一度だけ指で示した。
班長もこの部屋で何度も欄を新しく作ってきた。今日は、作る欄がなかった。
ガラスの向こうの七番目が、録音機を見た。それから、俺を見た。
「最後であろう」
「はい」
「十二回をすべて使い切った。残りはあるか」
俺は彼女を見た。
彼女は引き出しから出してきたグラフ用紙を、ガラスの手前にある棚の上に広げた。七番目に見えるように。マス目が彼の側を向くように。
一番上まで、あと四マス。
先月、妻があの名前を呼んだ翌日、点が一つ、マス一つ分だけ上に打たれた。それから、あの子の声はうちの台所を通り抜けて、妻の頭の真ん中まで届いた。
俺はそれを望んだ。そして、その代償にマスを一つ払った。俺が背負うと言った重さだった。
扉のそばの椅子で、刑務官がグラフを見た。何なのか分からない、という顔だった。それでも、それが怖いグラフだということだけは分かっている顔だった。
頭の真ん中で、あの子が言った。四人に。そして今ごろ、うちの台所で冷蔵庫の音を聞いているだろう妻に。
「おじさんの線、わたしのとまったく同じに進んでる。あのときキッドがその紙を見てどんな顔をしたか、わたし、知ってる。今のお姉ちゃんの顔が、それだよ」
彼女の顔は変わらなかった。手はポケットの上に置かれていなかった。先月から、彼女は薬入れを持ち歩かなくなっていた。
* * *
「計ります」
彼女が言った。
録音機の赤いランプが点いた。白い部屋の初日のように。
彼女は録音機の画面をこちらへ向けた。そして、待った。
俺は一秒を捕まえる準備をした。指先が音を探した。
壁時計。換気口。刑務官のボールペン。録音機の低い雑音。
そのとき、七番目が言った。
「待たれよ」
彼はガラスの前に立った。爪の下が黒い手を、棚の上に置いた。
「七月、そなたは捕まえなかった。ただ聞いただけであった。だから、わしは借りを返せたのだ。今日は、そなたが捕まえねばならぬ日である。計る日であるからな」
「はい」
「ならば捕まえよ。だが、独りで立つでない」
彼の目が俺に留まった。この部屋で初めて俺を見たときのように大きくなったきり、元の大きさには戻らなかった。そのまま、そこにあった。
「独りで立つ場所には、いつも別の誰かが代わりに立っている。そなたが独りで立てば、そなたの場所には、あの子が立つであろう」
彼は誰もいない方を見た。あの子がいる方を見た。
その言葉を、どんな思いをして知ったのかは、彼は付け加えなかった。爪の下が黒い手が、棚の上で一度握られ、開いた。
俺は訊かなかった。彼の章は、彼が開くときにだけ開く。
ただ、あの言葉が本から借りて読んだものではないことだけは分かった。彼がこの空へ来てから借りて読んだ本は多かったが、あの言葉は、どの本にもない言葉だった。
「では、どうすれば」
「七月のように数えよ。今度は、わしらが共に数えよう」
* * *
面談官は録音機を持ったまま、頷いた。刑務官がボールペンを置いた。あの子が言った。
「私が合わせましょう。皆に聞こえるように」
あの子の声が、頭の真ん中で数を数えた。四人に。そして、俺の家の台所にいる妻にも。
「一」
俺は1秒を掴んだ。
世界が止まった。壁時計の秒針が止まった。刑務官の手が記録紙の上で止まった。
彼女は息を継ぐ途中で止まった。ガラスの向こうで、七番目の唇が二を数えようと開いたまま止まった。
部屋が青く染まった。1年以上、毎朝見てきた色だった。
だが、止まらなかったものがあった。
頭の真ん中の声。あの子は止まらなかった。
あの子はこの部屋の時間の中にいなかった。止まった部屋の中で、その声が数え続けた。
「二」
止まった部屋の中で、止まっているはずの人たちの頭の中でも、その数字が鳴った。
俺はそれを感じた。彼女の頭の中で。七番目の頭の中で。扉のそばの刑務官の頭の中で。
止まった人たちは、止まったまま、その数字を聞いていた。
俺の家の台所にいる妻も、その時刻にその数字を聞いたのだと、その晩、妻が言った。俺一人で掴んだ1秒ではなかった。五人で一緒に数えた1秒だった。
あっちで11年、白い部屋で1年、俺は1秒を掴むたびに一人で数えた。三つ目は、いつも俺が決めた。
そして録音機の画面の数字の前には、いつもマイナス記号が付いていた。
引き出しの一番下のグラフ用紙には、点が一つずつ上へ打たれていた。使う日にも、使わない日にも。
今日は、その数字があった。
「三」
三が来た。俺が決めた三ではなかった。あの子が数えた三だった。五人で一緒に聞いた三。
俺はその三に合わせて、1秒を手放した。どちらにも傾けなかった。
その数字が来た場所で、その数字が来たままに。
布目に沿って。
* * *
秒針が動いた。
刑務官の手が、記録用紙の上に下りた。面談官が息を継いだ。七番目の唇が、二を越えて、三を数えた。声に出して。古風な語り口でもなく、ただ数字として。
「三」
面談官は録音機の画面を見た。長く見た。それから、俺のほうへ向けた。
同期エラー -00:00:00.00
マイナス記号はそのままだった。数字だけが、すべてゼロだった。
誰も何も言わなかった。
刑務官は記録用紙に目を落とした。要約欄は空だった。刑務官はボールペンを手に取り、その欄に、半年ぶりに何かを書きつけた。あとで写しを見た。
(面会人・収容者・同席者、ともに三を数えた。)
刑務官はその括弧のあとに、何も付け加えなかった。「比喩」とさえ書かなかった。
七番目が椅子に腰を下ろした。この部屋で初めて、彼は背を椅子の背もたれに預けた。
「すべて、数え終えたぞ」
彼は言った。それから、爪の下が黒い手を膝の上に置き、長いこと、その手を見なかった。
頭の真ん中で、あの子が言った。ごく小さな声で。だが不思議と、前より近かった。
「おじさん。もう、わたしは遠くへ行かないよ。近づくだけだよ」
俺には、その言葉が何を意味するのか、すべては分からなかった。ただ、方向もなく頭の真ん中から聞こえていたあの子の声が、その日初めて、ほんの少しだけ方向を持った。彼女の左肩のそばから。今年の夏、ベッドが置かれていた場所から。
* * *
最後の面会を終え、刑務所の廊下を出るときだった。
配膳口の方の角で、誰かが俺に頭を下げた。
脇腹を少し押さえた刑務官だった。
その人が言った。
「こんにちは」
俺は答えた。
「こんにちは」
相手はもう一度頭を下げ、配膳カートの方へ戻っていった。
カートの車輪が1つ、軋んだ。
俺はその音が廊下の端へ遠ざかるまで聞いていた。
* * *
その日の夕方、家の冷蔵庫の扉には紙が3枚貼ってあった。
欄が3つある委嘱状。欄が1つもないメモ。そして、返信欄からはみ出した同行依頼書。
妻はその3枚を、磁石2つで留めた。
1つ足りなかった。
妻は磁石を買いに行かなかった。3枚のうち2枚を、1つの磁石の下にまとめて挟んだ。
* * *
3日後、測定結果の報告書が差し戻された。
管理局のシステムが差し戻した。
差し戻しの事由欄には、自動で一行だけ印字されていた。
測定値0は測定値として認められない(入力範囲エラー)。
システムはゼロを受け取らなかった。
ゼロは、測ったものではなく、測らなかったものとして読み取られた。
妻はその差し戻し書を机の上に広げ、長いこと見ていた。
それから、引き出しの一番下の段を開けた。
小さな箱を取り出した。
棗の木の印章だった。
印面には、篆書体で三文字が刻まれていた。
妻が朱肉の蓋を開けた。
差し戻し書の再提出確認欄に、その印章を押した。
欄のちょうど真ん中に。
赤い三文字の名前が、欄の中に座った。
25年前、あの子は頭の中でこう尋ねたのだという。
「これ、書類に押してもいいの?」
その人は、いつか押す場所ができると答えたのだという。
再提出した書類は、翌日また差し戻された。
今度は、人が差し戻した。
総務課の担当者が、差し戻しの事由欄に手で書き込んだ。
確認欄の押印は公印ではない。
妻は、二度差し戻されたその書類を綴じなかった。
引き出しの一番下の段に入れた。
印章と一緒に。
頭の真ん中で、あの子が笑った。
「二度も差し戻されました。わたしの名前で。初めてです」
* * *
その週、俺の測定表の『一日の自己使用』欄が、空き始めた。
洗面台の前で、俺は何もしなかった。
次の日も。その次の日も。
測定の日だけ、俺は一秒を掴んだ。
その日、録音機の数字はいつもゼロだった。
誰も、そのゼロを受け取らなかった。
代わりに、その一秒は日ごとに、ほんの少しずつ短くなった。
掴んでいる手が、ほんの少しずつ緩んでいった。
越えてきた人たちは、たいていそうやって生きる。
五歳の子どもが、六番目に言った言葉だった。
「使えば使うほど減る。一年くらい経つと、握ってる手がほとんど開く。そのあとは、ただ生きるだけ。若い頃、ちょっと不思議なことがあったな、って思いながら」
次のページは、分からなかった。
だから、めくった。
* * *
その日、あの接見室の録音機は、零を記録した。
衛星の時間と、その部屋の時間が、初めて同じになった。
その日、三つを一緒に数えたのは、五人だった。
我々は六番目として、その数を聞いた。
我々が人々の数えに混じって、数を数えたのは、その日が初めてだった。




