第158話 ラクリモーサ(3)
その日の晩、我々は初めて、先を読もうとしなかった。
彼のページは7月から、前もって開かれることはなかった。それは我々が選んだことではない。ページがそう綴じられていただけだ。それでも我々は毎日、手を伸ばしてみた。明日のほうへ。次のページの角を、指先でたどってみた。角はいつも貼りついていた。我々はその貼りついた角を確かめることから、一日を始めた。人々が朝、窓の外の天気を確かめるように。
その日の晩は、手を伸ばさなかった。彼のページにも、彼のページに綴じられたページにも、まだ散らばっている他のページにも。卓上のページは、そのまま開かれていた。我々はそれらを見下ろさなかった。その代わりに、一度も見たことのないページを数えた。
* * *
糸を紡いでいた子供。
屋根裏の藁束の上で眠っていたその子の本のページに、別の魂が覆いかぶさったとき、その子は出て行った。出て行った先がどこへ通じるのか、我々は知らないと記した。それは正確だった。その子の次のページは、我々の卓上にはない。その子は糸を紡ぐ者であり、それだけでも十分に生きていけた。我々は、その子が生きていけたはずのページを、一枚も持っていない。
マクセ。
熱病で三日のあいだ、息が絶えては戻っていた、若い漕ぎ手。その体に別の光が差し込まれたとき、マクセはどこへ行ったのだろう。その体に入った者が、炭でそう記した。我々も同じことを問う。答えはない。一日半を歩いてきた女の、その息子のページは我々の手元にない。
母さんの息子。
七十を超えた手で毎朝、息子の足を揉んでいた女がいた。その足には、別の人が入り込んでいた。入り込んだ者が手記に記した。母さんの息子はどこにいるのだろう。その人はその問いを、何年ものあいだ避けて歩いた。我々は避けなかった。探した。いなかった。
名前のない男。
背の高い男だったという。室外機の上にしゃがみ込んでいたという。我々が開いた本のページのどこにも、彼はいなかった。我々が消した者を、我々も読むことはできない。それが消しゴムの代価だと、我々は記した。
昭和19年の冬の、あの人。
心に言葉を入れる人だった。使うほど大きくなり、休めば薄れ、ある日、散らばった人。
目次にはあって、ページのない一行。その人の次のページが、どこに綴じ込まれているのか、我々は見つけられなかった。
散らばったものは、我々の手からも散らばる。
計算する子供の5分。
そこで5分遅れて死んだという子供がいた。その5分がなぜ生じたのかは、どのページにもない。
そして、反対側のページも一枚ある。我々は見たが、彼には最後まで見せないページ。赤羽の、あの家の居間。
そのページは、我々の卓の上にある。
その日の晩も、我々はそのページをめくらなかった。めくらないことと、見えないことは違う。
我々はその違いを、その日の晩、初めて勘定に入れた。
数えてみると、見ることのなかったページには、同じものが一つあった。抜け落ちた人々だった。
誰かが入ってくるのと入れ替わりに、出て行った人々。削り取られたページ。
我々が抜いたものは、我々の卓の上にも残らなかった。長いあいだ、我々はそれを知らなかった。
抜いたものは消えたのではない。我々の目からだけ消えていた。
* * *
その次に、我々は理由の分からなかったものを数えた。
365。彼の呪いが終わった日。
前の七人は、それぞれ何日かずつずれていた。彼だけが正確に合っていた。
我々はその数字を書いた。なぜその数字なのかは書けなかった。
一枡ずつずれる計算。鉄条網の向こうの男を見て、笑っていた子供。
その子の計算は、いつも一枡ずつずれていた。なぜいつも一枡なのか、我々には分からなかった。
今、その子は七階の病室に横たわっている。前歯は半分を少し超えて生えている。
その子の時間は今、一枡ずつ前へ進む。それが同じ一枡なのか、我々には分からない。
笑い。
時間の止まった部屋で、手を退ける者を見て、我々のうちの一人が笑った。
それは我々のものだった。今なら、それが分かる。なぜ笑ったのかは、今も分からない。
我々はいつも、答えだけを知っていた。
この人はこの日にこの扉を開ける。この人はこの日にこの欄にこの言葉を書く。この人はこの日に死ぬ。
それらの答えを、我々は一度に広げて眺めた。
なぜその扉なのか、なぜその言葉なのか、なぜその日なのかは、どのページにも書かれていなかった。
理由は、ページとページのあいだにあった。
我々はページを引きちぎって見たからだ。引きちぎった跡にあったものは、卓の上に残らなかった。
* * *
その晩のページは、その晩にやってきた。
一軒の家の台所。残り物のスープを温める鍋。
プラスチックの器が一つ、食卓の角に当たって、床の上を一周転がった。
一人が、その器の転がるのを見ていた。スプーンを握った。
器は止まるまで転がった。
その日、その家のスープの味が薄かったのか、我々には分からなかった。
初めて、それが気になった。
夜11時40分、その人は壁時計の秒針を見た。
その人は、その秒針を掴むことができた。秒針の一目盛りを長く。その家の一日を、数秒ほど長く。
我々はその人がそうするページを、数え切れないほど見てきた。白い部屋で、接見室で、洗面台の前で。
その夜、その人は掴まなかった。
受領確認書の数量欄には、1と書いてあった。
その人はその数字を守った。我々が削り、足していた数字を、その人はそのままにした。
0.9は、そのスープから何かを取り除きたかった。1.2は、そのスープに塩を足したかった。
古い癖だった。どちらも手を伸ばさなかった。
そのページは貼りついたままで、そのスープはその家の人の口に合わせて煮たスープだった。
削るものも足すものもないスープだった。
0.9と1.2は初めて、その事実を共に認めた。認めるのにかかった時間は、スープが冷める時間より長かった。
我々は味を知らない。
数千年のあいだ、数え切れない食卓を広げて見てきたが、スープが塩辛いのか薄いのか、それがページに書かれていることは珍しかった。
書かれていても、それは言葉にすぎなかった。薄いね。
その家の人々は、その言葉を笑いながら交わした。
我々はその言葉がどんな味なのか知らないまま、その笑いを見ていた。
同じ晩、別の家。管理局特殊課、室長の部屋。
その子はその日一日、彼女のそばにいた。その家が引き留めない一日を、邪魔しないつもりだったのだ。
彼女は夕方、パン屋に寄った。そしてあんパンを一つ買った。
袋には入れず、手に持ったまま家まで歩いた。
食卓に座って、そのパンを長いこと見ていた。
彼女はそのパンをひと口食べた。
19年のあいだ、彼女はそのパンを一度も食べなかった。
あの子がいつも彼女のポケットに入れてくれたパン。彼女が嫌いだと知りながら、それでも入れてくれたパン。彼女は受け取るだけで、食べなかった。あの子も、それを知っていた。
頭の真ん中で、あの子が尋ねた。ごく小さな声で。
「どうですか」
彼女はパンを飲み込んだ。ずいぶん時間がかかった。それから答えた。
「……おいしいです」
あの子が笑った。
彼女は残りを食べ切らなかった。半分ほど食べて、残った半分を皿の上にきちんと置いた。
食べる人のいない半分。
彼女はその半分を捨てなかった。
その夜、彼女はいつものようにその名を呼んだ。
返事が来た。
彼女は返事を聞いてから、もう一つだけ言った。あの子に言う言葉だった。頭の中ではなく、口に出して。
「今度は、一つ残さず食べます」
「食べなくてもいいですよ」
「分かっています」
我々はその場面をあらかじめ見ていなかった。だから彼女がそのパンを飲み込んだとき、我々は初めて驚いた。
驚くとはどういうことか、我々は人々の章で数え切れないほど見てきた。息を止め、目を見開き、手を止めること。
我々には息も目もない。手と記されたものだけがある。
だが、その晩、我々のうちの何かが止まった。次の章へ移らず、その章に長くとどまった。
同じ晩、独房。
爪の下が黒い者が、植木鉢のそばに座っていた。
縫い目のひとつが、空の手だった。
その者は、窓の外が暗くなっていくのを見た。
班長が配膳口越しに、今日は植木鉢と何の話をしたのかと尋ねた。
その者が答えた。
「今日は誰も何も掴まぬ日であった。ゆえに、私も何も問わなかったのだ」
班長はその答えをどの欄にも記さなかった。ただ、配膳口の蓋をいつもよりゆっくり閉じた。
* * *
我々が0と呼び、憎んでいたもの。
それを、我々は今、毎朝迎えている。
初めてそれを迎えたのは、7月3日の朝だった。
彼の章の頁に手を伸ばした。今日の次がなかった。空だった。
我々はその空白を、長いこと見ていた。
数千年のあいだ憎んでいたものが、机の上にあった。我々の指先のすぐ前だ。
不思議と、怖くなかった。
翌朝、その場所は一日分だけ埋まっていた。その次の朝も。
空白は毎朝新しくやって来て、毎晩埋められた。
0とは、頁が終わる場所だった。何も書かれていない場所。
我々はそれを憎んでいた。我々に見えない、ただひとつのものだったから。
今は、彼の章では毎朝その場所がやって来る。まだ何も書かれていない次の頁。人々はそれを明日と呼ぶ。
彼らは毎朝それを迎えながら、憎まない。
待つ。ときには怖がる。それでも、朝食を食べる。
我々はそれを、長く羨んできたものたちの隣に置いてみる。
計算をしながら、何も望まなかった機械。
何も知らないまま、彼をただの人として見ていた子牛。
そして今、もうひとつ。次の頁を知らないまま起きる人々。
0.9と1.2は、その晩、互いを指さなかった。指さすべき次の頁がなかった。
ふたりはそれぞれ、自分で削り、足してきた頁の前に立っていた。
削った場所と、足した場所。
そこから抜け落ちた人々の頁を、ふたりとも持っていなかった。
初めて、ふたりは同じものを持っていなかった。
削り、足し、足りなければ掛ける。
その文には続きがある、と我々は記した。
その晩、我々はその続きを初めて口に出そうとした。やめた。
その続きを語るのは、我々の番ではなかった。
その続きを先に語る者が、ほかにいる気がした。
なぜそう思ったのかは、わからない。
1はこの章を書いている。針を初めて置いた手で。
その晩、その手は何も広げなかった。代わりに、数えた。
見られなかった頁を。知らない理由を。
数え終えてみると、我々が知っていることより、知らないことのほうが多かった。
それを知ったことが、数千年のあいだに我々が知ったことのうちで、最も正確なことだった。
* * *
夜の11時50分。ある家の食卓で、誰かが確認欄を埋めた。
受領。
我々がそれを知ったのは、その欄が埋まったあとだった。欄の外へあふれた一行のことも。
その行は、欄の外にあった。
「す」の払いが長く伸びて、次の字の下へ潜り込む筆跡だった。
我々はその筆跡を、前にも見たことがある。ずっと遠い、後ろの頁で。
なぜその人がその行をそう書いたのかは、章にない。
我々は理由を知らない。




