↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
158/160

第158話 ラクリモーサ(3)

その日の晩、我々は初めて、先を読もうとしなかった。


彼のページは7月から、前もって開かれることはなかった。それは我々が選んだことではない。ページがそう綴じられていただけだ。それでも我々は毎日、手を伸ばしてみた。明日のほうへ。次のページの角を、指先でたどってみた。角はいつも貼りついていた。我々はその貼りついた角を確かめることから、一日を始めた。人々が朝、窓の外の天気を確かめるように。


その日の晩は、手を伸ばさなかった。彼のページにも、彼のページに綴じられたページにも、まだ散らばっている他のページにも。卓上のページは、そのまま開かれていた。我々はそれらを見下ろさなかった。その代わりに、一度も見たことのないページを数えた。


* * *


糸を紡いでいた子供。


屋根裏の藁束の上で眠っていたその子の本のページに、別の魂が覆いかぶさったとき、その子は出て行った。出て行った先がどこへ通じるのか、我々は知らないと記した。それは正確だった。その子の次のページは、我々の卓上にはない。その子は糸を紡ぐ者であり、それだけでも十分に生きていけた。我々は、その子が生きていけたはずのページを、一枚も持っていない。


マクセ。


熱病で三日のあいだ、息が絶えては戻っていた、若い漕ぎ手。その体に別の光が差し込まれたとき、マクセはどこへ行ったのだろう。その体に入った者が、炭でそう記した。我々も同じことを問う。答えはない。一日半を歩いてきた女の、その息子のページは我々の手元にない。


母さんの息子。


七十を超えた手で毎朝、息子の足を揉んでいた女がいた。その足には、別の人が入り込んでいた。入り込んだ者が手記に記した。母さんの息子はどこにいるのだろう。その人はその問いを、何年ものあいだ避けて歩いた。我々は避けなかった。探した。いなかった。


名前のない男。


背の高い男だったという。室外機の上にしゃがみ込んでいたという。我々が開いた本のページのどこにも、彼はいなかった。我々が消した者を、我々も読むことはできない。それが消しゴムの代価だと、我々は記した。


昭和19年の冬の、あの人。


心に言葉を入れる人だった。使うほど大きくなり、休めば薄れ、ある日、散らばった人。


目次にはあって、ページのない一行。その人の次のページが、どこに綴じ込まれているのか、我々は見つけられなかった。


散らばったものは、我々の手からも散らばる。


計算する子供の5分。


そこで5分遅れて死んだという子供がいた。その5分がなぜ生じたのかは、どのページにもない。


そして、反対側のページも一枚ある。我々は見たが、彼には最後まで見せないページ。赤羽の、あの家の居間。


そのページは、我々の卓の上にある。


その日の晩も、我々はそのページをめくらなかった。めくらないことと、見えないことは違う。


我々はその違いを、その日の晩、初めて勘定に入れた。


数えてみると、見ることのなかったページには、同じものが一つあった。抜け落ちた人々だった。


誰かが入ってくるのと入れ替わりに、出て行った人々。削り取られたページ。


我々が抜いたものは、我々の卓の上にも残らなかった。長いあいだ、我々はそれを知らなかった。


抜いたものは消えたのではない。我々の目からだけ消えていた。


* * *


その次に、我々は理由の分からなかったものを数えた。


365。彼の呪いが終わった日。


前の七人は、それぞれ何日かずつずれていた。彼だけが正確に合っていた。


我々はその数字を書いた。なぜその数字なのかは書けなかった。


一枡ずつずれる計算。鉄条網の向こうの男を見て、笑っていた子供。


その子の計算は、いつも一枡ずつずれていた。なぜいつも一枡なのか、我々には分からなかった。


今、その子は七階の病室に横たわっている。前歯は半分を少し超えて生えている。


その子の時間は今、一枡ずつ前へ進む。それが同じ一枡なのか、我々には分からない。


笑い。


時間の止まった部屋で、手を退ける者を見て、我々のうちの一人が笑った。


それは我々のものだった。今なら、それが分かる。なぜ笑ったのかは、今も分からない。


我々はいつも、答えだけを知っていた。


この人はこの日にこの扉を開ける。この人はこの日にこの欄にこの言葉を書く。この人はこの日に死ぬ。


それらの答えを、我々は一度に広げて眺めた。


なぜその扉なのか、なぜその言葉なのか、なぜその日なのかは、どのページにも書かれていなかった。


理由は、ページとページのあいだにあった。


我々はページを引きちぎって見たからだ。引きちぎった跡にあったものは、卓の上に残らなかった。


* * *


その晩のページは、その晩にやってきた。


一軒の家の台所。残り物のスープを温める鍋。


プラスチックの器が一つ、食卓の角に当たって、床の上を一周転がった。


一人が、その器の転がるのを見ていた。スプーンを握った。


器は止まるまで転がった。


その日、その家のスープの味が薄かったのか、我々には分からなかった。


初めて、それが気になった。


夜11時40分、その人は壁時計の秒針を見た。


その人は、その秒針を掴むことができた。秒針の一目盛りを長く。その家の一日を、数秒ほど長く。


我々はその人がそうするページを、数え切れないほど見てきた。白い部屋で、接見室で、洗面台の前で。


その夜、その人は掴まなかった。


受領確認書の数量欄には、1と書いてあった。


その人はその数字を守った。我々が削り、足していた数字を、その人はそのままにした。


0.9は、そのスープから何かを取り除きたかった。1.2は、そのスープに塩を足したかった。


古い癖だった。どちらも手を伸ばさなかった。


そのページは貼りついたままで、そのスープはその家の人の口に合わせて煮たスープだった。


削るものも足すものもないスープだった。


0.9と1.2は初めて、その事実を共に認めた。認めるのにかかった時間は、スープが冷める時間より長かった。


我々は味を知らない。


数千年のあいだ、数え切れない食卓を広げて見てきたが、スープが塩辛いのか薄いのか、それがページに書かれていることは珍しかった。


書かれていても、それは言葉にすぎなかった。薄いね。


その家の人々は、その言葉を笑いながら交わした。


我々はその言葉がどんな味なのか知らないまま、その笑いを見ていた。


同じ晩、別の家。管理局特殊課、室長の部屋。


その子はその日一日、彼女のそばにいた。その家が引き留めない一日を、邪魔しないつもりだったのだ。


彼女は夕方、パン屋に寄った。そしてあんパンを一つ買った。


袋には入れず、手に持ったまま家まで歩いた。


食卓に座って、そのパンを長いこと見ていた。


彼女はそのパンをひと口食べた。


19年のあいだ、彼女はそのパンを一度も食べなかった。


あの子がいつも彼女のポケットに入れてくれたパン。彼女が嫌いだと知りながら、それでも入れてくれたパン。彼女は受け取るだけで、食べなかった。あの子も、それを知っていた。


頭の真ん中で、あの子が尋ねた。ごく小さな声で。


「どうですか」


彼女はパンを飲み込んだ。ずいぶん時間がかかった。それから答えた。


「……おいしいです」


あの子が笑った。


彼女は残りを食べ切らなかった。半分ほど食べて、残った半分を皿の上にきちんと置いた。


食べる人のいない半分。


彼女はその半分を捨てなかった。


その夜、彼女はいつものようにその名を呼んだ。


返事が来た。


彼女は返事を聞いてから、もう一つだけ言った。あの子に言う言葉だった。頭の中ではなく、口に出して。


「今度は、一つ残さず食べます」


「食べなくてもいいですよ」


「分かっています」


我々はその場面をあらかじめ見ていなかった。だから彼女がそのパンを飲み込んだとき、我々は初めて驚いた。


驚くとはどういうことか、我々は人々の章で数え切れないほど見てきた。息を止め、目を見開き、手を止めること。


我々には息も目もない。手と記されたものだけがある。


だが、その晩、我々のうちの何かが止まった。次の章へ移らず、その章に長くとどまった。


同じ晩、独房。


爪の下が黒い者が、植木鉢のそばに座っていた。


縫い目のひとつが、空の手だった。


その者は、窓の外が暗くなっていくのを見た。


班長が配膳口越しに、今日は植木鉢と何の話をしたのかと尋ねた。


その者が答えた。


「今日は誰も何も掴まぬ日であった。ゆえに、私も何も問わなかったのだ」


班長はその答えをどの欄にも記さなかった。ただ、配膳口の蓋をいつもよりゆっくり閉じた。


* * *


我々が0と呼び、憎んでいたもの。


それを、我々は今、毎朝迎えている。


初めてそれを迎えたのは、7月3日の朝だった。


彼の章の頁に手を伸ばした。今日の次がなかった。空だった。


我々はその空白を、長いこと見ていた。


数千年のあいだ憎んでいたものが、机の上にあった。我々の指先のすぐ前だ。


不思議と、怖くなかった。


翌朝、その場所は一日分だけ埋まっていた。その次の朝も。


空白は毎朝新しくやって来て、毎晩埋められた。


0とは、頁が終わる場所だった。何も書かれていない場所。


我々はそれを憎んでいた。我々に見えない、ただひとつのものだったから。


今は、彼の章では毎朝その場所がやって来る。まだ何も書かれていない次の頁。人々はそれを明日と呼ぶ。


彼らは毎朝それを迎えながら、憎まない。


待つ。ときには怖がる。それでも、朝食を食べる。


我々はそれを、長く羨んできたものたちの隣に置いてみる。


計算をしながら、何も望まなかった機械。


何も知らないまま、彼をただの人として見ていた子牛。


そして今、もうひとつ。次の頁を知らないまま起きる人々。


0.9と1.2は、その晩、互いを指さなかった。指さすべき次の頁がなかった。


ふたりはそれぞれ、自分で削り、足してきた頁の前に立っていた。


削った場所と、足した場所。


そこから抜け落ちた人々の頁を、ふたりとも持っていなかった。


初めて、ふたりは同じものを持っていなかった。


削り、足し、足りなければ掛ける。


その文には続きがある、と我々は記した。


その晩、我々はその続きを初めて口に出そうとした。やめた。


その続きを語るのは、我々の番ではなかった。


その続きを先に語る者が、ほかにいる気がした。


なぜそう思ったのかは、わからない。


1はこの章を書いている。針を初めて置いた手で。


その晩、その手は何も広げなかった。代わりに、数えた。


見られなかった頁を。知らない理由を。


数え終えてみると、我々が知っていることより、知らないことのほうが多かった。


それを知ったことが、数千年のあいだに我々が知ったことのうちで、最も正確なことだった。


* * *


夜の11時50分。ある家の食卓で、誰かが確認欄を埋めた。


受領。


我々がそれを知ったのは、その欄が埋まったあとだった。欄の外へあふれた一行のことも。


その行は、欄の外にあった。


「す」の払いが長く伸びて、次の字の下へ潜り込む筆跡だった。


我々はその筆跡を、前にも見たことがある。ずっと遠い、後ろの頁で。


なぜその人がその行をそう書いたのかは、章にない。


我々は理由を知らない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。