第157話 ラクリモーサ(2)
その朝、俺は洗面台の前で何もしなかった。
1年以上、毎朝やってきたことだった。顔を洗うのと同じくらいに。
蛇口をほんの少しだけ開ける。落ちてくる水滴をひとつ捕まえる。この一秒を。そして離す。
測定表には1日1回と書かれていた。欄がまた開いてから、俺はその欄を飛ばしたことがない。
その日は蛇口をひねって、顔を洗った。水は手のひらに溜まって、こぼれた。落ちる水滴が見えた。指先が動いた。俺はその手を洗面台の縁に置いた。手のひらで陶器を押さえた。水滴は排水口へ落ちた。次のも。その次も。
指先がむずむずした。蚊に刺された跡のように。掻けない場所だった。
鏡の中の顔は昨日より一日老けていた。それだけだった。鏡は最初から嘘をつかない。今日は鏡の前で我に返ることもなかった。時間を使わなかったから、失った数秒もない。歯を磨き終わるまでに水滴は3つ落ちた。3つとも、そのまま流した。
台所で妻がその音を聞いていた。水が排水口へ落ちる音。いつもなら一度途切れて、また続く音だった。今日は途切れなかった。
妻は食卓に匙を置きながら、洗面台のほうへ向かって言った。
「今日は途切れないね」
俺は答えなかった。
妻はそれでいいという顔で、残りの匙を置いた。2本。妻は1年、その途切れる音を聞きながら朝食を用意していた。何が途切れているのかは、聞かなかった。
* * *
誕生日のスープは俺が作った。
妻が作ると言った。俺はやめろと言った。妻は理由を聞いた。誕生日だからだ、と俺は答えた。妻はその理由で十分だと言った。理由は十分。
俺はスープを煮ながら、味見を三度した。三度とも少し薄かった。塩を足しかけて、やめた。妻の口にはこれで合っていた。4年以上、一人で煮て食べてきた口だった。
妻はそのスープをひと匙飲んで言った。
「薄いね」
「お前の口に合わせた」
「だから薄いって言ってるの」
妻は笑った。そして器を一つ空けた。
頭の真ん中で、あの子がごく小さく言った。
「お誕生日おめでとう、おばさん」
妻は匙を持ったまま、冷蔵庫のほうを見た。ありがとう、と言った。声に出して。
「今日はあの姉ちゃんのところにいるね。おじさんが今日は一日つかまえないって言ったでしょ。わたしがいると、おじさん、わたしのこと気にしちゃうでしょ」
その子の声は静かになった。あの姉ちゃんのそばへ行ったのだ。三人のうちの、もう一人のそばへ。台所には冷蔵庫の音だけが残った。
* * *
昼ごろ、俺たちは近所の市場へ行った。妻が買うものがあると言った。何とは言わなかった。
市場は混んでいた。魚屋の前で店主が妻を呼び止めた。今日はサバがいい、という話だった。
妻は誕生日だから魚は買わないと言った。店主は誕生日なら余計に買うべきだと言った。二人はその問題でしばらく言い争った。妻が勝った。
妻は魚を買わず、店主から誕生日おめでとうをもらった。おまけだった。
市場の入り口で、風船を持った子どもが一人、前を通り過ぎた。五歳くらい。手に握った紐が滑った。風船が浮かんだ。子どもが顔を上げた。
風船はゆっくり上がっていった。とてもゆっくり。俺の手が届く高さを、通り過ぎようとしていた。
指先が音を探り当てた。風船の紐が風に擦れる音。子どもの息。市場の呼び込みの声。
俺はつかまえなかった。
あっちでは、俺は飛んでくるものを全部つかまえた。矢、石、火のついた油の壺。それらは俺の手の届く距離で止まり、俺はその間を歩いて出た。
飛んでいくものをつかまえたことはない。飛んでいくものは危険ではなかったから。
風船は飛んでいく側だった。それなのに俺の指先は、飛んでくるものと飛んでいくものを区別しなかった。両方つかまえろ、と言った。
風船は商店街の日よけの上まで上がった。
子どもが泣いた。母親がその子を抱き寄せた。俺は泣き声を最後まで聞いた。
俺がつかまえていたら、あの子は泣かなかっただろう。風船は子どもの手に戻っていただろう。そして母親は、今何が起きたのか分からない顔で、ほんの一秒ほど、どこかへ行っていたはずだ。
妻が俺の袖を引っ張った。それから近くの文房具店で、風船を一つ買った。赤いやつだ。
妻はそれを泣いている子どもに渡した。紐は子どもの手首にひと巻きしてやった。子どもは泣きやんだ。
「これは私にできることだから」
帰り道で、妻が言った。
「あなたがつかまえないなら、私がもう一つ買えばいい」
俺は答えなかった。妻の手に提げられていた買い物かごを受け取った。
かごの中に何が入っているのか、そのときも知らなかった。妻は会計のとき、俺を店の外に立たせていた。
* * *
午後、妻はリビングの床に座って買い物かごをほどいた。紙の束と、定規とボールペンが出てきた。文房具店で買ったものだった。
妻は定規を当てて、紙に枠を引き始めた。手つきはぎこちなかった。線は少しずつ傾いていった。
妻は枠を引く人ではなかった。枠からはみ出す人だった。
俺は妻の隣に座った。何を作っているのかは訊かなかった。妻も言わなかった。
代わりに、別の話をした。枠を引きながら、顔は上げないまま。
「あの日のこと。あなたが熊の頭をかぶってきた日」
「ああ」
「あの室長、あなたに何て言ったの? 私がドアを開けなかったことについて」
「俺の頼みのせいじゃないって」
「それで?」
「直接、本人に聞けって」
妻が定規を置いた。それでも顔は上げなかった。
「じゃあ、聞いて」
俺はその質問を一年間、持ち続けていた。あの日、車の中で受けた質問だった。食卓でも、皿を洗っているときも、この家の玄関で靴を脱ぐときも。
妻には訊かなかった。訊かなかったのは、答えが分かっている気がしたからだ。分かっている答えを、妻の口から聞くのが怖かった。
あの夜のことを思い出していた。
熊の頭の覆面。毛糸越しに伝わってきたドアの冷たさ。下の階でセンサー灯が一つ、また一つと消えていく音。そして、ドアの内側の沈黙。
取っ手は回らなかった。
俺はその沈黙を、この一年で何度も聞き直した。聞き直すたびに、違う理由をつけてみた。怖かったから。腹が立っていたから。俺との約束を守ろうとしたから。
その理由は一つずつ、枠から消されていった。最後に一つだけ、枠が残った。
「あの日、俺、ドアを開けるなって言ったよな」
「うん」
「あんたは、なんでだって訊いた。俺は25日だけだって言った」
「うん」
「それから、俺も行かなきゃいけないって」
妻のボールペンが、紙の上で止まった。
「あの日、開けてたら、あんたは俺がまた行くのを見なきゃいけなかった。ドアの前で」
妻は答えなかった。
「4年のあいだ、毎日、俺の顔を見てたよな。写真で」
「うん」
「その顔を一晩だけ本物で見て、また行くのを見る。それが嫌だった?」
妻が顔を上げた。眼鏡が額の上にあった。怒ると押し上げる眼鏡だ。妻は怒ってはいなかった。
「ドアが閉まる音」
妻が言った。
「あなたが赤羽に行った日、空港でもドアの閉まる音を聞いた。出国ゲートの自動ドア。あの音をもう一度聞くのは無理だと思った。今度は、うちのドアの音で」
「うん」
「だから開けなかった。あなたの頼みだからじゃない。あなたがまた出ていくドアを、私の手で開けたくなかったから」
俺は妻を見た。妻は泣いていなかった。妻はその話を、この一年、一度もしなかった。俺が訊かなかったから。訊かなかった質問には、妻は最後まで答えない。そして、訊けば、枠からあふれるほど答えた。
「そうだよな」
俺は言った。
「そう」
妻は眼鏡を下ろしてかけた。そして、また定規を持った。
「もう訊き終わったなら、どいて。これ、今日中に全部引かなきゃいけないの」
俺は横にどいた。妻はまた枠を引いた。線が傾いた。消しゴムで消して、また引いた。また傾いた。三度目に妻は定規を置いて、手で引いた。手で引いた線は、最初から傾いていた。
なのに、不思議とその線が一番まっすぐに見えた。定規を当てて引いた線は定規がまっすぐなのであって、手で引いた線は手がまっすぐなのだった。
その線を見ながら、俺は彼女のことを考えた。
定規を当てて枠を引く人。
枠の中に、まっすぐ字を書く人。
妻はその反対だった。
なのに、二人は同じことをしていた。型のない仕事に枠を作る仕事。その枠が、その仕事にぴったり合うように。
* * *
日が沈むころ、俺は携帯の電源を入れた。朝から切ったままだった。
不在着信はなかった。メッセージもなかった。
彼女は決裁したとおりにした。綴じないままの書類が一枚、一日のあいだ守られた。
夕方、妻が紙を一枚、食卓の上に置いた。
枠が五つあった。一番上に、妻の字で題があった。枠より大きかった。
受領確認書。
その下に、枠が並んでいた。品名、数量、受領日時、受領人、確認。
品名の欄には「一日」。数量の欄には「1」。受領日時の欄には今日の日付。朝の7時から夜の12時まで。受領人の欄には妻の名前。
妻は自分の名前を、俺の名前より少し小さく書く人だった。だが、この欄には俺の名前がなかった。だから妻の名前は枠にぴったり収まった。
確認の欄だけが空いていた。
「確認はいつするんだ」
「一日が全部終わってから書くものよ」
妻が言った。それからボールペンのキャップを閉めた。
俺たちは夕飯を食べた。残ったスープを温め直して。
妻が器を落とした。プラスチックの器だった。器は食卓の角に当たり、床の上で一回転した。
俺はその器が転がるのを見ていた。指先が動いた。俺はスプーンを握った。器は止まるまで転がった。
妻が器を拾って流しに入れた。何も言わなかった。ただ、俺のほうを一度見て笑った。
夜が更けた。俺たちはソファに座り、テレビをつけたまま見なかった。
壁時計がカチカチと音を立てた。11時40分。
俺はその秒針を見た。秒針は一目盛りずつ進んだ。
つかまえれば、今日をもう少し長くできた。
秒針の一目盛りを長く。何度でも。妻の誕生日を、数秒だけ長く。
俺はしなかった。
妻が受け取ったのは一日だった。一日より長い一日ではなかった。
受領確認書の数量欄には、1と書いてあった。
夜の11時50分、妻がボールペンを取った。確認の欄に書いた。
欄は小さかった。妻の字は大きかった。
「受」は欄の中に収まった。「領」は欄の右の線を越えた。句点は欄の外に打たれた。
妻はその下、枠のない紙の余白に、もう一行書いた。
「す」の払いが長く伸びて、次の「る」の下へ潜り込む字だった。
「受領。明日は二人とも知らないことにする」
* * *
その日、あの人がつかまえたものは何もなかった。水滴も、風船も、器も。
我々はその一日を、まる一日見ていた。確認の欄が埋まるのを、その欄が埋まったあとで知った。




