第156話 ラクリモーサ(1)
委嘱された者に、休暇はなかった。
9月の最初の週、俺がそれを訊くと、彼女はそう答えた。
委嘱期間は編綴が完了するまで。出勤の義務がないのだから、休暇もない。休みたい日は来なければいい。
「来ない日は、事前にお伝えしておきたいのですが」
「なぜです」
「その日は、何があっても連絡がつかないようにしておきたいので」
彼女は俺を見た。それから引き出しから白紙を一枚取り出し、定規を当てて枠を引いた。
枠は四つ。氏名、日付、事由、決裁。
書式のない仕事に彼女が枠を引くのを、俺は何度も見てきた。その枠はいつも、その仕事にぴたりと合っていた。
俺は日付欄に10月下旬の金曜日を書いた。事由欄にも書いた。
妻の誕生日。
彼女は決裁欄に判を押した。室長専決。
1年前、白い部屋の最後の日、クリップボードの確認欄に押された判は少し傾いていた。今度は枠のちょうど真ん中に、まっすぐ収まっていた。
彼女は判を上げ、紙を俺に渡した。
「この書類はどこにも綴じません。お持ちください」
「決裁をもらったのに、綴じないんですか」
「綴じる場所がありません。委嘱された人の休暇を受け付ける綴じ込みは、この部署にないんです。それでも、決裁はされています」
* * *
同じ日の午後、俺は彼女にもう一つだけ言った。
「妻に話します」
彼女はボールペンを置いた。何を話すのかは、訊かなかった。
「それは三人で決めたことです。あの部屋の外では、誰にも。部署にも、奥様にも、刑務官にも」
「刑務官はもう知っています」
「刑務官は聞きました。私たちが話したのではありません」
「妻には、私が話したいんです。彼女が耳にする前に」
理由を話した。短く。
あの子は、名を呼ばれるたびに半拍ずつ近づいてくる。去年の秋、接見室で妻がその名を29回目に呼んだときが、そうだった。
あの子を体まで連れてくるには、その名を呼んでやる者がいなければならない。
だが、秘密は呼べる者を減らす。三人が隠す名は、三人しか呼ばない。
そしてあの子はもう、毎晩うちの台所に来ている。妻が眠っている間に。冷蔵庫の音を聞きに。
妻だけが、知らない。
「一人増えるたびに、あの子は手のひら一つ分ずつ遠ざかります」
彼女は正確に言った。
「遠ざかるほど何が近づくか、この前の四月にご覧になったはずです」
「分かっています」
「それでも、ですか」
「その重さは、私が背負います」
彼女は長いこと黙っていた。それから、ほんの少しだけ顔を上げた。
頭の真ん中から、あの子が喋った。彼女が心の中で、あの子に何か頼んだのだ。
「ハルヤンおじさんに聞いてみるね」
あの子の声が静かになった。数分後、戻ってきた。
「独房で声に出して答えたって。班長のおじさんが、配膳口で誰と話してるんだって訊いたんだって。おじさん、植木鉢とだって言ったって」
「何と申した」
「そうなさい。名は、呼ぶ者が多いほど重くなる。重い名は、そう簡単には散らぬ。それから、もう一つ。そなたが背負うと言うのなら、独りで背負わせるなと伝えよ。……姉さんに、だって」
彼女はその最後の言葉を聞いた。
彼女の手は、ポケットの上にあった。薬の入ったポケット。
彼女はその手をポケットから離し、机の上に置いた。
そして、言った。
「どうぞ、そうなさってください。奥さまが初めてその名をお呼びになるとき、私も聞いております」
* * *
管理局を出た帰り、彼女は車を川辺へ向けた。何も言わずに。
公園の駐車場に車を止めると、降りろとも言わずに先に降りた。俺も続いて降りた。
川辺に木が一本あった。大きな木だった。葉はまだ青かった。
彼女はその木の前に立った。長いこと。そして、何の説明もしなかった。
俺も訊かなかった。
彼女が毎年5月12日の午後に席を外すということだけ、俺は知っていた。その場所が、この木だった。
彼女の頭の真ん中から、あの子が喋った。俺にだけ、ごく小さな声で。
「お姉ちゃん、今年はパン、二つしか買わなかったよ」
「いつもは三つ買うんだ。一つはお姉ちゃんが食べないの。一つは食べる人がいないの。一つはここに置いて帰るの。でも今年は僕も一緒に来たでしょ。だから僕が言ったんだ。食べる人がいないぶんは、一つ減らしてって。僕、ここにいるもん。食べられなくても、いるよ」
俺は木を見た。木の下には何もなかった。四か月前のパンは、鳥が食べたのだろう。
木から少し離れたところに、ベンチが一脚あった。ペンキの剥げたベンチだった。
彼女はそのベンチを一度見た。それから言った。俺にではなく、川のほうを向いて。
「あの人は、あのベンチの端に斜めに座っていました。あの子と私を、一目で見渡せるように」
彼女はそれだけ言って、それ以上は何も言わなかった。
彼女が斜めに座る癖がどこから来たのか、俺はそのとき知った。
白い部屋で一年のあいだ、彼女が俺の正面に座ったことはほとんどなかった。椅子をテーブルの角まで引いて、斜めに。俺はそれを彼女のやり方だと思っていた。
彼女のやり方だった。最初は、他の誰かのやり方だっただけだ。
「お姉ちゃん、その話を聞いて、パン屋の前でしばらく立ってたんだよ。それから二つ買ったの。で、一つはここに置いて、一つはそのまま持って帰ったの。食べなかった。でも、捨てなかった」
彼女は木から身を翻した。あの子が何を言ったのか、彼女にも分かったのだろう。声は、彼女の頭の中を通っていったのだから。
彼女は俺を見ずに、車のほうへ歩いた。歩きながら言った。
「行きましょう。奥さまが夕食の支度をなさる時間です」
* * *
妻は夕食を作っていた。味噌汁だった。薄かった。妻は相変わらず、味を決めるのが下手だった。
俺は匙を置いて妻を見た。妻は俺の顔を見て、自分の匙を置いた。妻は俺の顔から、区画をひとつ読み取った。何か書くべきことがある、という区画を。
「言って」
妻が言った。俺は話した。
「19年前に、はぐれた子どもがいた。その子は、人の頭の中に言葉を入れる。去年の秋、刑務所の接見室で、その子がほんの少しだけ戻ってきた。声だけ。その声は、何人かにしか聞こえない。その子は毎晩、うちの台所に来て、冷蔵庫の音を聞いている。お前が眠っている間に。俺はそのことを、お前に話さなかった。3人で決めたことだった。今日、残りの2人から許しをもらった」
妻は最後まで聞いた。途中で一度も口を挟まなかった。全部聞き終えてから、最初に言ったことは妻らしかった。
「なぜ?」
「何が」
俺が聞き返すと、妻は同じ調子で言った。
「なぜ、うちの冷蔵庫なの」
俺は答えられなかった。
妻は冷蔵庫を見た。赤羽からソウルまで、冷蔵庫ごと運んできた冷蔵庫。10万ウォンを余分に払って運んだ冷蔵庫。扉に紙が2枚貼ってある冷蔵庫。このごろ、夜になると唸るので、妻が先週、新しいものの値段を調べていた冷蔵庫。
「音がいいんだって」
俺が言った。
妻は冷蔵庫を長いこと見た。そして言った。
「じゃあ、換えない」
「うん」
「名前は?」
俺はその名前を言った。妻はその名前を、口の中で一度だけ転がした。音にはしなかった。それから俺を見た。
「呼んでもいい?」
妻はいつも、許しを先に求める人ではなかった。理由を先に聞く人だった。
それなのに、その名前の前では許しを求めた。名前が、その人自身のものだと分かっている人だった。
「うん」
妻がその名前を呼んだ。
食卓の上の味噌汁を挟んだまま、台所のほうを見て。大きく。枠より大きく。
「ユンスル」
冷蔵庫が唸った。妻は待った。息を止めなかった。俺には妻の息が聞こえた。吸う音。吐く音。
そして、とても小さな声がした。
妻の頭の真ん中で。俺の頭の真ん中でも。そしてたぶん、今ごろ自分の部屋で聞いているであろう彼女の頭の真ん中でも。
「……こんにちは」
妻が目を大きく開いた。それから笑った。泣かなかった。笑いながら、冷蔵庫のほうに向かって言った。
「うちの味噌汁、薄いの。先に言っておくね」
「私は食べられません」
「それでも」
あの子が笑った。初めて聞く笑い声だった。笑い声か泣き声か分からない音ではなかった。笑い声だった。
食卓の上で、俺の携帯が一度鳴った。メッセージだった。差出人の欄には、名前の代わりに番号が表示されていた。彼女の番号だった。本文は一行。
「聞こえました」
妻が俺の携帯の画面を覗き込んだ。そして聞いた。
「誰?」
「あの三人のうちの一人だ」
「その人も今の聞こえたの? 私が呼んだのを」
「ああ」
妻は少し考える顔をして、それから冷蔵庫のほうに向かって、もう一度言った。
「誕生日はいつ? カレンダーに書いておくね」
「お姉ちゃんが知ってます」
「じゃあ、そのお姉ちゃんに聞いてみるね」
妻は本当に俺の携帯を取り、その番号に返信を打った。俺は止めなかった。妻は長いことキーを押しては消し、また押した。送った文は短かった。
「こんにちは。あの子の誕生日を教えてください。カレンダーに書きます」
枠からはみ出さない文だった。妻が初対面の相手に書く文は、いつも枠の中に収まった。
返事は5分後に来た。
「5月12日」
その下にもう一行。
「その日の午後、私は川辺にいます。一緒に来ていただいてもかまいません」
妻はその文を長いこと見た。川辺がどこなのかは聞かなかった。カレンダーを一番前までめくって、来年の5月12日に丸をつけた。丸は枠から少しはみ出した。
彼女が毎年、その場を離れるその日にどこへ行っているのかを、俺はそのとき、妻のカレンダーで知った。
* * *
皿洗いは俺がやった。妻は食卓に座って、冷蔵庫のほうを見ていた。ときどき一人でうなずいた。
あの子が何か言っているようだった。俺には聞こえない言葉もあった。あの子はもう、相手ごとに違う言葉を話せるようになっていた。
俺は皿をすすぎながら、蛇口から落ちる水滴を見た。つかまえなかった。
「誕生日プレゼントのことだ」
俺は言った。背を向けたまま。妻が冷蔵庫から目を離した。
「1年、悩んだ。表は作らなかった」
「それで?」
「その日一日、何もつかまえない。水滴も。箸も。あなたが落とすものも」
妻は答えなかった。俺は皿をもう一枚すすいだ。
「その日は、俺も次に何が起きるか分からない。あなたみたいに。それがプレゼントだ」
妻が立ち上がって、俺の後ろへ来た。俺の背中に額を当てた。
ドアに額を当てるみたいに。ドア一枚もないのに。
「変なプレゼントね」
「ああ」
「いいよ」
水滴が一つ落ちた。流しに当たった。
俺はその音を聞いた。それだけだった。
明日は、知らない一日。
* * *
その夜、あの台所の冷蔵庫はいつも通りにうなっていた。その音を聞く側は、初めて三人になった。
管理局特殊課の室長の部屋で、一人がそのあいさつを聞いた。その人はその夜、薬の箱を開けなかった。
翌朝、測定室のグラフ用紙に点が一つ打たれていた。一マス上だった。一番上まで、あと四マス。




