第152話 結ぶやり方(2)
備品貸出台帳に、ナンバリング機が1台載っていた。
品名は自動ナンバリング機(6桁)。購入年は1987年。状態は使用可能、ただしインク交換を要する。
管理局という名が付くずっと前から、その機械はこの建物にいた。部署の名が変わり、所属が変わる間も、同じ棚の同じ場所で数字を待っていた。
俺は貸出理由欄に「編綴用ページ番号」と書いた。備品担当の職員はその字を見て、インクを新しく入れ直してくれた。
この機械を借りていくのは何年ぶりだろう、と彼は言った。
重かった。
鉄の取っ手を押すと数字が印字され、もう一度押すと次の数字に進んだ。1、2、3。押す人間が何も考えていなくても、数字はひとりでに次へ進んだ。
その正確さだけは、人間より信用できた。
俺は機械を抱えて、文書庫へ降りた。その日の仕事は、文書庫B棟の台帳にページ番号を新しく振ることだった。
彼女は文書庫の机の前で待っていた。俺が抱えている機械に視線を止め、言った。
「その機械は返却してください」
「ページ番号を振らないといけません」
「ページ番号は振ってください。ただし、順序はそれで作らないでください」
彼女は引き出しからノートを一冊取り出し、机の上に置いた。表紙の擦り切れたノートだった。
表紙には、几帳面な字で四文字が並んでいた。償還計画、と。
「番号を新しく作るつもりはありません。順序は、すでにあります」
* * *
ノートを開くと、線があった。
定規を当てて引いた線。一行ごとに枠が七つ。番号、氏名、本籍、処理、処理日、子孫の所在、償還。
番号は1から始まり、714で終わっていた。
彼女は最後の行に指を向けた。触れはしなかった。紙から指先ひとつ分離れたまま。
「714番は、昭和18年4月です。その人が採用される前です。その人の手で送られた者ではありません。それでも、このノートには入れました」
「なぜです」
「同じ書類で送られたからです。その人が使っていた様式で」
償還欄に印のある行は、九十七行だった。印は小さな丸。ほかの行の償還欄は空欄だった。空欄のほうが、はるかに多かった。
彼女が言った。この文書庫の移入係の書類は、年ごと、巻ごとに綴じられている。だが、その書類の中の人間は、年では探せない。名前で探すしかない。その名前の一覧が、このノートだ。その人が6年のあいだB棟を漁り、一行ずつ写し取った一覧だ、と。
「このノートが、この書類の束の順序です。番号も、このノートの番号を使います。新しい番号を作れば、その人が付けた番号の隣に、別の番号が付きます。一人に番号が二つになります」
「俺には、番号が三つあります」
そう言った。氏名欄の名前、管理番号KR-08、そして八番目。
彼女は答えなかった。代わりに、ナンバリング機を俺のほうへ押しやった。返せという意味だった。
その日の午後、俺はナンバリング機を返した。
備品担当の職員が、返納台帳の備考欄を指した。使用結果を書く欄だった。
俺は書いた。未使用(数字を新しく作らず)。
職員はその括弧の中を、長いこと見ていた。それから、ナンバリング機からインクを抜き取った。そのインクは次の人のために取っておく、と言った。
次の人が何年後に来るのかは、誰も知らなかった。
その日は5月12日だった。
午後3時ごろ、彼女が席を立った。コートを手に取った。毎年、この日の午後は席を外すと短く言った。どこへ行くかは言わなかった。俺も聞かなかった。
彼女が文書庫を出てから数分後、頭の真ん中が静かになった。あの子の声はなかった。あの子は彼女についていったのだ。あの子は、三人のうちの誰かのそばにしかいない。今日の午後、あの子のいる場所は俺のそばではなかった。
俺は一人でB棟の台帳にページ番号を振った。ナンバリング機は使わず、ボールペンで。右下の隅に。
そしてページごとにノートを開き、そのページに書かれた名前がノートの何行目にあるかを探して、横に鉛筆で書いた。ノートの番号を。新しい番号ではなく。
簡単な作業ではなかった。
台帳の名前は縦に墨で書かれ、ノートの名前は横にボールペンで書かれていた。同じ人物の名前が、互いに違う方向に横たわっていた。俺は二つを突き合わせるために、何度も首を横に傾けた。
台帳の多くの行を書いたのは、若い日のその人だった。ノートを書いたのは、六年間のその人だった。同じ手が、七十年近い隔たりを挟んで同じ名前を二度書いた行もあった。
日が暮れるころ、32ページ目の7行目にたどり着いた。昭和19年の冬。散逸。
俺はノートでその名前を探した。あった。五百何番目かの行。処理欄は所在不明。子孫の欄も償還の欄も空だった。
俺はその名前の横に、ノートの番号を鉛筆で書こうとして、手を止めた。
この束の目次には、その散逸した者がいた。だが、この束に彼のページはなかった。台帳の一行だけだった。申告書も、移送事由書も、処理結果もなかった。散逸した者に、書類はついてこなかった。
目次にはあって、ページのない一行。
俺はその行の横に番号を書かなかった。代わりに、ノートのその行に鉛筆でごく小さく書いた。ページなし。そして消した。消しゴムの跡が残った。
抜けていたのではない。最初から存在しないページだった。この春、文書庫で彼女がそう言った。
その夜、家の台所は静かだった。
冷蔵庫が低く唸っていた。あの子が好きだという音だった。
俺は水を飲みに来て、その音をしばらく聞いていた。
あの子は今夜、ここにいなかった。彼女のそばにいるのだろう。毎年、今日の午後に席を空ける人のそばに。
冷蔵庫の扉には紙が二枚貼ってあった。委嘱状と、末尾の一文字が切れた書き置き。
妻は奥の部屋で眠っていた。
妻は、毎晩この台所に誰かが来て、冷蔵庫の音を聞いて帰っていくことを知らない。俺はそれを言えなかった。三人で決めたことだった。
俺は水のコップを流し台に、音を立てないようにまっすぐ置いた。
* * *
翌朝、彼女が出勤してくると、あの子の声も戻ってきた。
「おじさん」
あの子はそれだけ言って、しばらく何も言わなかった。俺も聞かなかった。
5月13日だった。19年前の今日、グラフの二本の線が同じ日に終わっていた。上がっていく線と、下がっていく線。
彼女はノートを机の上に広げた。それから俺を見た。
「読んでいただけますか」
「何をです」
「名前を。最初から」
俺はノートを手に取った。
1行目。名前を読んだ。処理日を読んだ。子孫の所在を読んだ。償還の欄に丸があれば「償還」と読み、なければ何も読まなかった。
2行目。3行目。
頭の真ん中で、あの子が聞いていた。あの子は、俺が読む名前を俺の頭の中で先に聞いていた。俺が声に出して読む半拍前だった。
だからあの子は、名前を二度ずつ聞いた。一度は俺の頭の中で、一度は俺の口から。
30番目あたりで、彼女はいすを少し回した。斜めに。
100番目あたりで、俺の喉がかれた。彼女が水を注いでくれた。紙コップだった。俺は水を飲んで、読み続けた。
あの子は口を挟まなかった。
あの子が18年ぶりに戻ってきた日、最初に聞いたのはキッドのことだった。
「キッドは」
今日、あの子はその問いを繰り返さなかった。このノートにはキッドの行がなかった。ノートを書いた人は、自分の行を作らなかった。
あの子はその空白の行を知っていた。問わないことで、その行を守った。
二百番を少し超えたところで、窓口室から電話が来た。
彼女が出た。短く聞いて、切った。
「寄贈品が一点届いたそうです。窓口室で分類する欄がなくて、文書整理補助のところへ回してくるそうです」
10分後、書類の封筒が一つ上がってきた。
分厚かった。
封筒の中には、二つ折りにした紙が束になって入っていた。一番上にメモが一枚挟まっていた。ボールペンの字だった。線が太く、大きかった。
そこには、こう書いてあった。
管理局御中。
貴機関の相談奉仕支援差戻し通知書、確かに受け取った。事由欄がなかった。見本に使ってくれたまえ。
牧師(仮釈放)
束は、差戻し通知書だった。
仮釈放審査の不許可通知書が四通。面会差戻し通知書が一通。一番下には、先月刑務所の正門で受け取ったあの紙があった。二つ折りの折り目がまだ固かった。
どの通知書にも一番下に事由欄があり、欄ごとに一行ずつ書かれていた。その一行があるということは、誰かがその欄の前で一度は考えたということだった。
俺はその束をノートの横に置いた。この順番には入れられない書類だった。だが、捨てることもできなかった。
彼女が束を見て言った。
「保存期間は永久にしてください。分類欄は空けておいてください」
「空けておくんですか」
「あの方が望んでいたのは、欄ではなく事由です」
俺はもう一度、ノートを手に取った。二百何番目の行から。
五百何番目の行で、俺は止まった。
鉛筆で書いて消した跡のある行だった。
昭和19年の冬。
名前欄を読もうとしたとき、頭の真ん中で、あの子が言った。
「その行は飛ばしてください」
俺はノートから目を離さなかった。
「あの人は、誰にも呼んでもらえなかったんです。ずっと。急に呼ばれたら、驚きます。私は驚きました。18年ぶりに呼ばれたとき」
彼女が俺を見た。ごく小さくうなずいた。
俺はその行の名前を声に出して読まなかった。処理欄も、処理日欄も。
俺はその行を目で追うだけにして、次の行へ移った。
その行の人が、どこかで驚かないように。
そんなことが起こり得るのか、誰にも分からなかった。分からないから、飛ばした。
あの子が口を挟んだのは、その日の、その一度だけだった。
* * *
714番目の行を読んだのは、午後4時を少し過ぎたころだった。
昭和18年4月。
その人が入社する前の行だった。
子孫の所在欄は空だった。返済欄も。
俺はノートを閉じた。喉がすっかり嗄れていた。
彼女が紙コップに水をもう一度注いだ。
俺は受け取って飲んだ。水が喉を落ちていく音だけが、静かな部屋に響いた。
あの子が言った。
ごく小さく。
「全部、聞きました」
そして、少し間を置いて。
「キッドの字です。名前を書くとき、最後の字を必ず押さえて書くんです。おじさんの頭の中に、それが見えました」
あの子は、それ以外に何も訊かなかった。
彼女はノートを受け取ると、机の引き出しのいちばん下の段にしまった。
しまう前に、最後のページを一度だけ開いてみた。
返済欄の丸。97個。
その人が6年のあいだに描いた丸だった。
そして、空欄。
その人は「返済はしなくていい。だが、捨てるな」と書いていたのだと、彼女は言った。
「返せなかった欄も、欄には違いない」
それも、その人の文章だった。
彼女はそのノートを捨てなかった。返済も、しなかった。
今日、彼女は初めて、俺に最初から最後まで声に出して読ませた。
残りは617行。
* * *
その日、文書庫の備品貸出台帳の備考欄には「未使用」と記された。
あのナンバリング機が貸し出され、一度も押されないまま返ってきたのは、その機械がこの建物に入ってから初めてだった。
714行のうち、その日に二度ずつ呼ばれた名前は713。
一度も呼ばれなかった行が、一つ。
順番にはあって、ページのない行だった。




