第151話 結ぶやり方(1)
病院のロビーに、折りたたみ椅子が十三脚あった。
白い服を着た人たちが、そのうち十二脚に座っていた。真ん中の一脚だけが空いていた。誰が決めたわけでもないのに、その椅子には誰も座らなかった。
医事課の職員が、椅子をどけてくれと何度か言ったという。そのたびに人々は椅子をたたみ、職員が背を向けるとまた広げた。椅子は病院の備品ではなかった。あの人たちが持ってきたものだった。何人かは保温ポットを抱えていた。
5月の第1週だった。俺は彼女の後ろについて、そのロビーを通った。
白い服の者たちが彼女に気づいた。頭を下げはしなかった。ただ、真ん中の空いた椅子のほうへ、体を少しだけ向けた。
彼女がその椅子の横を通りかかったとき、誰かがごく小さな声で言った。
「代表、今日は少し……いかがですか」
彼女は答えなかった。彼女が答えられる問いではなかった。この病院で、その質問に答えられる者は、まだ誰もいなかった。
* * *
病室は七階の端にあった。
ベッドの上の子供は小さかった。八歳くらいだった。毛布は胸のあたりまでかかっていて、手はその外に出ていた。手のひらが上を向いていた。誰かがそういうふうに置いたのだろうと思った。
子供の唇は少し開いていた。その隙間から前歯が見えた。新しい歯だった。歯茎の上に半分ほど出ていた。
この子をこんなに近くで見るのは初めてだった。鉄条網の向こうで、一度だけ見た顔だった。
刑務所の廊下で、襟を立てた老人が指を鳴らして判定を下したことがある。
「空港の映像で、ちび司祭の隣にいた男は別人だ。あんたではない」
俺はその映像に出たことがない。そのちび司祭が、この子だった。映像の中でこの子の隣に立っていたのは、俺じゃない。今は、俺がそこに立っていた。
老人の判定は、半分だけ当たったことになる。
担当医が入ってきた。カルテを手にしていた。彼女と担当医は面識があった。担当医は挨拶の代わりにカルテを広げた。
「変わりありません。先月と同じです。呼吸は安定、脈拍も安定。身長、体重もそのまま。前歯もそのまま」
「前歯はどうやって測るんですか」
俺が聞いた。担当医が俺を見た。「委嘱」と書かれた出入証に目をやり、その質問が委嘱された人間のする質問なのか、一瞬値踏みするような顔だった。
「看護記録に書きます。萌出の程度を」
担当医はカルテを1ページめくって見せた。看護記録用紙の欄だった。前歯の萌出程度:半分ほど。その横に、別の筆跡で括弧が付いていた。
(目分量。記録指針上、「半分ほど」は測定値ではない——看護師長)
その下には、日付ごとに同じ行が並んでいた。半分ほど。半分ほど。半分ほど。括弧は最初の行にしかなかった。二行目から、看護師たちは括弧を付けなかった。記録指針を破ることに慣れるのに、3日あれば十分だったらしい。
* * *
彼女は担当医と廊下へ出た。書類の話だった。俺は病室に残った。
頭の真ん中で、あの子の声がした。
「この子の頭の中、静かです」
あの子は俺の目でベッドを見ていた。俺が見る分だけ。
「考えが何も聞こえません。でも、空っぽじゃないんです。僕が最初に人の頭の中を聞いたとき、寝てる人には夢の音がしました。この子には夢の音もありません。代わりに、一つだけあるんです。チクタクいうやつが」
「時計のことか」
俺は声に出して聞いた。病室には誰もいなかった。
「時計みたいなものです。でも、変なんです。チク、と鳴ってタクが来ません。チク、と鳴って止まるんです。しばらくして、またチク。半分しか進みません」
俺はベッドの脇の椅子に座った。それから、白い部屋でやっていたことをした。いちばん小さい音を探した。
病室の音。酸素飽和度計の低い信号音。廊下の端のエレベーターの到着音。窓の外の駐車場の後退警告音。点滴の管の中を落ちる水滴。
その水滴は一定だった。落ちて、玉になり、また落ちた。
俺はそれらの音を一つずつ置いていった。大きい音から。そして、残ったものを聞いた。
子供の息。浅かった。吸って、吐いた。
その下に、もう一つあった。
俺はその音を知っていると思った。あっち側で、老司祭が時間を教えたとき、手のひらを俺の耳に当てて聞かせてくれた音があった。人の体の中で時間が流れる音。司祭は、それを血が巡る音と区別するように言った。
血は心臓が押すままに巡る。時間は、誰も押さなくても流れる。司祭の言葉だった。
その区別を身につけるのに、俺は1年かかった。
子供の中のその音は流れなかった。
一つの拍を踏み出して、次の拍の場所で止まっていた。足を上げたのに、降ろす場所がない人のように。上がった足はそのまま宙にあった。落ちもしなければ、上がりもしないまま。
その拍の残り半分がどこにあるか、俺には分かった。
七番目が接見室の棚の上で、布目を探る手つきをしながら言った。
「その子の止まった時間が今、俺の縫い目を掴んでおる。借りたものは返さねばならぬ」
その半分は今、刑務所の独房にあった。爪の下が黒い人間の、縫い目の中に。
その人はその日、俺にもう一つ言った。
「そなたは時間を扱う者である。布目に逆らうことがどれほど容易いか、従うことがどれほど難しいか。そなたの手が、俺よりよく知っているであろう」
俺の手は知っていた。
あっち側での11年、俺の手は布目に逆らうことばかりしてきた。飛んでくる矢の前で時を止め、最後の一撃の直前で、1秒を10回書き直した。
それは簡単だった。反射だった。
布目に従うことだけは、したことがなかった。
白い部屋で、ラーメンのゴムナイフに鎖骨を打たれた日。あのとき俺は、掴まないという練習をしたことがあるだけだ。
その日、鎖骨は痛んだ。ゴムなのに。
* * *
廊下から彼女の声が聞こえた。正確な声だった。
相手は担当医ではなかった。医事課から上がってきた人だった。
俺はドアを開けて出た。医事課の職員が書類綴りを持っていた。申し訳なさそうな顔で、言うべきことは全部言う人だった。
「これまでのご返信の件です。うちの医務記録チームが監査準備をしていて見つけました。管理局に毎月送っている所見の返信に、根拠欄が空いています。患者本人の同意でも、保護者の同意でも、法令上の例外でもありません。医療法上、診療記録は患者以外の人に出すことはできません。これまではただ、慣例で出していました」
「分かっています」
彼女が言った。
「最初に返信を求めたのは私です。根拠欄を空けたままにしたのも、私です」
職員が彼女を見た。組織の人間が自分の書類の空欄を自分の口で明かすのを、初めて見たという顔だった。
「では、これからは保護者の同意が必要です。返信も、外出も。患者さんが外出されるようなことは、ないでしょうけれど」
彼女はその最後の言葉に答えなかった。俺も答えなかった。
7月に、その日はやってくる。子供を連れて七番目に会いに行かねばならない。借りた半分がある場所へ。
「保護者がいません」
俺が言った。
「分かっています。身寄りなしで登録されています。それで、この方たちが……」
職員がロビーのほうを指した。エレベーターの向こうに、白い服が見えた。
「この方たちが毎日いらっしゃいます。面会名簿に名前を書かれます。関係欄に皆さん『保護者』と書かれるので、こちらが関係を伺いましたら、信徒だとおっしゃいまして。それで関係欄には信徒と書き直していただいて、保護者欄には……」
職員が書類綴りから面会名簿の写しを1枚取り出した。
保護者:信徒一同。
その下に、12の署名が並んでいた。13番目の欄は空いていた。そこにも誰かが座るはずの席のように。
「法的には効力がありません。保護者は個人でなければなりません。ですが、この方たちが毎日同じ列を書かれます。こちらももう、直してくれとは言えません」
彼女はその写しを長いこと見つめていた。それから医事課の職員に向かって言った。
「後見人の選任を申し立てます。時間はかかります。それまでの同意は、あの方たちの中のお一人から個人名でいただきます。一同ではなく」
「どなたの名前で」
「あの方たちが決めます。真ん中の椅子を空けておく人たちですから。誰が座るべきかは、あの方たちが分かっています」
* * *
エレベーターの中で、彼女が言った。
「あの方は、どうやって返すのか分かっているのでしょうか」
俺が訊いたのではなかった。彼女が俺に訊いたのだ。彼女が俺にやり方を尋ねるのは、初めてだった。
「分からないでしょうね。返す先を知らなければならない、とおっしゃっていました。布を織った側のことを」
「布を織った側は、見つかりません」
「ええ」
彼女はエレベーターの階数表示を見た。七、六、五。数字が一つずつ下りていった。誰も止めない数字だった。
「なら、織った側の代わりに、受け取る側を連れて行きます」
受け取る側。ベッドの上の子供。借りた者が返し、貸した者が受け取る。その間に、俺が立つことになる。時間を扱う者がその間で何をすべきなのか、そのときの俺には分からなかった。止めることしかできない手だった。
ロビーに下りると、白い服の人たちが立ち上がった。彼女が事情を説明した。短く。個人名で一人。白い服の人たちは互いを見た。誰も先には名乗り出なかった。やがて一番端の椅子に座っていた年老いた女が、保温ポットを置いて立ち上がった。手が震えていた。女は同意書の保護者の欄に自分の名前を書いた。関係の欄でペンが止まった。女はしばらくその欄を見つめてから、書いた。
信徒(一同代表)。
医事課の職員は、その括弧を見て何も言わなかった。括弧の中の「一同」まで直してくれと言う者は、この病院にはいなかった。
女は署名を終えると、保温ポットの蓋に麦茶を注いで俺に差し出した。俺は受け取った。女は七階のほうを見上げながら言った。
「代表が若くなられるときは、みんな奇跡だと言いました。幼くなられるときは、誰も何も言いませんでした。止まっておられるので、ただみんな来るんです。なぜ来るのかは、分かりません」
女はそう言って、空いた椅子を見た。真ん中の椅子だった。
病院を出る前に、俺は七階のほうを一度見上げた。窓はどれも同じに見えた。どの窓がその病室なのか、俺には分からなかった。
それでも、その窓のどれかの内側で、拍が一つ、宙に浮いたままになっていることだけは分かった。
頭の真ん中で、あの子が言った。
「おじさん。その時計、半分がどこにあるか知ってるんですか?」
「知ってる」
「連れてきてくれますか?」
「連れて行くんじゃない。返すんだ」
その子はしばらく黙っていた。それから言った。
「じゃあ、あの子も僕みたいに、半分だけ帰ってきてるんですね」
俺は答えなかった。
その子の言うとおりだった。ただ、半分の形が違っていた。その子は声が戻って、体が来なかった。ベッドの上の子は体があって、時間が来ていない。
子供の中の時間は、半分だった。
* * *
その日、七階の病室の点滴は、いつもより一滴だけ遅れて落ちた。
看護記録には書かれなかった。
ロビーの十三番目の椅子は、その日の夕方も空いていた。信徒たちは椅子を畳むとき、その椅子を一番最後に畳んだ。




