第15話 接見申請書
黒いファイルは、その夜の零時に回収された。
配膳口から入ってきて、配膳口から出ていった。入ってくるときはトレイの横に、出ていくときは空のトレイの上に。ファイルがトレイに乗って行き来する施設だった。
その五時間のあいだに、俺はファイルを三回読んだ。分厚いと思っていたら、薄かった。六番目の手記は二百十一枚あった。七番目の黒いファイルには、七枚しかなかった。
一枚目は個人情報だった。名前は▇で消されていた。年齢は帰還当時二十七歳。異世界滞在期間6年。向こうでの役職、「聖騎士(本人供述)」。能力、「神聖力による治癒および防御(本人供述)、帰還後3か月目に消滅を確認」。
消滅を確認。七番目の能力は消えた。正常に。自然転移だから。
二枚目から五枚目までは観測記録だった。日付ごとに一行ずつ。ほとんどが「特記事項なし」だった。ところが、ある日から記録が変わった。
鏡破損。手の裂傷(軽傷)。鏡撤去。
その日付のすぐ前の欄には、こう書かれていた。
面談中、目撃供述を閲覧。
六枚目は事件報告書だった。ほとんどが黒く塗りつぶされていた。残っている文字はわずかだった。日付。場所、「移送車両」。被害者、「当局職員(▇▇▇)」。死因、「頸部圧迫による窒息」。
七枚目は判決文の要約だった。殺人。懲役。その下に、手書きで一行が付け足されていた。彼女の字ではなかった。別の人間の字だった。殴り書きの字。
担当者交代要請――差戻し(本人拒否)。
* * *
翌朝、白い部屋。
俺は彼女に紙を一枚差し出した。自分で作った紙だった。閲覧台帳の裏を破って、彼女が作る書式を真似た。罫線を引いて、題をつけた。
接見申請書
接見対象:KR-07
接見事由:
事由欄は一行にした。この国の書式に敬意を表して。
事由欄に、俺はこう書いた。同じ部屋を使った者だから。
彼女は紙を受け取って、長いこと見ていた。俺の引いた線は曲がっていた。彼女はその曲がった線を、指で一度なぞった。
「できません」
「なぜです」
「あの方は収監者です。あなたは管理対象者です。どちらも移動できません」
「画面越しなら。画面だと普通に見えるんでしょう」
彼女が顔を上げた。
「七番目の方は、もう1年が過ぎています。あの方は今、誰の目にも普通に見えます。画面でも肉眼でも同じです。危険なのはあの方ではなく、あなたです。でも画面なら、あなたも普通に見えます」
「じゃあ、危険なことはないですね」
「危険がないのは、画面のほうです」
彼女は俺の申請書を、テーブルの上に伏せた。
「危険なのは、あなたがあの方から何を聞くことになるか、です」
* * *
三日間、彼女は申請書に返事をしなかった。
そのあいだ、俺は手記を読んだ。六番目が会議室で「あなた方の上には立たない」と言った場面を。そして、引きずり出されていく改革派三人の叫びを。彼は上には立たないと言い、代わりに聞きに行くと言った。利用されて捨てられた人たちの声を。
俺は七番目のことを考えた。利用されて捨てられた人間。この施設が利用し、この部屋に置き、移送車両に乗せた人間。
三日目の夜、メモ用紙に書いた。5.担当者交代要請を拒否したのは誰か。そして、線は引かなかった。今度は保留されても、書いておきたかった。
* * *
四日目の昼、配膳口のふたが開いて、トレイは入ってこなかった。
代わりに、ドアが開いた。
ラーメンだった。ひとりだった。二人一組の規定を破ったのだ。彼は両手に豆乳を二パック持っていた。深くうつむいたまま、俺のほうを見ずに、ドアのすぐ前の床に座った。背中をドア枠につけて。彼女が初日に立っていた場所だった。
「革靴の人は?」
「トイレです。五分かかります。本当は十分かかるんですけど、今日は五分だって言ってました」
ラーメンが豆乳をひとパック床に置いて、俺のほうへ滑らせた。床を滑った豆乳はベッドの脚にぶつかって止まった。
「室長に、機材を担当しろって言われて」
「何の機材です?」
「ビデオ接見です。刑務所とつなぐやつ。僕、観測室の映像担当なんで」
俺は豆乳を拾いかけて、手を止めた。
「許可が出たんですか」
「まだです。でも室長が、先に機材を点検しておけって。許可を出す気がないなら、点検なんてさせない人なんで」
ラーメンは豆乳にストローを刺した。うつむいたまま、ストローを正確に刺した。半月以上、俺のほうを見ない練習をしてきたのだ。見なくてもできることが増えたのだろう。
* * *
「あの日の報告書です」
ラーメンが言った。豆乳をひと口飲んで。床だけを見ながら。
「いちばん下の欄、あったじゃないですか。目撃対象の供述。室長が手で隠したやつ」
「覚えてます」
「お父さん、って書いたんです」
俺は何も言わなかった。
「父、じゃなくて、お父さん。父って書こうとしたのに、手がお父さんって書いたんです。報告書にお父さんって書いたら、なんかおかしくて。公文書に」
ラーメンは笑わなかった。
「うちの父は、酒を飲むと玄関のドアを蹴って入ってくる人でした。あの日、おじさんが顔を上げたとき、まさにその顔だったんです。玄関に立ってる顔。靴を脱がずに」
靴を脱がずに。俺は自分の足を見下ろした。この施設に来てからも、俺は靴を脱いでいなかった。向こうの癖だった。靴を脱いだ瞬間に襲われたら、裸足で戦うはめになるから。
「おじさん、あのとき靴を履いてたじゃないですか。ベッドの上で」
「……」
「それを見て、手が先に動いたんです。テーザー銃」
ラーメンは豆乳を飲み干して、空のパックを手で握りつぶした。
「だから、あの日から、おじさんが靴を履いてるのを見るたびに、ちょっと怖いんです。父のせいなのか、おじさんのせいなのか、わかりません。両方なのかもしれないです」
* * *
俺は靴を脱いだ。
ベッドの下にそろえて置いた。11年ぶりだった。素足が床に触れた。冷たかった。向こうのどんな床より平らだった。
ラーメンはうつむいていたので、見ていなかった。俺は言わなかった。言えば、彼が顔を上げそうな気がした。
「お父さんは、今どちらに?」
「亡くなりました。僕が高校のときに。肝硬変で。母も僕も、葬式では泣きませんでした。でも火葬場で棺が入っていくとき、父が靴を履いてたんです。死に装束に革靴を履かせてあって。そのとき泣きました。最後まで靴履いたまま入っていくのかよ、って」
ラーメンが立ち上がった。膝を払った。時計を見た。
「四分過ぎました。革靴の人が来ます」
「ラーメンさん」
「はい」
「そのあだ名、嫌なら変えてもいいですよ」
ラーメンはドアノブをつかんだまま、少し立ち止まった。うつむいたままだった。
「大丈夫です。父がつけてくれた名前より、ましなんで」
ドアが閉まった。外から革靴の音が近づいてきた。五分かかるというトイレは、きっちり五分だった。
* * *
その日の午後、白い部屋の天井の隅のスピーカーから、ラーメンの声がした。
「あ、あー。聞こえますか? 機材点検です。おじさん、カメラを見て手を振ってください」
俺は鏡のほうを向いて手を振った。
「いや、そこじゃなくて。左上です。天井の隅の黒いやつ」
天井の隅に、黒い半球が取りつけてあった。半月以上この部屋にいたのに、初めて気づいた。鏡ばかり気にしていて、天井は見ていなかった。俺は半球に向かって手を振った。
「はい、オッケーです。映像はばっちりです。ただ、照明がちょっと……」
「照明がどうかしました?」
「上から当たってるんで、目の下がちょっとげっそり映るんです。刑務所側から見たら、ちょっと怖く見えるかも……あ、いや、画面なんで怖くはないんですけど、照明のせいでなんか、そういう意味で怖いっていうか。一般的な意味で」
「一般的に怖いなら、構いません」
「ですよね。それはもともとのお顔なんで。あ、いや、すみません」
スピーカーの向こうで、革靴がラーメンを小突く音がした。スピーカーが切れた。三十秒後に、また入った。
「照明はスタンドで補います。点検終わりです」
* * *
夕方、彼女が白い部屋で俺を待っていた。天井の隅の黒い半球の下に、スタンドがひとつ新しく立っていた。
テーブルの上に書類が二枚あった。一枚は、俺が作った曲がった接見申請書。もう一枚は正式な書式だった。俺の申請書の内容がそのまま書き写されていた。事由欄まで。同じ部屋を使った者だから。
正式な書式のいちばん下に、決裁のハンコが押されていた。そして、条件がついていた。
接見方式:ビデオ(映像通話)に限る。
立会い:必須。
機材:観測室(担当――ラーメン)。
担当者欄に「ラーメン」と書いてあった。公文書に。彼女の端正で小さな字で。
「その名前、公文書に書いていいんですか」
「本人が同意しました」
彼女は俺の足を見た。素足だった。彼女は何も言わなかった。ただクリップボードを手に取って、何か書き込んだ。たぶん「対象協力度」だ。
* * *
彼女が最後の書類を取り出した。接見日程通知書。
日時:帰還30日目 午後2時。場所:白い部屋。接見対象:KR-07。接見申請人:KR-08。
立会人の欄が空いていた。
彼女がボールペンを取った。立会人の欄に、字を書きはじめた。最初の一画を引いた。彼女の名前ではなかった。彼女は名前を書かない人間だった。彼女は「室長」と書こうとしていた。
「室」まで書いた。
ボールペンが手から滑り落ちた。テーブルの上を転がって、床に落ちた。カチッと。
彼女はボールペンを拾わなかった。落ちたボールペンを見下ろしていた。右手がポケットへ行った。今度は、薬のケースを取り出した。新しいケースだった。錠剤をひとつ、手のひらに出した。
俺はテーブルの上の紙コップに水を注いだ。時間を止めずに。彼女の見ている前で。そしてコップを彼女のほうへ押しやった。手のひらで、彼女がファイルを押しやるときのように。
彼女は、その水で薬を飲んだ。
通知書の立会人欄には、「室」という一文字だけが残っていた。
* * *
七番目のファイルは七枚だった。六番目は二百十一枚だった。
人ひとりを記録するのに必要な紙の量を、我々はついに突き止められなかった。




