第149話 引いたものと足したもの(4)
その日の朝の測定は、いつもより短く終わった。
管理局の測定室で、俺は一秒を捕まえ、放した。
画面に数字が浮かんだ。
彼女はその数字を読み上げなかった。
この春に入ってから、彼女は画面の数字を声に出して読まなくなっていた。
代わりに引き出しからグラフ用紙を取り出すと、鉛筆で点を一つ打った。
点は先週の点より、一マス上に打たれた。
一週間で、一マス。
昨年の秋からこの春まで、その線は一マスを超えることはなかった。
秋と冬のあいだずっと、同じマスの中を這い上がっていた線が、一週間で一マスを飛び越えた。
俺は紙の一番上までマスを数えた。
五マスだった。
彼女は鉛筆を置いた。
そして点の横に日付を書いた。
それだけだった。
形容詞は書かなかった。
「今日の午後は面会です」
「はい」
「戻られたら、もう一度測ります」
彼女が一日に二度測ると言ったのは、初めてだった。
俺は答えなかった。
マスの中に、答える言葉がなかった。
* * *
刑務所へ向かう車の中で、あの子が先に口を開いた。
「お姉さんの頭の中に、点が一つあるんです。大きなのが」
彼女はハンドルを握ったまま、答えなかった。
「おじさんの線、跳ねた? 僕が最近、遠くへ行ってるから? 昨日の夜、おじさんの家の台所に長いこといたんです。おばさんが寝てるあいだ。冷蔵庫の音が心地よくて」
「わかりません」
彼女が言った。
信号が変わった。
彼女は発進しなかった。
後ろの車がクラクションを鳴らした。
彼女はそこでようやく発進した。
「わからない、ですか。保留、ですか」
あの子が聞いた。
彼女がその二つの言葉を区別して使う人間だと、分かっている声だった。
八年間、毎朝、彼女のブリーフィングを先に読んできた声だった。
「わかりません」
彼女が言った。
「じゃあ、一緒にわからないんですね」
あの子はそれきり黙った。
俺は窓の外を見た。
四月の街路樹は、葉が出たばかりだった。
一週間で、その薄緑は一段濃くなっていた。
* * *
刑務所の正門の前に、見覚えのある襟があった。
あの、窓口で名刺をくれた老人だった。老人は接見申請の窓口に立ち、紙を一枚受け取っていた。
受け取った紙を、老人はすぐには折らなかった。陽に透かすように掲げ、上から下まで読んだ。そして、いちばん下で止まった。
差戻し事由:仮釈放者。保護観察官の確認書、未添付。
老人の顔が明るくなった。
差戻し通知書を受け取って明るくなる顔を、俺は初めて見た。
老人は外套の内ポケットから小さな聖書を取り出した。聖書の見返しごとに、折った紙が挟まっていた。分厚かった。
老人は今受け取った差戻し通知書を半分に折り、いちばん後ろの見返しに挟んだ。それから聖書を閉じ、表紙を手のひらで一度だけ撫でた。
「次の方」
窓口の職員が呼んだ。
老人は職員に頭を下げた。
「ありがとうございます。事由を書いてくださって」
俺はその光景を見ながら、七番目の手紙のある段落を思い出していた。
以前、同じ房を使っていた年配の人が、来月ここを出る、という段落だった。
差戻し通知書は聖書の見返しに全部しまってあるのに、許可通知書には事由欄がないからしまう場所がない、という話だった。七番目の手紙の中で、いちばん長い段落だった。
その年配の人が、そこにいた。
四度差し戻され、五度目に許可された人が、外に出て、また差し戻されていた。今度は事由欄があった。
老人は聖書を内ポケットにしまいながら、彼女に気づいた。接見室の前で何度か顔を合わせたのだろう。
老人は彼女のところへ歩み寄り、聖書から、今挟んだばかりの紙をまた取り出した。
「これをあの人に見せてやってくれ。ガラス越しでも。事由がある、と」
彼女はその紙を受け取らなかった。
接見室には、許可されていない物品を持ち込めなかった。彼女がそう言うと、老人はうなずき、紙をまた見返しに挟んだ。
「では、言葉で伝えてくれ。事由欄があった、と。あの人なら、それで分かるはずだ」
老人は俺を見て、指を鳴らさなかった。この前のように、ただうなずいただけだった。
そして正門とは反対の方へ歩いていった。
足取りは軽かった。見返しがひとつ増えた人の足取りだった。
* * *
面会はこれで6回目だった。
3月の面会は短かった。あの日、俺は表の話をしなかった。今日もするつもりはなかった。
ガラスの向こうの七番目には、まず正門の話から切り出した。
「年配の人が来た。差戻しになった。事由欄があった」
七番目がごくわずかに笑った。口の端ではなく、目尻だった。
「事由欄があったのであろうか?」
「はい」
「では今夜は、よく召し上がるであろう。あの方は差戻しの日には飯を二杯召し上がる。許可が出た日は、半杯であった」
彼は少し言葉を止め、それから続けた。
「あの部屋で、あの方が私に教えたことがひとつある。事由欄の読み方である。事由欄があれば、誰かがその欄の前で一度は考えたという意味だと、あの方は言った。欄がなければ、誰も考えなかったということだと。だからあの方は、差戻しが良いと言った。差戻しには、いつも誰かの考えが一行だけ添えられてくるからな」
刑務官がボールペンを手に取った。そして止めた。
出所者の食事量は、記録の対象ではなかった。
刑務官はその事実に安堵した顔で、ボールペンを置いた。
そのとき、あの子が言った。
「お姉ちゃん、終わったらパン一つ買ってよ。あんこ入りのやつ」
頭の真ん中から聞こえる声だった。方向のない声。
そして少し遅れて、少しだけ小さく。
「あ、僕、食べられないんだった」
彼女が俺の隣で息を止めた。七番目が目を閉じた。俺は何もしていない。
あの子はその言葉を癖のように言い、癖のように引っ込めた。18年、あの子の手に一度も届かなかったパンだった。
扉の横の椅子で刑務官が伸びをした。そして腕時計を見ながら、独り言を言った。
「終わったら、あんパンでも一つ買って食べよう」
部屋が静かになった。
刑務官は、自分が言った言葉を聞いていない顔をしていた。自分の考えを口にしただけの顔だった。
腹が減っていた。パンが食べたかった。それで言った。
刑務官はまた記録用紙に目を落とした。
刑務官は公務員だ。この部屋で聞いたことを書くのが仕事の人間だ。
その人が、あの子の言葉を聞いた。聞いて、自分の言葉にした。
その人はまだ、それに気づいていない。
気づけば、書かなければならない。
書けば、その紙は決裁板に挟まれ、決裁板は上へ上がっていく。上で誰かがその一行を読み、欄を一つ新しく作るだろう。
欄ができれば、あの子はその欄に入る。
12歳のとき、ある部署の書類に入れられたように。
書類は、きっと全部あるのだろう。
俺は彼女を見た。
彼女は刑務官を見ていなかった。前だけを見ていた。膝の上に置かれた両手を、強く握り合わせていた。
彼女は餡が嫌いな人だ。白い部屋で、俺にそう言ったことがある。
そのパンの名前が今、彼女ではない誰かの口から、その誰かの考えとして出た。
俺は先月、文書庫で彼女が声に出して読んだ備考欄を思い出した。
係長の小さな字。
症状の終わりに散逸。周囲の多くが、同一の言い回しを自分の考えとして陳述。
「私の言葉なんです」
あの子が言った。さっきより、ずっと小さな声で。
「あのおじさんが、私の言葉を自分のものにしたんです。その行なんです。文書庫の、あの行」
七番目が目を開けた。そして、仕切りの穴のほうへ体をほんの少し傾けた。低く、古めかしい口調で。
「子よ。声を低くせよ。ここにいる者だけに聞こえるように」
刑務官が顔を上げた。
収容者がまた、誰もいないほうへ言葉を投げた。
刑務官は記録用紙の隅を見た。ここ数か月、その隅に積もった括弧。
収容者の独り言。同席者の同一発話。
刑務官はボールペンの先を、その隅の下に当てた。そして、止まった。
刑務官の顔が妙だった。さっき自分が言った言葉が、ようやく耳に届いた、という顔。
パン。餡。
刑務官は、餡を好まない者の顔で、その言葉を口の中で転がした。
「すみません」
あの子が言った。もう、ほとんど聞こえない声で。
「小さくします。小さなことでもしていると、あまり薄くならないんです。12歳のときから、そうしてきました。でも、大きくすると、こうなっちゃうんです」
その後、あの子は面談が終わるまで一言も発さなかった。
俺は、その沈黙が何なのか分かっていた。
白い部屋で、測定のない日には、俺も同じように何もしなかった。何もしないことが一番安全だと信じていた。
その代償に、毎日0.95秒ずつ滑り落ちていった。
あの子にとって、何もしないことは薄れていく側だった。何かをすることは、散らばっていく側だった。
どちらにも、安全なマスはなかった。
* * *
七番目と俺は、残りの時間を別の話で埋めた。
彼が申請した分厚い本の次の巻が、まだ届いていないという話。運動場の塀の根もとに、タンポポが芽を出したという話。
彼はその花を向こう側の名前で呼んで、それからこっち側の名前に直した。どちらも同じ花だった。
刑務官はその花の名を書き取らなかった。ボールペンは記録用紙の上に横になったままだった。
終了五分前、という告知が入った。刑務官の声は、いつもより低かった。
七番目は立ち上がる前に俺を見た。それから彼女を見た。最後に、誰もいないほうを見た。
あの子がいるほうだった。
声に方角はなかった。それでも七番目は、いつもそちらを知っていた。
「来月、会おうぞ」
彼が言った。それが誰に向けた言葉なのか、刑務官は書き留めなかった。
出て行く前に、彼女は自分のファイルを開いて何かを書いた。俺から見えるように、少しだけ傾けて。
まっすぐな字で、二行。
今日の測定:一マス。
今日の接見:一人。
彼女はその二行のあいだに、何も書かなかった。等号も、矢印も。
代わりに、ファイルを閉じる前に、二行のあいだの空行を爪で一度だけ強く押した。薄い記録紙が、少しだけ凹んだ。
その痕は、あとで受け取った写しには最後まで現れなかった。
あとで写しを見た。その日の接見記録の要約欄は、空だった。
この部屋でその欄が空だったのは、初めてだった。初日の八分間の沈黙も、刑務官は括弧でくくって記していた。
今日は括弧もなかった。欄だけがあった。
* * *
接見室の扉を出る彼女を、刑務官が呼び止めた。
前回、同じ場所で呼び止められたのは俺だった。今度は彼女だった。
「室長」
刑務官は廊下の両側に一度目をやった。誰もいない。
記録紙を胸に当てて持っていた。空の要約欄が内側を向くように。
「さっきのパンのことですが」
「はい」
「あれは、私の考えではありませんでした。私は餡子を食べません。子どもの頃から」
彼女は答えなかった。
刑務官はその沈黙を待った。待つあいだ、刑務官の耳が何かを探すように、ほんの少し傾いた。
方向のない音を探す人間の仕草だった。
俺はその仕草を知っている。
白い部屋で1年間、いちばん小さな音を探していた俺の仕草だ。
刑務官が、ごく小さな声で言った。
「私にも、聞こえます」
* * *
その日の午後、測定室のグラフ用紙には、点がもう一つ打たれた。
朝の点と同じマスだった。
その日の晩、ある老人が飯を二杯食べた。
聖書のいちばん後ろのページのあいだが、少しだけ厚みを増した。




