第148話 引いたものと足したもの(3)
4月の第2週、窓口室に葉書が一通届いた。
宛名欄には、国家移住管理局の八番目帰還者の担当者宛と書かれていた。
差出人欄は空欄だった。
裏面には、日付と時刻が一行。その下に、数式が一行あった。
窓口室の職員は、その数式を落書きに分類した。
落書きは返信の対象ではない。
だが、日付があった。
日付のある落書きには分類する欄がない。だから葉書は特殊課へ回された。
面談官が、その葉書を文書庫の机の上に置いた。
「数式は分かりません。字は分かります」
整った字だった。彼女の字とは違って、整っていた。定規を当てなくても、行が揃う字。
俺はその字を見たことがない。なのに、その字の主が誰なのかは分かった。
白い部屋で211枚の手記を読んだ者なら、誰でも分かるはずだ。
その手記の真ん中あたりには、ホテルのルームサービスに電話をかけ、プリンは冷蔵のままでと頼んでいた五歳の子がいる。
「その子の行方の欄に、私は『不明』と書きました」
彼女が言った。
「保留ではなく、不明だと。その欄を、あの子が自分で直して送ってきたんです。住所もなく。日付だけ」
* * *
約束の日、窓口室は混み合っていた。
番号札の発券機の前に、老人が一人立っていた。
襟を立てた老人だった。刑務所の廊下で見た、あの襟だ。
あのときは囚衣の襟で、今はアイロンをかけたシャツの襟だった。
老人は番号札を取らず、窓口の職員に名刺を差し出していた。
牧師(仮釈放)。
括弧まで印刷された名刺だった。
窓口の職員は、その名刺をどの欄に入れるべきか分からず、両手で持っていた。
老人は、帰還者のための相談ボランティアがしたいと言った。
経歴欄には、同じ部屋での経歴を書くと言った。
窓口の職員が、経歴欄はボランティアの経歴だけを書く欄だと言った。
老人は、その部屋でやったことは全部ボランティアだったと言った。誰も金をくれなかったからだ。
その老人が俺を見た。
指を鳴らしかけて、やめた。
そして一度だけ頷いた。
判定はもう下した、という顔だった。
もう一度下す必要のない判定。
そのとき、窓口のある部屋の自動ドアが開いた。
車椅子が先に入ってきた。
押していたのは、魔法瓶を持った中年の男だった。笑顔だった。その隣に、女が一人。二人の足並みは揃っていた。合わせようとして合わせた歩みではない。長く一緒に歩いてきたせいで、いつの間にか揃ってしまった歩みだった。
車椅子の上の子どもは小さかった。
手記のなかでは五歳なのに三歳に見えていた子どもは、いまは五歳くらいに見えた。膝には毛布が掛かっていた。
子どもは部屋を一度見回し、壁時計を見て、自分の手首を見た。
手首には時計がなかった。
「当たってましたね」
子どもがひとりごとのように言った。誰も答えなかった。
牧師が車椅子のほうへ歩いてきた。
老人は子どもの前で腰を折り、手を上げた。祝福の手だった。何度も見てきた手だった。老人の手首のほうが先に、その形を覚えていた。
子どもはその手を見上げ、丁寧に言った。
「神様というものは、いません」
牧師は手を下ろさなかった。代わりに笑った。音のない笑いだった。
「知ってる。俺も、それを知りながら一生売ってきた。だから、これはタダだ」
牧師はその手で子どもの頭を一度だけ撫で、窓口のほうへ戻っていった。
子どもはその背中を長いこと見ていた。
それから、俺を見た。
「あの方は、計算に入っていませんでした」
* * *
相談室で、面談官が同意書を差し出した。
未成年者面談同意書。管理局の標準様式だった。
欄は七つあった。
子どもは、保護者が署名するより先に、その様式を手に取った。面談官のボールペンを借りて、三番目の項目に線を引いた。
三番目の項目には、こう書いてあった。
「3. 面談内容は管理局内部の目的以外には使用しないものとし、使用しない」
「同じ言葉が、二度書いてあります」
「その様式は、私が作ったものではありません」
「知っています。室長でしたら、一度しか書かなかったでしょう」
子どもは線を引いた箇所の脇に、小さな校正記号を描いた。削除の印だった。
それから様式を母に渡した。
母が署名した。
同行人の欄には、魔法瓶を持った男が署名した。
続柄の欄で、男のペンが少し止まった。子どもが首を伸ばして、その欄を覗き込んだ。
「今はまだ、おじさんと書いておけばいいです。書類の上では」
男は笑った顔のまま「知人」と書いた。
母はその字を見ないふりをした。耳が少し赤かった。
手記の「遊び場」の章で、この男は、車椅子を押す女の後ろ姿を見ていた。
いつも笑った顔なのに、そのときは少し違う笑みだった、と手記には書かれている。
その手記を書いた人は、その笑みがどうなったのかを見ていない。
俺は今、その笑みの次の頁を見ていた。
手記にはない頁だった。
母と男は廊下へ出ていった。
相談室の窓越しに、窓口の待合椅子が見えた。男は牧師の隣に座り、魔法瓶の蓋に茶を注いでいた。
牧師はその茶を受け取ると、名刺を一枚差し出した。男は両手で受け取った。
笑っている顔が二つ、並んで座っていた。
ひとつは、人に代わって嘘をついてやる顔。もうひとつは、無いと知りながら一生売ってきた顔だった。
ふたりの来歴を、俺は全部知っていたわけではなかった。
ただ、どちらの顔も、長いこと笑ってきた筋肉だということだけは分かった。
子どもは扉が閉まるのを見てから、俺を見た。
「あの方のことは、すみません」
俺には、その子が誰のことを言っているのか分かった。
葬儀場の裏門の路地。包丁が、一度。
「遅いのです。5分遅れて来て、10年待ったのに、会ってからもまた遅いのです。あの方は三番目を選ばなかったのです。でも、三番目があの方を選んだのです」
子どもは毛布の上で手を組んだ。
小さな手だった。
その手で数式を書き、その手ではがきを書いた。
「あの方の手記は、残っているのですか」
「あります。211枚です」
彼女が答えた。
子どもはその数字を聞くと、一瞬、何かを計算するような顔になった。
「私の話は、何枚なのですか」
「数えてはおりません」
「あの方が私と会った日の夜、何と書いていたのですか」
彼女が俺を見た。
その頁は、俺が白い部屋で、ベッドの枕元に広げて読んだ頁だった。
俺は覚えていた。
覚えようとして覚えたわけではなかった。何度も読んだせいで、自然に覚えてしまった一節だった。
その一節を、俺はそのまま口にした。
「子どもは、私が二つあると言った時から、私の答えを知っていたのでしょう。だから、三番目だけを止めに来たのです」
子どもは答えなかった。
毛布の上の手が一度開き、また組まれた。
そして、ごく小さな声で言った。
「分かったのだな」
それは、計算が合ったという顔ではなかった。計算とは何の関係もない顔だった。
* * *
俺はその表を取り出して、子どもの前に置いた。
先月、彼女の机の上に置いた紙だった。
大人になった者たちの四行。比較用の一行。彼女が書き入れた一番下の一行。そして、一番右の、題名だけが空白の欄。
子どもは表を一目で見た。
上から下へ追うのではなく、一度に全部を。
そして、ボールペンを取った。
「一行、増やしてもいいですか」
俺はいいと答えた。
子どもはKR-08の下に線を一本引き、名前の欄に一文字だけ書いた。
私。
その隣の欄に、子どもは書いた。
計算。手加減。そこで死にかけて捕まった。
「あの方には言いました。そこで死にかけていたところを捕まえられて、ここまで滑り込んできた、と」
「私もなのです。私はここで生まれました。でも、その前は、捕まったのです」
私と同じ行なのです。
その子の声は、俺の頭の内側で聞こえた。
車椅子の子どもは顔を上げなかった。
表だけを見ていた。
声にはなっていなかった。
彼女が俺の隣で、ごくわずかに息を止めた。
彼女も、同じものを見ていた。
この部屋でその声を聞く者は、相変わらず二人だけだった。
俺はKR-04の行を指でなぞった。名前は口にしなかった。
「この人は記憶がありません。どこから来たのかも。それでも、捕まえられてここへ来たんですか」
「休んだら、ぼやけたんですか」
「はい」
「じゃあ、その人は捕まったんですね。ただ滑り込んできた人は、休めば元に戻ります。ぼやけたりしません。ぼやけるっていうのは、元の本にまだ引っぱられているということです。帰る場所もないのに」
「どこで捕まったのかは、分かりますか」
「それはその人の本です。本人が覚えていなければ、誰にも分かりません。私にも分かりません」
頭の中の声が静かになった。その子は答えを聞いた。半分だけ。
「じゃあ、あの子にも、私と同じで、分からない欄が一つあるんですね。いちばん前の欄が」
しばらくして、その声が言った。残念そうな声ではなかった。同じ欄を持つ人を、初めて見つけた声だった。
俺は次の質問をした。この一か月、あの表の前で三度書いては三度消した質問だった。
「誰が捕まえるんですか」
子どもはボールペンを置いた。初めて、答えが遅れた。
「分かりません」
「分からないんですか」
「五歳のときから計算してきました。捕まえられたというのは分かります。誰なのかは、答えが出ません。何なのかも。答えの出ない計算は、それだけです」
そう言って、子どもは口をとがらせた。手記の五分遅れを口にしたとき、一度だけ見せた顔だった。いくつになっても、その顔だけは五歳のままだった。
彼女は表の空欄の見出しを見た。先月、彼女が指で指した欄。その欄に何が入るのかは、もう言っていた。
強制固定。
その言葉には、捕まえる人が入っている。固定する側だ。なのに、その側の名前の欄は、どの書類にもなかった。
管理局の書類にも、移入係の台帳にも、計算する子どもの頭の中にもなかった。
* * *
最後の質問をした。
白い部屋で、彼女に一度だけした質問だ。
「俺はこっちの人間ですか、あっちの人間ですか」
彼女がそのとき返した答えは、こうだった。
「分かりません」
そして、付け加えた。あの子、五歳の子なら分かったかもしれない、と。
子どもは長いこと、俺を見ていた。
「それはおじさんの本です。わたしは、おじさんの本は読んだことがありません」
「じゃあ、なぜ来たんですか」
子どもは毛布をめくった。車椅子の足置きから足を下ろして、床を踏んだ。
一歩。二歩。
歩き方は相変わらずぎこちなかった。それでも、転ばなかった。
子どもは俺の前まで歩いてきて、立った。その背丈は、座っている俺の肩に届いた。
「もったいないです。でも、これは歩いて言いたかったんです」
子どもが俺の手を握った。小さくて、冷たい手だった。手記に書かれていた温度のままだった。
「三番目は選ばないでください。あの方に言った言葉です。おじさんにも言います」
「大きくなる人は、みんな同じ線に乗ります。あの方もそうでした。おじさんはまだ、その線の終わりに届いていません」
俺はこの子にグラフを見せたことがない。彼女も、この子には見せていない。なのに、子どもはあの人の線を知っていた。
あの人の線が終わったことを、遅れて知った子だった。その線が俺の線と同じ形をしていることを、子どもは紙もなしに知っていた。
「あの方のときは、遅れてしまいました。だから、ずっと計算を続けたんです。次の人には、遅れないように」
子どもが笑った。五歳みたいに。
「今度は、遅れませんでした」
* * *
あの子はその日、同意書から同じ言葉を二度消した。表に足したのは、一行だった。
答えの出ない計算は一つだけだと、あの子は言った。その答えは、計算の外にあった。
我々は計算をしない。




