第147話 引いたものと足したもの(2)
書類綴じは、ページ番号を振るところから始まる。
彼女が初日に教えてくれた仕事だった。記録ファイルの一番前に表紙、その次に索引目録、その次に書類。書類ごとに右下の隅へページ番号を振る。百枚を超えたらファイルを分ける。分けたファイルの表紙には括弧を付けて番号を書く。括弧二。括弧三。
「ページ番号がないと、順序がないのと同じです」
彼女は言った。
「順序がなければ、一枚抜けても誰も気づきません」
俺は会社に勤めていた頃、決裁書類にページ番号を振ったことがある。そのときは退屈な作業だった。今は手が震えた。この文書庫の書類には、抜けているページが多かった。抜けたページのあるファイルに番号を振るのは、抜けた場所を数えることだった。
B棟の昭和19年の台帳の隣に、薄い束が一つあった。人事記録。移入係の末端職員のものだ。彼女はその束から一枚抜き、俺の前に置いた。そして指で上半分を隠した。名前の欄だった。
写真が貼ってあった。背広、ネクタイ。強張った顔。25歳くらい。笑わない顔だった。写真の下に10個の欄があり、10個の欄に10個の指紋が押してあった。赤い色は茶色に変わっていた。
キッドだ。
あの子の声が頭の中で落ちた。水滴のように。
「キッドです。そっくりです。髪だけ違います。キッドはこんなふうに笑いませんでした。いや、笑わないのは同じです。でも、この写真は笑い方を知らないから笑わない顔です。キッドは、笑い方を知っていて笑わなかったんです」
彼女は名前の欄を隠した手をどけなかった。あの子は名前を言わなかった。俺はその顔を見た。あの子が18年ぶりに初めて見るキッドの顔。あの子は俺の目でその顔を見た。俺が目を閉じれば、あの子もその顔を見られない。俺は目を閉じなかった。あの子が「もういい」と言うまで。
「もういいです」
しばらくして、あの子が言った。
* * *
その人事記録には、次のページがなかった。
7月の勤務日誌が最後だった。その次の欄は空いていた。退職の理由も、死亡の理由も、欠員の処理もない。
その人は7月のある日、退勤したあと、この書類から消えていた。
彼女がその空欄を指さして言った。
「その人の陳述書には、7月のあの夜のことが書いてあります。退勤路の路地のことです。書類にはありません」
次のページは、ずっと後の4月だった。別の書類だった。KR-05の確保事由書。同じ顔、同じ年齢。同じ人。
確保事由書には欄が多かった。確保日時、確保場所、対象の状態、能力の推定。そのうちの一欄が空いていた。蘇生原因。
彼女はその空欄を指で示さなかった。代わりに言った。
「その欄は、その人自身にも埋められませんでした。6年のあいだ。自分の書類なのに」
空欄を埋められないまま6年を生きた人。俺は、その人がその欄を見るたびにどんな顔をしたのかと考えた。書類を知っている人間が、自分の書類の空欄に耐える顔。俺はその顔を知らない。彼女は知っている。
俺はページ番号を振っていて、手を止めた。7月の勤務日誌に番号を振った。次のページ、あの4月の確保事由書に、次の番号を振らなければならなかった。二枚はページ番号でつながっていなければならなかった。
ところが、その二枚のあいだには65年があった。一枚もない65年。
「番号はどう付けるんですか」
「続けて付けてください。抜けたページはありませんから」
「抜けたページはないんですか」
「最初からなかったページは、抜けたことになりません」
彼女はそう言った。その言葉は正確だった。正確だったから、俺は番号を振れなかった。
ボールペンを握ったまま、しばらく座っていた。結局、あの4月の確保事由書には番号を振らず、次のページへ移った。そのページに番号はない。今もない。
* * *
その4月の確保事由書には、添付書類が1枚あった。
アパート団地の管理事務所の、落とし物処理台帳の写し。住民たちが貯水池と呼んでいた団地の池が、一夜のうちに干上がった日の日付。底から出てきた物のリスト。
男性用の革靴1足(旧型、革製)。保管期限3か月。期限経過後、廃棄。
「なぜ、これが添付されているんですか」
「あの人が貼りました。確保されてから、自分の書類を整理するときに。事由は書いていませんでした」
俺はその一行を見た。革靴1足。旧型。
その人が7月のあの夜、何を履いていたのか、俺は知らない。
その人は知っていたのだろう。だから、その一行を自分の書類に貼ったのだろう。事由欄を空欄にしたまま。3か月後に廃棄された革靴1足を、65年が過ぎた自分の名前の下に。
「キッドが、その靴の話を一度しました」
あの子が言った。
「足が違うんだって。その靴は7月のだから、今の足には合わないって。でも、足はそのままなんだって。変ですよね」
俺は答えなかった。
彼女が俺の隣で、とても小さく息を吐いた。
彼女もその言葉を聞いていた。その人があの子に言った言葉を、彼女はその日、初めて聞いたのだろう。
* * *
昼は管理局の構内食堂で食べた。
委嘱された人間も、ここを使えた。食券は実費ではなかった。彼女が自分の食券を一枚ちぎって、俺に渡した。
配膳の列で、ラーメンに会った。
ラーメンは俺の首から下がった出入証を見た。
委嘱。文書整理補助。
その文字を声に出して読み、しばらく考え込んだ。
「おじさん、じゃあ僕が先輩ですか?」
「そうかもな」
「僕、おじさんが白い部屋にいた時からここにいるんです。おじさんは今月からですよね」
ラーメンはその計算をして、顔を明るくした。そしてすぐ暗くした。先輩になったら後輩の面倒を見なければならないと悟った顔だった。
自分のトレーから卵焼きを一つつまんで、俺のトレーに置いた。先輩がする仕事だと言った。
それから俺のトレーからキムチを一つ取った。それは先輩の権利だと言った。
彼女はその様子を遠くから見ていた。笑わなかった。代わりに、トレーを持って俺たちのテーブルへは来なかった。室長が来たら、先輩が先輩として振る舞えなくなることを知っている人だった。
* * *
その週、俺は自分のファイルを見つけた。
探したわけではなかった。KR-08。文書庫の管理終了ファイルの棚に差し込まれていた。
彼女が「管理再開(測定限定)」に変えたのは、電子システムの上だけだった。棚の紙のファイルは、そこから動いていなかった。
背に保存ラベルが貼ってあった。
管理終了。保存期間5年。期限経過後、廃棄。
そのラベルの下に、彼女が貼ったラベルがもう一枚あった。日付は去年の秋だった。
管理再開(測定限定)。
一つのファイルに、ラベルが二枚あった。一枚は五年後に俺を廃棄すると言い、もう一枚は俺をもう一度測ると言っていた。
どちらも正確だった。
俺はそのファイルを抜かなかった。中に俺の測定表があるのだろう。0.31から2.1まで。白い部屋の一年。
その数字をもう一度見る必要はなかった。
その先の数字は、彼女の引き出しの中の方眼紙にあった。毎朝、洗面台の前で俺が自分の手で書き入れた数字だった。
その日の午後、病院から返信が来た。
幼い最高司祭の定期報告書だった。
彼女は文書庫の机の上で、その返信を広げた。
担当医の所見欄。
変動なし(比喩省略)。
彼女はその括弧を長いこと見ていた。
前回の返信には、時間が止まったように見える、と書いてあった。そして「比喩」と括弧で注記されていた。
今回は、比喩を省略したという括弧だった。
担当医は比喩を使わないまま、比喩を使わなかったという事実を書かねばならなかった。
その括弧の中に何が入っているのか、彼女も俺も知っていた。
* * *
3月が終わるころ、俺は彼女の机の上に紙を一枚置いた。
定規を当てて引いた升目だった。彼女のやり方で。
一番上の横一列には、名前の代わりに番号と年を書いた。名前を知らない人もいたし、名前を言わないと決めた人もいた。
昭和19年の冬、台帳32ページの7行目。心に言葉を入れる。大きくなる。休めば薄れる。散逸。
KR-04。心に言葉を入れる。大きくなる。休めば薄れる。散らばる。
KR-06。頭の中に言葉を送る。大きくなる。記者の刃。
KR-08。時間。大きくなる。
その下の行に、比較用の枠を一つ増やした。
KR-05。消す。縮む。ゼロ。
一番右の縦の欄の見出しは、空けておいた。そこに何が同じなのかを書くつもりだった。まだ書けなかった。
彼女はその紙を長いこと見ていた。そして一番下に、もう一行だけ書き足した。自分の字で。きっちりと、整った字で。
自然転移者:10日以内に減少開始(管理局の観察下、全員)。
彼女はその行を書き終えると、ボールペンを置いた。そして、俺が空けておいた一番右の欄の見出しを、指で示した。
「ここに入る言葉を、私は一つだけ知っています。六番目の手記から来た言葉です。あなたの分類通知書に、私が書いた言葉です」
「強制固定」
「それはあなたと六番目にしか書いたことのない言葉です。残りの二人には書いたことがありません。書く根拠がありませんでした。捕まってこちら側へ越えてきたのか、確認した人はいません」
「休むと、ぼやけるんです」
その子は表を見ながら言った。自分の行を。
「顔、です。休みの日に鏡を見ると、端のほうがにじんでいました。眉毛がどこで終わっているのか、わからないくらいに。キッドが双和湯を買ってきたときも、そうでした。その欄に、それも書いてください。ぼやけ、って」
俺はKR-04の行の端に、ボールペンで小さく書き足した。
ぼやけ(顔)。
欄の外だった。
彼女はその字を見た。彼女はそのことを知っていた。その人の陳述書に書かれていたからだ。
その子は自分の行に、自分の症状を自分で書き入れた。十二歳のときから鏡の前でひとり数えてきたものを。
その子にとって、あの行は初めて、他人の書いた書類ではなくなった。
「わたしも?」
その子が訊いた。ごく小さな声で。
「わたしも、捕まって連れてこられたんですか? どこから?」
彼女は答えられなかった。俺も答えられなかった。
その子は、自分がどこから来たのか知らない。孤児院の院長が覚えているのは、名前を選んだ一か月だけだ。その前のページは、誰も開いたことがない。
俺は自分の行を見た。
KR-08。時間。大きくなる。
俺は強制固定に分類された人間だ。捕まってこちら側へ越えてきた、という意味だ。
だが、誰に捕まえられたのかは俺も知らない。
赤羽のあの家の玄関で靴を脱いでいたら、気がついたらあっちだった。そのあいだがなかった。
白い部屋で、そのあいだを初めて疑った。玄関で俺が倒れたのか、それとも離れ始めたのか、誰かに捕まえられたのか。
一年以上たっているのに、その三つのどれにも答えは出ていない。
答えの出ない問いは、時間がたっても減らない。俺の数字みたいに。
俺はもう一度、あの表を見た。大きくなった者の行と、小さくなった者の行。
減らなかった者は四人だった。二人は散らばり、一人は刃を受け、一人は俺だった。
* * *
その日、あの表の一番右の欄の見出しは空だった。
その日、あの文書庫のファイルの一つに、ページ番号のない頁が一枚生まれた。7月と4月のあいだ。
その頁は、我々の本でも空白のままだ。




