第146話 引いたものと足したもの(1)
3月の最初の週に、委嘱状が届いた。
委嘱状。氏名 ○○○。上記の者を、国家移住管理局特殊課の文書整理補助として委嘱する。
その下に欄が三つあった。委嘱期間、担当業務、手当。
委嘱期間の欄には、日付の代わりに一行だけ書かれていた。
「編綴完了時まで」
担当業務の欄には、記録物の整理および編綴の補助。
手当の欄には、交通費実費(公共交通機関に限る)。
俺はその委嘱期間の欄を長いこと見ていた。日付のない期間。
昨年、管理局は俺の約束から期間を消した。今度は、俺の仕事から期間を消した。
彼女は電話で説明した。文書庫に入るには入室資格が必要だ。管理終了者にはない。委嘱された者にはある。だから委嘱した、と。
文書庫には、彼女一人では探せないものがある。一人で探せば、探す理由を書かねばならない。二人で探せば、整理と書けばいい。
「整理です」
彼女はそう言った。その言葉を、彼女は一度だけ口にした。同じ言葉を二度言わない日は、その言葉の後ろに何も隠れていない日だ。
整理は本当に整理だった。その中で何を探しているかが違うだけだった。
* * *
「おじさん、また会社に行くの?」
その子が聞いた。俺の台所で。
ハルヤンの名が呼ばれてから、その子は俺の頭のどこにでも現れて話しかけた。三人が同じ部屋にいなくても。ただ、声はいつも少し薄かった。遠くから届く音みたいに。
妻も同じことを聞いた。声に出して。
「会社、また行くの?」
妻は委嘱状を持っていた。郵便物だった。妻は手当の欄を指さして笑った。
「交通費は実費だって。公共交通機関に限る。タクシー乗ったらだめ」
「乗らない」
「あんたが会社に通ってたときも、タクシーの領収書、毎回差し戻されたでしょ。理由不明確って」
俺はそのことを覚えていなかった。妻は覚えていた。
妻は委嘱状を冷蔵庫の扉に貼った。磁石一つで。
その磁石の下には、前からメモが一枚貼ってあった。
「ちゃんとごはん食べるこ」
最後の「と」が、紙の端で切れている。
委嘱状はそのメモの隣に並んで貼られた。欄が三つある紙と、欄が一つもない紙。
「結婚記念日だって、分かってるよね?」
妻が聞いた。冷蔵庫の扉の前で。背を向けたまま。
「知ってる」
「表、作らないでよ」
「作らない」
その日の午後、俺は花を買った。
表は作らなかった。花屋の前を通りかかって、入った。それだけだった。
会社に通っていた頃、一晩中エクセルを開いたまま選べなかった人間が、表なしで花を一束買った。
妻は花を受け取って、しばらく見ていた。それから言った。
「表に載ってなかったやつだね」
「うん」
「それがいいの」
1年前、白い部屋で指折り日付を数えたとき、俺は結婚記念日にも行けないというところで計算を終えた。
その計算は合っていた。
今年の計算は外れた。
俺はその外れた計算が気に入った。
* * *
管理局の文書庫は地下3階にあった。
入口に出入り台帳があった。氏名、所属、訪問目的、入室時刻、退室時刻、持ち出し物品。
俺は所属の欄に「文書整理補助(委嘱)」と書いた。括弧まで書き終えたら、欄に収まらなかった。
訪問目的の欄には、彼女が言ったとおりに書いた。整理。
彼女は俺の下の行に自分の名前を書き、訪問目的の欄に同じ言葉を書いた。整理。
二行が同じ言葉で並んだ。
持ち出し物品の欄はあるのに、持ち込み物品の欄はなかった。
彼女の鞄の中には、この文書庫から出たことのある書類綴りが一冊入っていた。18年ぶりに戻る書類綴りだった。
その書類綴りが入る欄は、台帳にはなかった。
鉄の棚が並んでいた。棚ごとに湿度計が掛かっていた。針が少しずつ揺れていた。
空気には古い紙の匂いがあった。白い部屋の匂いとは違っていた。白い部屋には匂いがなかった。ここは匂いが多すぎた。
彼女が先に、書類綴りを一冊差し出した。文書庫の棚から出したものではなかった。彼女の鞄から出したものだった。
「最初の綴りは、これです」
表紙に番号があった。KR-05。
その下の氏名欄に、付箋が貼ってあった。黄色い付箋。その上に、彼女の字で二文字。
保留。
「この書類綴りは、文書庫にはありませんでした。18年前に私が抜き取って、自分の机の横の棚に入れておきました。文書庫の棚には、『移管』と書かれた紙だけが挟まっています」
「氏名欄は?」
「保留です。分からないのではなく」
その名前を、彼女は知っている。
あの子も知っている。
俺は知らない。
俺はその付箋を剥がさなかった。許されていないことはしない。
「僕も言いません」
あの子が言った。訊いていないのに。
「キッドの名前なら、僕、知ってます。でも、キッドが僕にだけ教えてくれたことだから。キッドが話すまでは、言いません」
あの子は、キッドがもう二度と話せないことを知っている。
それでも、話すまでは、と言った。
あの子にとって、それは永遠という意味ではなかった。条件という意味だった。
条件は守るものだ。
あの子は彼女からも、あの人からも、それを学んでいた。
* * *
KR-05の書類綴りは薄かった。
確保事由、配置、措置。それに測定表が何枚も。
俺は測定表をめくった。数字は減り続けていた。毎月。最初は大きく、あとになるほど少しずつ。
最後の頁の最後の欄は空だった。測定日の欄には日付があるのに、数値の欄には何もなかった。
その日付は5月12日だった。
「その日は測れませんでした。あの人のノートには、その日の明け方に『零』と書いてあります。消去後の零です」
「その人は、減りました」
彼女が言った。
「使うほどに減りました。自然転移者たちのように。あの子は、使うほどに大きくなりました。同じ車に乗って、同じ作戦に出て、同じ仕事をしたのに。線が逆へ行きました」
俺はそのグラフを覚えていた。
テープで継ぎ足した方眼紙。上へ向かう線、下へ向かう線、そして別の色の三本目の線。
「なら、違いは仕事じゃない」
俺は言った。
「越えてくるやり方だ」
白い部屋で読んだ手記を思い出した。六番目の筆跡。
五歳の子がホテルのソファでプリンを食べながら言った言葉。
「去っていく魂を無理に引き止めて越えさせると、逆になるんです。しわでやっとくっついているから、しわが大きくなるんです。毎日使わないといけないんです」
その手記を読んでから数週間後、彼女は俺の分類変更通知書の空欄を埋めた。
強制固定の疑い。KR-06同一類型。
「俺は強制固定で分類されました。六番目も。あの子は?」
彼女が言った。
「あの子は、その言葉で分類されたことはありません」
「当時、この部署にその言葉はありませんでした。あの言葉は、六番目の手記が見つかったあとで生まれたものです。あの子は成長対象でした。決裁を受けています」
彼女は「成長」という言葉を、正確に発音した。
自分の口から出た言葉を、自分で罰するように。
白い部屋で「役に立つ」という言葉を口にしたときと、同じやり方だった。
「あの子が、捕まって越えてきた人間なのか、私は知りません。児童養護施設に来る前の記録がありません。親の分からない子でした。だからこの文書庫へ来ました。あの子のほかに、大きくなった人間がいたのかを見るために」
彼女は文書庫の奥、B棟と書かれた鉄の扉を指さした。
* * *
B棟の棚は、さらに古かった。
墨で書いた縦書きの台帳が並んでいる。表紙には、移入係という部署名が書かれていた。
彼女はその中の一冊を抜き出した。
表紙に年号があった。昭和19年、冬。
「去年の秋に、この冊子を初めて開きました。あの人が残した封筒の最後の頁を読んだあとで」
彼女は32枚目を開いた。
7行目を指で示した。指は行に触れなかった。紙から、言葉ひとつ分ほど離れたまま。
俺にはその行が読めなかった。
縦書きだった。墨がにじんでいた。
彼女が読み上げた。正確に。白い部屋で経緯書を読み上げたときの声で。
「備考。散逸。散り散りになって消える。処理欄、所在不明。隣の欄。症状の末尾に、散逸。周辺者の多くが、同じ言い回しを自分の考えとして陳述」
俺は訊いた。
「どんな症状ですか」
「申告書に書いてあります。あの人と話したあと、あの人の言葉が自分の考えになる。使うほど大きくなり、休めば薄れ、ある日、散りました」
頭の真ん中が、すっかり静かになった。
あの子だった。
「僕と同じです」
あの子の声が震えていた。初めて聞いた日のように。笑っているのか、泣いているのか、分からなかった。
「僕より先にいました。僕が最初だと思っていました。休むと薄れるんです。大きくなるんです。僕だけかと思っていました」
彼女は台帳の上から手を引いた。あの子の言葉を聞いたのだ。
彼女の顔は変わらなかった。ただ、その顔は、何かを一度計算し終えた顔だった。
18年前にこの行を見つけていたら、あの子に何が起きるか分かっていただろう。
彼女は昨年の秋、その計算をすでに終えていた。今日は、あの子がその計算を聞いた。
* * *
「一人ではありません」
俺は言った。声に出して。B棟の湿度計の針が揺れた。
「あの子一人ではありません。この人がいました。そして、六番目がいました。減ることなく、大きくなった人たち。そして」
俺はその次の言葉を言わなかった。
彼女も言わなかった。
彼女の鞄の中に方眼紙があった。三本目の線が。
「では、何が同じなんです。大きくなった人たちは」
「それを探すために委嘱したんです」
彼女は台帳を閉じた。閉じる前に、32ページ目の角に小さな紙を挟んだ。見つけた場所を見失わないためだった。
その紙は付箋ではなかった。彼女が定規を当てて切ったメモ用紙だった。升目が一つもない。
「この行の名前はどこにあるんです」
「その人のノートにあります。償還計画書。714行のうちの一つです。その行だけ、処理欄が移送ではなく、所在不明です。子孫欄も償還欄も空です。散逸した人に、何をどこへ返せばいいのか。その人にも計算できなかったんです」
714行。
俺はそのノートを見たことがない。その数字だけを聞いた。
キッドという人が残したノート。そのノートの一行に、あの子より先に散逸した人がいた。
キッドはその行を書き写しながら、何を思っただろう。あの子がその行の次の人になるだろうという計算を、したのだろうか。
彼女の顔を見れば、その人はその計算をしていた。
「僕、その行をもう一度見てもいいですか?」
あの子が訊いた。
俺は台帳をもう一度開いた。彼女が頷いた。
俺は七行目を見た。墨で書かれた縦書き。
あの子は俺の目でその行を見た。
俺には読めない字だった。あの子には読めたのだろうか。
あの子は俺の頭の中にないものは読めない。それなのに、あの子はしばらくその行の前にとどまった。
その行の処理欄には、『所在不明』と書かれていた。
* * *
その日、B棟の湿度計はいつもより二目盛り上がった。施設課は原因不明として処理した。
その行の前に、二人と一つの声がともに留まった時間は11分だった。
その行の前に誰かがそれほど長く留まったのは、昭和19年の冬以来、二度目だった。




