第145話 ハルヤン(5)
我々は、本の頁を抜き取って開き、眺める者たちだ。前と後ろは、我々にとって方向ではなく、ただの位置でしかない。だから我々の卓の上では、別の本の頁どうしが並べて置かれることも珍しくない。よくあることだが、二つの頁が互いに向かい合うように置かれることは稀だ。あの冬、我々は二つの頁をそう置いた。一つは左に、一つは右に。開いた一冊の本のように。
左は、彼の頁だった。11年。あの空の下で勇者と呼ばれた者の頁。
右は、彼のもう一つの頁だった。十一の森。あの空の下で大魔法使いと呼ばれ、のちに別の名で呼ばれた者の頁。
二つの頁を向かい合わせに置くと、同じ時刻が両方に刻まれていた。
午前3時。
右の頁では、その時刻は川堤の上から始まる。一人が堤に手を当て、石の間から滲み出る水を見ている。堤はその時刻に崩れる。そのあと森から下りてくる者たちも、その時刻に動く。名を与えた者が決めた時刻に。
左の頁では、その時刻は眠りから始まる。一人が暗がりで剣の柄を探る。夜襲が来る。11年のあいだ、同じ時刻に。彼は、その時刻こそがあの空の時刻なのだと思っている。日がなぜ昇るのかを問わない人間だから。
二つの頁のあいだには、折られた箇所があった。我々はその折り目を長く眺めていた。片側で決められた時刻に、もう片側は11年のあいだ目を覚ました。決めた者は、目覚める者を知らなかった。目覚める者は、決めた者を知らなかった。知っていたのは我々だけだ。我々はいつもそうやって知っている。両側を開き、両側が互いを知らないことまで。
* * *
左の頁では、彼はあの空の下の3年目に、初めて一人の将軍の首を王城へ運び込む。その日、金門が開く。
右の頁では、その将軍には名がある。学堂で同じ油灯を分け合ったことはないが、城壁の上で同じ風を受けたことはある名だ。
右の頁の彼は、その名を地図の隅に書き留めておき、のちに消す。
左の頁の彼は、その首がどんな顔をしていたか、思い出せない。
右の頁の彼は、その名を覚えている。
一人の死が二つの頁に残った。片方は顔のないまま、片方は名として。
我々はその二つを突き合わせることはしなかった。
突き合わせれば、どちらも別の頁になってしまう。
二つの頁には、待つ側もあった。
左の頁の11年は、この空の下の一つの家では、はるかに短く流れた。
その家の一人は、そのあいだ門を見つめていた。
警察署の一行だけの欄を突き抜けて下りていく一文を書いた。
右の頁の初霜の日には、片方が城門の前にしゃがみ込んで、半日のあいだ道を見ていた。
「じきにいらっしゃるであろう」という答えを信じたまま。
片方の待ちは、門が開く日に終わった。
もう片方の待ちは、名を呼ばれる夕暮れに終わった。
我々は二つの待ちを同じ見開きに置いて眺めた。
どちらも、あの一行だけの欄より大きかった。
二つの頁には、野ネズミもいた。
左の頁の野ネズミは、胴体から焼かれる。
右の頁の野ネズミは、尻尾からだ。
同じ森の、同じ野ネズミだった。
違っていたのは、焼く順番だけだった。
あの空の下で、同じ戦争の両陣営が同じものを食べていた。その証拠には、それだけで足りた。
我々はそのことを記すまいとして、記す。
野ネズミの焼き方を二度覚えた森は、多くない。
* * *
その空の王は、二つの頁のどちらにも出てくる。
左の頁で、王は彼に勲章をかける。円盤ひとつと、領地ひとつ。勇者という称号とともに。
右の頁では、同じ王が布告文を出す。国民を死地に追いやった、最悪の売国奴。
その布告文は、綴りが二か所間違っていた。
我々は直してやらなかった。
王の軍の陣営には、彼を呼ぶ言葉が別にあった。
森から降りてくる者たちの主を呼ぶ言葉が、彼らの昔話にはなかった。だから新しく作られた言葉だった。
初めて現れたものだから、一番目。そう名づけられた称号だった。
勲章をかけた王と、その称号を付けた王は、同じ王だった。
書類仕事のうまい王は長生きする。
その王も、長く生きた。
* * *
右の頁には、我々がめくらなかった頁が一枚、挟まっていた。
彼が初めて魔王と呼ばれた頁と、最後のレプラシカになった頁のあいだ。
我々はその頁を、長いあいだめくらなかった。
めくらなかった理由は、我々にも分かっていた。
その頁の終わりに、我々があの空に突き立てておいた剣があった。
その剣がその頁で何を切ったのか。めくれば、分かってしまう。
我々は結果を知る者だった。だが、その結果だけは、開いてみても見なかった。
その年の冬、あの接見室で、その頁の端がめくれた。
ガラスの向こうの者が、問いを一つ発したからだ。
「あの者が先に立ち上がったのか」
こちらの者が答えた。
「私が入ると、立ち上がりました」
その答えが、頁を持ち上げた。
我々は、その頁をめくった。
* * *
その章は、初霜の日の夕暮れ、城中庭から始まる。
封印官が家名を三度呼ぶ。
城壁に当たって、三度返ってくる。
四度目に答える者がいる。
城門の前で立ち上がり、庭の真ん中へ歩いてくる者。
その名を呼ばれたら答えよと教えられた者。
その章のその場面までは、封印官がぼんやりと見せてくれた。
その先を、封印官もいくつかの欠片でしか見せなかった。
我々はその欠片の間を記す。短く。
翌年の春、チラカの旗が谷の城門に掛かる。
その城中庭では、春が来ても草を抜く者がない。
その者は日の昇る方へ行く。
日の昇る方の森へ。
森のものたちは名に答える。
名を与えた者が消えた後でも。
その名を帯びて来た者が森の縁に立つと、あれらは次の言葉を待つ。
あの空では、名を持つ者の前で、あれらはいつもそうして待っていた。
その者がその席に座る。
空いていた席。
一番目が座り、やがて立ち上がった席。
あの空の軍勢は、その席に座った者を二番目と呼ぶ。
称号は他人が付ける。
二番目にその称号を付けたのも、同じ王だった。
その王は、その手のことも上手かった。
日の昇る方へ歩く者がいる。
王の剣。
我々が突き立てておいた剣。
森を四つ越える。
城の前で半年、野宿する。
野鼠を胴から焼く。
仲間を埋める。
階段を上る。百二十二段。
その部屋では、同じ一秒が十度あった。
その一秒の内に、どんな言葉が十度繰り返されたか、我々は知っている。
記さない。
その言葉は、もうある一人の章に記されている。
その人物は、その言葉を帳簿に書かなかった、と記した。
書けなかった、と書き直した。
我々は、その書き直された一行を消さない。
その部屋の章は、そこで終わる。
その章の最後の頁に、時間が立っていた。
あの空で、まだその名で呼ばれる前の時間が。
* * *
七番目は、その章の頁をめくらなかった。
接見室で、彼はひとつだけ訊いた。
「立ち上がったか」
答えは短かった。それだけで、彼は章の全体を知った。
彼は次の問いを口にしなかった。誰だったのか。どんな姿をしていたのか。
こっち側の人間は、その問いを待っていた。問いは来なかった。
この空の白い部屋を発つ前の夜、彼は扉の向こうにいた一人に、頼みごとをしたことがある。
頼みは、ひとつだけだった。
「次に来る者に、俺が何に見えるかは言うな。知った瞬間、そのものになっていくから」
同じ白い部屋で、その頼みは1年間守られた。
頼んだ本人が、今度は自分で守った。次に来た者に、あの部屋に誰がいたのかは言わなかった。
こっち側の人間は、その章を見ない。これからも見ないだろう。
その男はあの空で、11年間、剣だった。剣は、自分が斬ったものの顔を覚えていないことがある。
彼はその事実を恥じている人間だ。
だから、その章に蓋をしたのは彼ではなかった。ガラスの向こうの人間だった。
蓋をした手の爪の下は、その日、白くなっていた。
妹の章と、妹の下の子の章を、我々は開かなかった。
その章がどこに挟まっているのかは知っている。開かない。
封印官の章も開かない。彼は、自分を引き出すための枠を新しく組める人物だ。その仕事は、彼の章で彼がやる。
* * *
その章をめくってからひと月が過ぎ、七番目は名前を選んだ。
我々はその名前がどこから来たのかを知っている。この空にある分厚い物語の本が一冊。
その本の中で、その名前は最後まで負けた側の名前だ。
彼は、その名前が呼ばれるくだりでページをめくれなかったと言った。
我々はその言葉を聞きながら、自分たちがめくれなかった章のことを考えた。
めくれない章があるということを、我々はその人からもう一度教わった。
彼は家名で呼ばれることを拒んだ。その名が呼ばれれば、答えなければならないからだ。
答えなかった日が一度あり、その日はもう一方が答えたからだ。
それ以来、その名はひとりで背負う名になった。
だから彼は新しい名前を選んだ。他人につけられたのではない名前。
そして、その名を呼ぶことを他人に任せた。
名前は自分が選んでも、呼ばれなければ答えることができない。
こちらの人間が呼んだ。彼が答えた。
「ここにいる」
その答えは、初霜の日の夕暮れ、城中庭で片方がした答えと同じ一言だった。
彼がそれを知ってその一言を選んだのかは、わからない。知らずに選んだのかも、わからない。
我々はその違いを記さない。
その名前の最初の記録は、刑務所の立会い刑務官の接見記録紙だった。
外国語の発話が1回。同席者の同一発話が1回。
その記録に綴りはない。我々の記録は2つ目だ。我々にも綴りは要らない。
その刑務官は、接見室を出ていく者に綴りを尋ね、わからないという答えを聞いて安堵した。
欄に書かなくていい理由を得た者の安堵だった。
我々はその安堵を知っている。我々も長く、そういう理由を探した。
記さない理由。めくらない理由。
その刑務官の理由は綴りで、我々の理由は結果だった。彼の理由のほうが、我々のものより正直だった。
我々が、あちらの空とこちらの空のあいだで名前をこう記すのは、初めてではない。
一度は、ある男が門の前で初めて声に出して名前を呼ばれた日だった。
その日、我々はその名前を記録すると書き、名前の横に二つの言葉を並べた。
その二つの言葉のうち、一つはまだ消されたままだ。
彼が選んだ名前を、我々はいま記す。
ハルヤン。
* * *
あの子の声がその夜、冷蔵庫の音を過ぎて台所まで届いた道は、その名前が答えた場所から始まっている。
名前が答えると、閉じていた扉が一つ開き、あの子はその隙間から風のように出ていった。
我々はその出来事の次の章を知っている。あの子が遠くへ行くほど、何が近づいてくるのかも知っている。
記さない。その章はまだ、彼らの前にある。
その年の冬、我々の机の上の見開きは閉じられなかった。
左と右が向かい合ったまま。片方が決めた時刻と、もう片方が目覚めた時刻が、折り目で出会ったまま。
その折り目に、我々が長くめくらずにいた章が挟まっていた。
その部屋には二人いた。
一人は、その名を呼ばれたら答えよと教えられた側だった。




