第144話 ハルヤン(4)
2月の四回目の面会日。七番目は先に来て、もう座っていた。
向こう側の扉はすでに開いていた。刑務官が扉の横の椅子に座り、彼はガラスの前の椅子に座っていた。俺たちが入ると、彼が顔を上げた。これまでの三回は俺たちの方が先だった。今日は彼が待っていた。
刑務官が立ち上がって説明した。収容者が面会時刻の20分前から待機を申し出た。規則上、できないことではなかった。刑務官はそう説明して、記録用紙を見た。待機を申し出た理由の欄が空だった。収容者が理由を話さなかった、ということだ。刑務官はその空白をどう扱えばいいのか分からない顔をしていた。
2時。頭の真ん中で声がした。
「あのおじさんの扉が開いたんです」
その子の最初の言葉だった。
「全部じゃないんです。半分くらい。中に、本がたくさんあります。すごくたくさん。みんな分厚いんです」
七番目の眉の端が動いた。右。あの子の言葉を聞いたのだ。彼は扉を閉じなかった。
* * *
「先月、そなたの答えを聞いた」
彼が言った。通話口越しに。低く。
「そのあと一か月、考えたことが一つある。今日はその話だけをしよう。残りは来月にする」
彼は先月の俺の答えについては何も言わなかった。あの部屋がどんな場所だったのか、そこに誰がいたのか。俺は待った。彼は話さなかった。代わりに、別の話を始めた。
「手紙に書いたとおり、物語の本をたくさん借りた。その中に兄弟の話が一つあった。分厚い本だった。私はその本を二度読んだ」
「どんな話でしたか」
「それは話さない。物語の中身を他人に移せば、その本は他人のものになる。私はその本を自分のものにしておきたい」
刑務官がボールペンを手に取り、すぐに置いた。読書の話だった。読書は記録の対象ではない。刑務官の顔が、初めて緩んだ。
「その話に名前が一つ出てきた。その名前が気に入った」
* * *
彼は爪の下が黒い右手を、ガラス仕切りの下の棚に置いた。
手のひらを上に向けて。何かを受け取ろうとするような手だった。棚には何も置かれていなかった。
「称号は他人が付けるものだ。私はそちらの空で幾つもの称号を受けた。勝った側が付けたもの、負けた側が付けたもの。そなたにも一つあるであろう。時間、という」
「それは称号ですか」
「そなたが選んだものではない。ゆえに称号だ。そなたの名は別にあるであろう。誰かに呼ばれた名が」
俺は答えられなかった。
妻のことが浮かんだ。扉の前。吸う息、吐く息。そして、その名。
彼はその場面を知らない。なのに、俺の顔から何かを読んだ。名という言葉が出るたびに、俺の顔をよぎる何かを。
彼は何でも最後まで読む顔をしていた。他人の顔までも。
「私には家門の名がある。その名はそちらの空で、城中庭の真ん中に置かれた名だ。その名を呼べば、答える者はもう私一人しかおらぬ」
彼はその名を言わなかった。刑務官の前で。そして俺の前でも。
「その名は守るであろう。だが、その名で私を呼ぶことはならぬ。その名が呼ばれれば、私は答えねばならぬ。答えなかった日が一度あった。その日、誰かが私の代わりに答えた。それ以来、その名は私一人で背負う名だ。他人が呼ぶための名ではない」
あの子はすっかり静かになった。扉の前に立つ子のように。
「今日は20分早く来て、座っておった」
彼が言った。刑務官が事由欄を空けたままにした、あの待機についてだった。
「待つ側に一度立ってみたかったのだ。城門の前で、道を見る側に。私は生涯、待たせる側であった。20分座ってみて、扉が開くまで、外に誰が来るのか分からぬと知った。それを知らぬまま待つということがどういうことか、今は少しだけ分かる」
刑務官はその言葉を聞いた。そして、空欄のままの待機申請の事由欄を見下ろした。
刑務官はそこに何かを書こうとして、やめた。
「待ってみたかったから」という理由は、定められた語の中になかった。
* * *
「それで、名を一つ選んだのである」
彼が言った。
「私が選んだ名である。他人がつけたものではない」
彼はそれから長く黙っていた。刑務官が腕時計を見た。接見が始まって12分が過ぎていた。刑務官は時計を見て、記録用紙を見て、それからもう一度、ガラスの向こうを見た。今日は、刑務官は告知をしなかった。まだその時ではなかった。
「勝った側の名ではない」
彼が言った。
「その話の中では、その名は負けた側の名である。最後まで、負けた側の。私はあの名を読むたび、その名が呼ばれるくだりで頁をめくれなかった。勝った側の名は、あちらの空で何度も聞いた。負けた側の名は、誰も呼ばなかった。だから私が呼ぶ」
彼はその名を声に出した。一度だけ。低く。語尾を長く引かずに。
「ハルヤン」
その名が接見室の壁に触れた。
刑務官が顔を上げた。外国の名だった。刑務官はその名を書き取るかどうか迷った。書き取るには綴りが要る。
* * *
「いい名前ですね」
あの子が言った。
「院長がそう言ってました。名前は、呼ばれたら振り向くものなんだって。あのおじさん、いま自分が呼んだ名前に振り向きましたよ。頭の中で。扉の内側で、誰かが振り向く音がしました」
あの子は、自分の名前がどんな形をしているか覚えていないと言った。院長が覚えている、とも言った。けれど、他人が名前を選ぶ瞬間だけは、あの子は最初から最後まで全部聞いていた。
18年を越えて帰ってきたあの子が、他人のことを最後まで見届けたのは、それが初めてだった。
あの子の声は、少し大きくなっていた。嬉しかったからだ。耳で聞こえる声でなくても、俺には分かる。
彼が俺を見た。
「名は私が選んだ。呼ぶのはそちらがなされよ」
その言葉の意味は分かった。名前は、自分が呼んでこそ自分のものになる。だが、他人が呼んでくれなければ、返事のしようがない。
妻が玄関先で俺の名前を呼ぶまで、俺は1年の間、その名前に答える用がなかった。番号に答え、八番目に答え、おじさんに答えた。
名前は、呼ばれて初めて答える。
俺はガラスの通話口へ体を傾けた。
声に出して呼んだ。刑務官が聞いている前で。
「ハルヤン」
彼が答えた。
「ここにおる」
他人が選んだ名前を、その本人が聞いている前で声に出して呼んだのは、初めてだった。書類の名前でも、番号でも、あだ名でもない名前を。
妻が玄関先で俺にしてくれたことを、俺はガラスの前でやった。
その名前が口から出ていくとき、俺の声は少し低くなった。あの子はそれを聞いたはずだ。キッドみたいに低かったとは、言わなかった。
「私も呼んでもいいですか」
あの子が聞いた。
彼が、ごくわずかにうなずいた。
あの子が呼んだ。頭の中で。
「ハルヤンおじさん」
「ここにおる」
彼がもう一度、声に出して答えた。
刑務官が顔を上げた。誰も呼んでいないのに、収容者がまた答えた。刑務官は部屋の中をぐるりと見回した。それから、記録票の隅をしばらく見下ろした。
4か月前、最初の記録票に書いた括弧を思い出している顔だった。収容者の独り言、という括弧を。
* * *
刑務官がボールペンを取った。そして、記録票の要約欄に何かを書いた。俺はあとで、その写しを見た。
収容者、呼称変更の意思表示。
刑務官はその行を書き終えると、行の上に横線を一本引いた。
面会記録票には、呼称変更の欄がなかった。欄にないことを要約欄に書けば、それは要約ではなく申請になる。申請を、面会記録票は受け取れなかった。
刑務官は、線で消した行の横に小さく書き直した。
(収容者、外国語1回発話。同席者、同一発話1回。)
彼にその記録票は見えなかった。それでも、刑務官のボールペンが動くのを見て、言った。
「欄に書く名ではない。欄には書かぬがよい」
刑務官が顔を上げた。そして、ごくわずかにうなずいた。
この部屋で刑務官が収容者の言葉にうなずいたのは、初めてだった。
* * *
彼女が言った。声に出して。ガラスの向こうを見ながら。
「半年前に手紙を出しました。できるのか、したいのかと尋ねました。返事はいつでも構わない、と書きました」
「覚えておる。二度読んだ」
「返事の欄が、まだ空いています」
彼は彼女を見た。長く。死んだ彼女の弟の顔で。その中に乗り込んだ者の目で。
「したかったのだ」
彼が言った。
「半年前も、したかった。だが、あの手紙に返事をするには署名が要った。この身体の名でするのは嫌だった。かといって、家門の名でするわけにもいかなかった。署名する名が、なかったのだ」
彼は棚の上から手のひらを引っ込めた。
「今はある。返事は今日、この口で述べた。ならば署名も、口でしよう」
彼女はその答えを書き留めなかった。代わりに、一度だけ頭を下げた。深く。
俺はその挨拶を知っている。俺が彼女の車から降りた日、家の前で俺が彼女にした挨拶だ。約束を守ってくれた人にする挨拶。彼女はそれをどこで覚えたのか、言わなかった。言われなくても分かる挨拶だった。
「接見終了、5分前です」
刑務官が言った。今度は、その一言が会話に割り込んだことを刑務官も分かっていた。だから、ごく小さな声で言った。
七番目が言った。最後に。彼女に、そして俺に。
「今後はハルヤンである」
接見室を出ようとすると、刑務官が扉の前で俺を呼び止めた。ごく小さな声だった。
「あの、さっきの名前ですが。綴りはどうなりますか」
「知りません」
刑務官は一瞬、俺を見た。それから、ほっとした顔で記録票を閉じた。綴りを知らなければ、書かなくてよい。欄には書くな、と七番目は言っていた。刑務官はその言葉を守る口実を、一つ手に入れた。
正門へ向かう廊下で、丸眼鏡の男が書類ファイルを抱えて立っていた。七番目の相談員だった。相談員は彼女に頭を下げ、書類ファイルのいちばん前のページを開いて見せた。身元事項の下に、一度も記入されたことのない欄があった。別名。その欄に、鉛筆の文字があった。
ハルヤン(本人指定、綴り不明)。
「鉛筆で書きました。消せるように」
相談員が言った。
「消さないでください」
彼女が言った。
相談員は書類ファイルを閉じようとして、もう一枚、紙を取り出した。
信書検閲の係から回ってきた紙だった。刑務官の記録票の写しが上がってから、一時間も経っていない。なのに、もう届いていた。
紙には、こうあった。
「当該収容者が信書に外国語の呼称を用いる場合は、訳文を添えること」
その下に、小さな字で一行。
「今度は時調ではない。訳せない場合は、その理由を添えること」
名前の綴りが分からない。ただ、それだけの話だった。
なのに書類は、分からないものを分からないまま出すための手順を、たった二行で指定してきた。
* * *
その夜、俺は台所で皿を洗っていた。
妻は居間でテレビをつけていた。見てはいなかった。
蛇口から水滴が落ちた。俺は手を出さなかった。
頭の真ん中で、声がした。
「おじさん」
俺は皿を落とした。
足元で跳ねた。割れなかった。プラスチックだった。
「何の音?」
妻が居間から聞いた。
「何でもない」
俺は答えた。
この台所には俺一人しかいなかった。彼女もいなかった。彼もいなかった。三人が同じ部屋にいるはずがなかった。
それなのに、あの子の声がした。
接見室で聞いたときより、少し細かった。遠くから届く声のようだった。それでも、あの子の声だった。
「ハルヤンおじさんが答えたあとからです」
「扉の開いてるところから、風が入ってくるみたいで」
「その風に乗って、出てきました」
俺は携帯電話を取った。彼女にメッセージを送った。一言だけ。
「聞こえます」
返事は一分もかからなかった。彼女も一言だけだった。
「こっちも」
彼女がその一言を打っている間、どんな顔をしていたか、俺には分かる。
何か月も毎晩、返事のない名前を呼んでいた人間が、初めて夜に返事を聞いた顔。
俺はその顔を見たことがない。それでも、分かる。
「おじさん、ここでも聞こえますか」
* * *
その日、あの接見室で、名前が一つ、初めて呼ばれた。
一度は、その名前を選んだ者によって。一度は、その名前を呼べと頼まれた者によって。
その名前が答えた夜、あの子の声は初めてあの部屋を出た。
三人のうちの一人の台所まで。
その夜の距離を測った者はいない。




