第143話 ハルヤン(3)
一月最後の週。三度目の接見だった。
正門で、彼女は承認書の写しから日付を一つ消した。十一ある欄のうち、二つに線が引かれた。彼女はその線を定規で引いた。まっすぐに。消すということが、こんなにも整っていいものなのかと、俺は彼女から学んだ。
正門前の車の中で、俺は彼女に手紙を差し出した。見せていい手紙なのか、俺には判断がつかなかった。だから、判断を彼女に任せることにした。
彼女は受け取らなかった。
「今日はあの方が直接お話しになります。順序を変えてはいけません」
「順序?」
「先に手紙で読んでしまうと、あの方が話すとき、私はもう、知っている顔をしてしまいます。あの方はその顔を見抜くでしょう。あの方も、見抜く側ですから」
俺は手紙をポケットに戻した。彼女は最後まで読む人ではなく、順序どおりに読む人だった。
接見室の暖房は先月よりましだった。班長が施設係に要望書を出したのだと言った。要望の理由欄には「接見人の凍傷が懸念される」と書いたそうだ。接見人とは、俺と彼女のことだった。
俺は凍傷になるほど長くあの部屋にいたことはない。三十分を、月に一度。班長はその計算をしていないのだろう。
正門で待つ間、班長が一冊のファイルを見せてくれた。受刑者の嘆願書綴りだった。
一番上の紙には、太い文字で「チュックのおじさんを舎棟に戻してください」とあった。その下に二十数個の署名が続いていた。最初の署名の横には、鰻が一匹描かれていた。
最後の署名は、襟を立てた老人のものだった。老人は名前の横に、理由を一行添えていた。
「接見に来る者も、空港の映像のあの男ではない。本人が判定した」
班長はその綴りを、接見台帳の隣の棚に差し込んだ。今月だけで三度目の嘆願書だと言った。三つとも、同じ人物に関わるものだった。
二時。七番目が入ってきて座った。灰色の上着の袖が、先月より短く見えた。袖をまくったのだ。爪の下が黒い手が、腿の上に出ていた。
先月は、その手を左手で覆っていた。今日は覆わなかった。
「おじさん、手紙、受け取ったでしょう」
あの子が言った。
声は、ガラスのこちら側にいる俺の頭の中に直接届いた。あの子は、あの手紙を読んだのだ。十五日のあいだ、毎晩、枕元に広げておいた、あの手紙を。
「あのおじさんが送ったのです。この身体が、その人です」
「あの一文を見て、わしは驚きました。おじさんの頭の中では、あの一文が一番大きかった」
俺は答えなかった。
ガラスの向こうの彼にも、あの子の言葉は聞こえたはずだ。彼は何の表情も浮かべなかった。ただ、右の眉の端だけが、ほんの少し上がって、下がった。
* * *
「初めのことを話すと決めたのだ」
俺は言った。
「その前に、一つだけ確認させてもらおう」
「そなたがそちらの空へ行って間もない頃、大きな川の堤が崩れたという話を聞いたことはないか」
俺は記憶をたどった。
あっちでの初めは霞んでいた。言葉は聞き取れても、その言葉が何を指すのかわからなかった時代。王宮の諜報機関が俺を「資産」と呼んでいた時代。
その頃に聞いた噂の一つが浮かんだ。川の下流に陣を張った王の軍が、一晩で流されたという噂。堤が崩れたという噂だった。
王宮の人々は、そのことを敵の大魔法使いが放った呪いと呼んだ。
「聞きました。王の軍が一晩で流されたという話なら」
「その堤を崩したのは、俺である」
俺は言った。淡々と。野鼠は尻尾から焼く、と告げるときと同じ声だった。
立会い刑務官がボールペンを取った。
堤。
刑務官はその言葉を書くか迷った。書かなかった。
二か月前、記録用紙の隅に書いた一文が、刑務官を引き止めたのだろう。(収容者の比喩的表現、多し)。
刑務官は堤も比喩だと判断したらしかった。
「堤、ですか?」
あの子が言った。頭の中で。とても小さく。
「僕も堤を見たことがあります。台風が来たときです。山のてっぺんで。キッドと姉さんが、僕の腕を片方ずつ掴んでいました」
「堤がどこにあるか、暗くて見えませんでした。だから、その街の人たちの頭の中に全部入れました。高いところへ行け、と」
あの子は、そう言い終えると静かになった。
俺の隣で、あの子が息を呑んだ。
俺はあの台風の夜を知らない。
だが、あの子の言葉のなかで、堤がひとつ、崩れかけていた。
あの子はその堤の下にいた人々を、高い場所へやった。
ガラスの向こうの男は、堤をひとつ崩した。
同じ言葉が、この部屋のなかで逆向きに二度置かれた。
彼も、あの子の言葉を聞いていた。
彼は目を閉じなかった。閉じることのできない顔だった。
「その堤は午前3時に崩れたのである」
七番目が続けた。
「その時刻はその日、初めて定められた。以後、俺のものたちはその時刻に動いた」
「俺のものたちである」
「どの森にもいた。名のないものたちが。俺は彼らに名を与えた。名を与えれば、答える。答えるものは呼べる。呼べるものには命じられる」
「俺の師は、名を与えてはならぬと仰った。俺はその言葉を聞き入れなかった」
「十一の森に名を与えた。彼らは午前3時に下りてきた。そなたが先月、答えられなかったあれのことである」
刑務官は今回も書かなかった。名のないもの、森、十一。
刑務官の顔は、いまや何を書かないかを選ぶ顔だった。
ガラスの向こうの男が、俺を見た。
「そなたの夜襲は、午前3時であったか」
俺は答えなかった。答える必要がなかった。
彼は俺の顔から答えを読んだ。あの子のように頭のなかを読む人ではなかった。それでも、その顔は何でも最後まで読む顔だった。
「その時刻は、俺が決めたのである」
* * *
頭の真ん中が静かだった。あの子も黙っていた。
俺はいつもの癖で、その部屋でいちばん小さな音を探した。刑務官の腕時計の音でも、通話口の風でもなかった。ガラスの向こうの息遣いだった。
彼はとてもゆっくりと息をしていた。わざとだ。何かが息に乗って上がってこないよう、押さえつける人のようだった。
俺はその息を掴まなかった。白い部屋で彼女の息を掴まなかったのと同じように。他人の息は掴むものではなかった。
11年のあいだ、俺を目覚めさせてきた時刻。あっちでも、こっちでも。白い部屋の最初の夜にも、妻の家でも、昨夜も。
俺はその時刻が、あの空の時刻なのだと思っていた。太陽がなぜ昇るのかを問わないのと同じように、夜襲がなぜ午前3時に来るのかを問わなかった。誰かがその時刻を決めたのだと、考えたことは一度もなかった。
その誰かが、ガラスの向こうに座っていた。灰色の上着の袖をまくったまま。爪の下が黒い手をさらしたまま。
「では、俺は先輩と戦ったんですか」
俺は訊いた。声に出して。刑務官が聞いている前で。
「最初の数年間は、そうであったろう」
彼が言った。
「そなたがその空で最初に首を斬った将軍は、おそらくは俺の配下であったろう。俺はその将軍の名を知っていた。そなたは知らなかったであろう」
俺はその将軍の顔を覚えていなかった。あの日、俺はその首を持って、王城の金門から入った。銀門から入っていた者が、初めて金門を開けた。あの日の金門は覚えている。その首の顔は覚えていない。
刑務官が記録用紙に何かを書きつけた。あとで写しを見た。
(同席者と収容者、過去の対立関係についての陳述。比喩と判断)
刑務官は「比喩」という欄を、少しずつ広げながら書いていた。
* * *
「そちらでは、俺は勇者と呼ばれていました」
俺は言った。何か言わなければならない気がしていた。
「称号は王がつけたものです」
「称号は、他人がつけるものだ」
「つけた人から勲章ももらいました。領地付きの」
「同じ王が、俺にも称号を一つ与えた。勲章はなかった」
彼はその称号が何だったのか言わなかった。俺も訊かなかった。
同じ王が、同じ戦争の両側に称号を一つずつ与えた。片方には勲章を付け、片方には付けずに。
あの王は、きっとどちらもよくやったと思っていたのだろう。称号を与えるのは、王にとっては書類仕事だった。
「おじさんたち」
その子が言った。ごく小さく。
「今、頭の中の二人とも笑ってるんです。変なふうに。笑い話じゃないのに」
その子の言うとおりだった。笑い話ではなかった。
だが、この部屋で笑いが漏れる瞬間は、いつも笑い話ではないときだった。班長の凍傷の心配のように。刑務官の「比喩」欄のように。
* * *
彼女はその間、一言も口をきかなかった。俺の隣の椅子に座り、ガラスの向こうとこちらを交互に見ていた。
彼女の弟が死んだ場所にあった体と、その体に乗り移った人間と、その人間と戦った人間。彼女は三人を同じ卓の上に並べて見るような顔をしていた。仕切りを設けないまま。
「面会終了十分前です」
刑務官が言った。
七番目が身を前に傾けた。通話口の近くへ。今度は低い声がさらに低くなった。
「一つだけ訊く」
「はい」
「あの部屋の話だ。そなたが先月、最後まで話さなかった」
俺は頭の中でその子を思った。
あの部屋は見るな。
その子は約束どおり、あの部屋には入って来なかった。今も入って来ていない。俺にはその子の沈黙が分かった。扉の前で待つ沈黙だった。
「そなたがあの部屋に入ったとき」
七番目が言った。言葉を一つずつ枠に当てはめるように。ゆっくりと。
「あの者が先に立ち上がったのか」
俺はあの部屋を思い出した。
122段の階段。階段の終わりに部屋があった。部屋の奥に誰かがいた。俺が入るのを待つように。
俺はその場面を1年のあいだ思い出さないようにしていた。それでも、いくつかは残っていた。あの部屋は寒かった。窓はなかった。
「あの人は、待っていました」
俺は言った。
「俺が入ると、立ち上がりました。それから部屋の真ん中へ歩いてきました」
七番目は答えなかった。
彼の顔は動かなかった。眉の端も。唇も。ただ、膝の上の手だけが動いた。爪の下が黒い右手。その手が膝をつかんだ。指先に力が入った。爪の下の黒いものの周りが白くなった。血が抜けた跡だった。
「部屋の中が静かになりました」
あの子が言った。ごく小さな声で。ドアの外で耳を押し当てている子どものように。
「さっきは騒がしかったのに。今は何の音もしません。時計も」
刑務官がボールペンを置いた。何を書けばいいのか分からない顔だった。今度は「比喩」という欄すら使わなかった。部屋の沈黙が長すぎて、刑務官はその沈黙の長さを腕時計で測り始めたが、やめた。
面談官はガラスの向こうを見た。それから俺を見た。彼女は何かに気づいた顔をしていた。何に気づいたのかは言わなかった。見抜く者は終わりを知る、と彼女はいつか言った。彼女は今、どんな終わりを見ていたのだろう。
彼女の手がペンを握った。手帳は開かないまま。何かを書こうとする人の手つきだった。書かなかった。書けば、それが欄になる。欄になれば、誰かが決裁をする。彼女はその終わりを決裁板に載せないと決めた顔だった。白い部屋で、俺のグラフを決裁板に挟まなかったときのように。
俺は彼が次の質問をするのを待った。誰だったのか。どんな姿をしていたのか。
彼は知っていた。あの部屋に誰がいたのかを。俺はあの部屋に入った人間なのに、知らなかった。彼はあの部屋に入ったことなどないのに、知っていた。あの空の戦争で俺が最後まで知らなかったことを、彼はガラスの向こうで、俺の答えの一行から知った。
彼はその日、それ以上何も訊かなかった。
* * *
あの部屋の章を、我々はめくらなかった。その日、あの接見室で、その章の端が初めて耳に届いた。
ガラスの向こうの人は、その章をめくらないことにした。




