第142話 ハルヤン(2)
手紙が届いたのは、1月の2週目だった。
妻が受け取った。妻は郵便物を開ける人だ。だが、その封筒は開けなかった。食卓の上にきちんと置き、その上にみかんを一つ、文鎮のように乗せておいた。
「手紙は開けてない」
玄関で靴を脱ぐより先に、妻が言った。
「でも封筒は見た。差出人は刑務所だった」
「ああ」
「先輩が刑務所にいるの?」
「ああ」
妻はみかんを手に取り、皮をむいた。一房をちぎって、俺の口に入れた。それから聞いた。
「何の罪で?」
「分からない」
本当に分からなかった。妻は、その人が自分の弟だと言った。書類には狂気による殺人と記されていた、とも言った。だが、その書類が正しいのか、妻自身も確信していない顔だった。そして、その体でしたことが彼の罪なのか、その体の本来の持ち主の罪なのか——この国の書式には、それを分ける欄がなかった。
妻はみかんを一房さらに食べながら、頷いた。
「分からない罪なら、まだ決まってないってことね」
妻は警察署で4年間、決着のつかない事件を一つ抱えて生きてきた。決まっていないものについては、俺よりずっと詳しかった。
* * *
封筒に押された印は一つだけだった。刑務所の検閲印。
去年の春、白い部屋に届いた手紙には二つあった。刑務所と管理局の印だった。今回は管理局を通っていない。管理終了者に宛てた手紙だったからだ。
俺のファイルに括弧が付けられ、再び開かれたことを、刑務所は知らなかった。
封筒の中には、折り畳まれた紙がもう一枚入っていた。検閲官の検討意見の写しだった。収容者の手紙に意見が付くと、受取人にも一緒に届く——前回の電話でそう聞いていた。
今回の意見は時調ではなかった。散文だった。一行だけ。
本文全体が古風な語尾で書かれていたが、隠語ではなく昔の言葉遣いと判断した。ただし、受取人が解読に困難を覚える場合は、矯正相談室に問い合わせられたい。
俺はその紙を長いこと見ていた。
検閲官は前回、時調を書いた。今回は時調を書かなかった。おそらく書きたかったのだろう。一度書いたことを二度書けば、それは癖になる。彼は、それが癖になるのを防いだ人だった。
それは思ったより難しい。
* * *
便箋は前回と同じだった。横罫の細かい、刑務所の支給品だった。
字も同じだった。罫線の枠に閉じ込められた、びっしりとした字。
ただ、最初の一行だけが違っていた。
時間へ。
「お前」ではなかった。
手紙には、こうあった。
半年前の手紙を書いたのは、確かに私だ。あの時はこの身体の言葉で書いた。この身体が使う口調で、この身体が知っている単語で。
あの頃の私は、この身体が私自身だと思っていた。
今は自分の言葉で書く。話し方が変わったことを、そなたは奇妙に思ったであろう。
奇妙に思うのが正しい。
俺はその段落を二度読んだ。
接見室で、俺が訊かなかったことを彼は先に答えた。俺が何を奇妙に思うのか、彼は知っていた。
あの子供のように、頭の中を読む人間でもないのに。
手紙は続いていた。
そなたの返事は受け取った。これから何かをする、という返事だった。
私も半年前は、そなたが何もしない人間だと思っていた。だから手紙を書けた。何もしない人間には、どんな言葉でも言えるからだ。
今、そなたが何かをすると言う。ならば私も、何かを言わねばなるまい。
この空へ来てから、私は本をたくさん借りて読んだ。最初の二年は、人を直す方法が書かれた本ばかり借りた。
心を直す方法、癖を直す方法、他人とうまくやる方法。
読んでも直らなかった。直すべき人間が誰なのか知らなかったのだから、当然だ。
最近は分厚い物語の本を借りている。図書担当は申請書を受け取るたびに首を傾げる。
教化指標が上がったという備考が付いたそうだ。物語の本を借りれば教化になるらしい。
私はその欄が気に入っている。
私の師は、文章を最後まで読む人間だった。幼い私が読むべきでないものを読もうとした時、師は止めず、灯明を一つ置いて行った。
読み終えるまで消えるな、という意味だった。
私はその意味を、あまりにも遅く知った。
この空の物語の本を最後まで読むことは、あの灯明への、遅れた返事なのだ。
* * *
俺は手紙を置いて、台所の窓の外を見た。アパート団地の遊び場が見えた。冬で、空っぽだった。
あの子が今この手紙を読んだら、何と言うだろう。頭の真ん中に耳を澄ませた。静かだった。
三人が一つの部屋にいなければ、あの子はいない。この手紙は、三人のうち二人の間を行き来する紙だった。あの子はこの紙を読めなかった。彼女も読まないだろう。彼女は、確かめない側を選ぶ人だから。
俺は次のページをめくった。
接見室で、そなたは終わりの話をしてくれた。四番目の森を抜けると城が見えたという話。あの部屋にはそなたとあの男しかいなかったという話。
今度は俺の側の話をしよう。すべては話せぬ。この紙は、俺とそなたの間に検閲官が一人立っている紙だ。あの人はいい人だが、いい人にも聞かせられない話がある。
俺は約束の日、約束の場所へ行かなかった。
あの日の朝、俺は別の扉へ行った。その扉がこの空につながるとは知らなかった。どこでもない場所へ行くつもりだった。何者でもない人間になりたかった。
だが、その扉はこの空の一人が帰る道で、俺はその道に乗った。この身体が、その人である。
俺はその段落の前で長いこと止まった。
この身体が、その人である。
彼の顔は、この空の顔だった。なのに、眉で笑う顔だった。その理由は、そこにあった。
俺はその顔が誰の顔なのか知らなかった。今は半分ほど分かっている。その顔は、この空からあっちへ呼ばれて行き、戻ってきた誰かの顔だった。そして、その中に、あっちから来た誰かがいた。
俺はその二人のどちらに返事を書いたのかを考えた。半年前には前の人へ。去年の秋には後ろの人へ。
白い部屋のベッドの下の床板が浮かんだ。爪で刻んだ三文字。「見るな」。
俺は10か月の間、その三文字を見ながら眠った。その三文字を刻んだ爪は、この身体の爪だった。
だが、その爪を動かしたのは誰だったのか。この身体の持ち主だったのか。それとも、この中に乗り込んだあの男だったのか。
その頃、あの男は自分がこの身体だと信じていたと言った。だとしたら、あの三文字は、自分が誰なのか知らない人間が刻んだ文字だった。
自分が誰なのか知らない人間が、他人に「見るな」と書いた。その三文字を見てから、俺は鏡の壁の方を、もう見なかった。その三文字は、そういうふうに効いた。
彼女が「弟だ」と言ったときの顔も浮かんだ。
その弟は移送の車の中で、この身体の隣で死んだ。
彼女はそのことを、誰の所業として覚えているのだろう。
俺はそれも訊かない。
* * *
俺が行かなかった場所に誰が立ったのか。俺がそれを初めて知ったのは、昨年の夏になってからであった。
その話はこの紙には書かぬ。
接見室で話す。いや、そこでもすべては話せぬであろう。
手紙のそのくだりは、字が少しだけ震えていた。
罫線の間に閉じ込められていた字が、その一行だけ下の線に触れていた。
半年前の彼の手紙で消されていた二文字を見たときのように、その震えた一行が、何かを消すまいと堪えた跡なのか、俺には分かる気がした。
分かった気がしただけだ。実際には何も分かっていなかった。
以前、同じ部屋を使っていた老人が、来月、出る。班長が配膳口でそう伝えてきた。五度目の再審査で許可が下りたという。
老人は、許可通知書に事由欄がないことを残念がっている。差戻し通知書は聖書の見返しにすべて集めてあるのに、許可通知書だけは集めておく場所がない、というのだ。
書類を集めてきた者にとっては、書類が終わる日が一番、胸に穴が空くものらしい。
俺はその老人を知らない。なのに、その段落はこの手紙の中で一番長かった。
手紙の主は他の話はみな削ったのに、その老人の話だけは削らなかった。
2年半も同じ部屋で暮らした者の話は、削れなかったらしい。
* * *
手紙の最後の頁は、1ページにも満たなかった。罫線を半分ほど残したところで、終わっていた。
そなたが四番目の森と言ったとき、私は森の数を数えた。そなたは四つと言った。私も四つを覚えている。日が昇る側に四つ。
そなたが終わりを告げたゆえ、次は私が始まりを語ろう。
その下にもう一行あった。最後の行だった。署名の代わりに。
私の森を引き継いだ者がいた。その者は私の席に座ったであろう。
* * *
翌日、測定があった。管理局の3階、廊下の突き当たりの部屋。
彼女は録音機を俺のほうへ押し出した。俺は窓の隙間の風を掴み、放した。
同期エラー -00:00:03.04
3秒を超えていた。
白い部屋で俺が掴んでいられた最も長い時間は、3秒だった。あれは掴んだ時間だった。これは引いた時間だった。別々の数字なのに、同じ場所で出会った。
彼女はその数字を測定表に書き、方眼紙に点を一つ打った。三本目の線が、また少しだけ近づいた。
彼女は何も言わなかった。形容詞を付けなかった。
「手紙を受け取りました」
俺が言った。
「そうですか」
彼女は何が書かれていたのかと訊かなかった。代わりにボールペンを置いて、言った。
「あの方の陳述書は、私も読んでいません。相談記録は矯正当局の管轄なので、請求すれば見られます。請求しませんでした」
「なぜですか」
「あの方がご自分の口から語るまで、待つことにしました。キッドの封筒を開けたときも同じです。順序が決まっているものは、順序どおりに開けます」
俺は一つだけ訊いた。
「あの体があの人の体ではないということは、ご存じでしたか」
「知っています」
彼女は言った。短く。
「あの体の持ち主は、私たちの番号がついた人間です。その人が今、あの体のどこにいるのかは分かりません。保留ではなく、不明です」
彼女が不明と保留を分けるやり方は、1年前も今も正確だった。だが今日は、その正確さが少し恐ろしかった。
不明と言った彼女の手が、ポケットの上にあった。薬の容器が入ったポケットだ。
あの体のそばで、彼女の弟が死んだ。
彼女があの体を誰の体として数えているのか、俺は最後まで訊かなかった。
その夜、午前3時に目が覚めた。
手に握っていたのは毛布だった。
あの手紙は枕元に広げたままだった。折らなかった。
折り目が他人の字を横切るのが嫌だった。
俺は天井を見ながら、その時刻のことを考えた。
接見室で、彼は何時だったのかと訊いた。俺は答えられなかった。
刑務官の告知が割り込んだ。
彼は訊き直さなかった。次に聞く、と言った。
午前3時。
あっちで11年のあいだ、俺を起こしてきた時刻だ。夜襲はいつもその時刻に来た。
なぜよりによってその時刻だったのか、俺は一度も考えたことがない。太陽がなぜ昇るのかを問わないのと同じように。
その時刻はただ、あの空の時刻だった。
隣で妻が寝返りを打った。
「また起きた?」
寝ぼけた声で訊いた。
「ああ」と答えた。
妻は俺の手を一度握って、離し、また眠った。
俺が戻ってきてから、妻はこの時刻に目を覚ます夫をずっと見てきた。
なぜ目を覚ますのかは訊かなかった。
訊かない人間が、この家にも一人いた。
* * *
あの手紙の最後の行の下には、署名がなかった。
一行分の空白が、半分ほど残っていた。
検閲官はその空の行を、所見には書かなかった。
空の行は、検閲の対象ではなかった。




