第141話 ハルヤン(1)
12月の接見室は暖房が弱かった。
ガラスの仕切りが、こっちとあっちの温度を分けている。こっちは少し寒く、あっちはもう少し寒そうに見えた。
七番目は囚衣の上に灰色の上着をもう一枚着ていた。刑務所の支給品だ。袖が手の甲を半分ほど覆っている。
正門の前で、彼女は測定表を見せた。先週の数値だった。
毎週やると刑務官の前で言った測定だった。彼女は本当に毎週やった。管理再開(測定のみ)。その括弧書きを、彼女は一週も欠かさなかった。
同期エラー -00:00:02.97
「1か月に0.09です」
彼女が言った。
彼女は数字を口にするとき、形容詞をつけない。「たくさん」とか「速く」といった言葉は添えず、数字だけ。
だから俺は、その数字が重いのだと思った。彼女が軽い数字に形容詞を惜しむ理由はない。
正門の警備室で、彼女は持ち込み申請書をもう一枚出した。
品名欄には、革の袋 1点(管理局保管の押収物)。
日本の警察署で俺の手を離れた袋だった。彼女が管理局の引き出しから出してきたものだ。
あっちの物をあっちの人間に見せれば、何か分かるかもしれない。彼女はそう言った。
警備の刑務官は中身の一覧に一度目を通すと、持ち込み不許可の判を押した。理由欄には、用途不明。
管理局の引き出しに付いていた札に書かれていた言葉と同じだった。
俺は袋を開けなかった。彼女はそれを鞄に戻す。鞄が閉まる音が、正門の前で少し大きく響いた。
2時。彼が椅子に座ると、頭の真ん中から声がした。
「おじさん、また表を作るんでしょ」
あいさつより先に、それが来た。
その子は、俺の頭の中にあった妻の誕生日を読んだ。結論の欄が空の表。百貨店の店員。来年のことまで考えてある。
「今度は欄をひとつだけ作りましょう。結論の欄だけ。それなら空かないじゃないですか」
俺は答えなかった。
隣で彼女が、ごく小さく息を吐いた。笑いだった。
白い部屋で1年のあいだに彼女の笑い声を聞いたのは、指で数えられるほどしかない。この部屋では、定期接見の2回目で一度だけだった。
その子は、彼女にも何かを尋ねた。
彼女の答えは聞こえなかった。彼女の答えは、彼女の頭の中にだけあった。俺に届いたのは、その子が移してくれた分だけだった。
「院長先生は? まだそこにいるの?」
彼女が何か答えたらしかった。その子は少し静かになってから、言った。
「院長先生が僕の名前をつけたときね、ノートに三つ書いて、一か月のあいだ、僕をその三つで順番に呼んだんだって。僕が一番早く振り向いたのが、その名前だったんだって。院長先生は、名前はもともと本人が大きくなりながら選ぶものだって。自分は候補を渡すだけの人なんだって」
その子はそう言って笑った。頭の中で。
「でも、僕はそれ覚えてない。院長先生が覚えてる。だから、院長先生は僕の名前の半分なんだ」
俺は自分の名前を思った。あの名前は、誰が選んだのだろう。親だったのだろう。俺には、その名前に振り向いた記憶がなかった。最初からその名前だったから。
妻が玄関の前でその名前を呼んだとき、それは振り向くことではなかった。戻ることだった。
立会い刑務官が記録紙を広げた。先月と同じ人だった。刑務官は接見の開始時刻を書き、要約の欄を一度見て、俺たち三人を一度見た。今度は何が書かれるのか、先回りして心配している顔だった。
* * *
「そなたがいた空の話を聞きたいのだ」
七番目が言った。仕切りの通話口から。低い声だった。
「最後の年から」
「最初からじゃないんですか」
「終わりを知れば、始まりはひとりでに読める。最初から聞けば、終わりまで行くあいだに、私が耐えられぬ気がする」
会社では、報告書は結論から書いた。上司たちは最後まで読まなかったからだ。
彼は最後まで読む人だった。なのに、結論からくれと言った。
最後まで読む人が結論を先に求めるのは、その結論次第で、最初を読むやり方が変わるからだ。
その結論が彼にとって何を変えるのかは、分からなかった。聞かなかった。
彼が耐えられない理由が、俺の話の中にあるはずがなかった。
あの空で、俺は彼を見たことがない。彼も、俺を見たことがない。
それなのに彼は、俺の話の終わりを先に聞かねばならぬと言った。
俺は話した。
刑務官が聞いている前で。声に出して。
最後の年、俺は城の前で半年、野宿した。
城は高かった。門は開かなかった。
仲間は四人だった。その半年のあいだに、二人を埋めた。
野ねずみを焼いた。
王の軍が俺たちの後ろについてきた。
軍は通る村ごとに穀物を取り立てていった。あの城を攻めるのに必要だと、そう言った。
ある村の老婆が、俺に尋ねた。
「勇者様のようなお方が、なぜあのような連中と一緒にいるのですか」
俺は答えられなかった。
翌朝、その村を出た。
「野ねずみは尻尾から焼くものだ」
七番目が言った。表情は変わらなかった。
「胴から焼けば尻尾が焦げて、苦味が移る。そちらの空では、そう教わるのだ」
「俺たちは胴から焼いた」
「だから半年かかったのであろう」
彼はそう言って、しばらく黙った。
それから彼は、俺が老婆の話をしたくだりへ話を戻した。
「あの老婆は、そなたを恨んでなどおらぬ」
「分かっています」
「そちらの空の村人たちは、軍の隣に立つ別の空から来た者にだけ、そう問う。同じ軍の将には問わぬ。村人たちは、将は元からああいう者たちだと思っているからだ」
「別の空から来た者にだけ問うのだ。『あなたはあの人たちとは違うと思っていたのに、なぜ』と」
俺は彼を見た。彼は、あの村を知っている者のように話した。あの老婆を知っている者のように。あるいは、そういう問いを向けられる人間を、何人も見てきた者のように。
「そなた以外にも、そのような問いを向けられた者は、そちらの空に何人もいた。答えた者は、一人もいなかった」
看守が顔を上げた。
野ねずみ。
看守はその言葉を要約欄に書くかどうか、しばらく迷っていた。結局、書かなかった。代わりに記録用紙の隅に、何かを小さく書きつけた。後に写しで見た。(同席者、海外滞在中の食生活に関する陳述)
* * *
「おじさんたち、その話をしながら笑ってる」
その子が言った。
「口は笑ってないのに、頭の中が笑ってる。おじさんの頭の中が。あっちのおじさんは見えないけど、ドアの向こうで笑う音がした」
俺はガラスの向こうを見た。
初めて、彼の顔を長く見た。この二回は、そうできなかった。最初はあの子のせいで、二度目は承認書と、残り十一回という数字のせいで。今日は、彼の顔だけがあった。
三十を少し超えた顔だった。あの身体の年齢の。頬骨が出ていた。目の下が窪んでいた。唇は薄かった。その顔は、この空の顔だった。肌も瞳の色も。なのに、その顔が笑いをこらえるときに動く筋肉は、この空の筋肉ではなかった。口角ではなく、眉の端が先に動いた。ごくわずかに。右側だけ。
あちらの空で、そういう顔を見たことがある。王宮の学者たちだ。長く文字を読んできた者は、口より眉で笑った。口は話すのに忙しかったから。
俺は、その顔が誰の顔なのか知らなかった。あの身体の持ち主が誰だったのか、その中の彼が誰なのか。彼女は知っているだろう。あの子も半分は知っているだろう。ドアの向こうで、俺の声を聞いているのだから。俺は訊かなかった。話は後にしようと言ったのは、俺だった。
* * *
「その城は、どこにあったのだ」
七番目が訊いた。
「地名は知りません。王は地図を見せませんでした。俺たちは王城から日の昇る方へ歩きました。森をいくつも通り過ぎました」
「幾つだ」
俺は数えた。指ではなく、頭の中で。
森を抜けるたびに何かを失った。だから森の数は、失ったものの数と一緒に記憶に残っていた。
馬一頭、仲間の剣一振り、兜一つ。
「四つです。四つ目の森を抜けると、城が見えました」
七番目は答えなかった。
爪の下が黒い右手が、膝の上で動いた。開いては握られ、また開いた。
彼はその手を左手で覆った。黒い爪を隠すように。
「ドアが揺れてる」
あの子が言った。ごく小さな声だった。
「あのおじさんのドア。中で誰かが押してるみたい」
看守は記録用紙に書きつけた。(地名不明、森4か所)
看守は、森が地名なのかどうか決めかねていた。そしてボールペンを握ったまま、上体をほんの少し前に傾けた。
この部屋に最初に入ってきたとき、看守は何を要約すべきか分からず、困った顔をしていた。今は次の言葉を待つ顔になっていた。
自分が待っていることに、看守は気づいていなかっただろう。
「そちらでは、何をされていたのですか」
俺が訊いた。
七番目は首を振った。
「順序がある。そなたが先に終わりを話すはずであった」
「俺が決めた順序じゃありません」
「だから守っておくれ。他人が決めた順序を守る者は珍しい。だから、こうして頼んでいるのだ」
* * *
「その森を抜けているあいだのことだ」
俺がそう言うと、七番目はもう一度訊いた。今度はゆっくりと。一つ一つの言葉を枠にはめ込むように。
「夜、何かが来たのであろう」
「来ました。夜襲でした。いつも同じ時刻でした」
「何時であった」
答えかけて、俺は黙った。
その間に、接見終了まで十分だという立会刑務官の告げが割り込んだ。告げ終えてから、刑務官は自分が何かを遮ったことに気づいた顔をした。記録用紙には、謝罪を書く欄がなかった。
七番目は、もう答えを求めなかった。代わりに言った。
「次に聞こう。今日は終わりの話を最後までしておくれ」
俺は終わりのことを考えた。四つ目の森。城。半年。四人いた仲間のうち、最後の二人は城の前で埋めた。そして一人で階段を上った。百二十二段。階段の終わりに部屋があった。
* * *
その部屋を思い浮かべると、頭の真ん中が少し重くなった。
あの子がそこへ向かっていた。俺の記憶をたどって。あの子にとって、俺の頭の中は扉のない家だった。どの部屋にでも入ることができた。
俺は頭の中で言った。その部屋は見るな。
声が止んだ。しばらくして、返事が来た。
「見ません」
あの子は、もう一度言った。
「キッドにも、そういう部屋がありました。頭の中に。鍵のかかった部屋です。私はそこに一度も入りませんでした。入ったら、キッドに知られてしまいます。キッドが気づかなくても、私には分かってしまいます。だから、入りませんでした」
彼女が隣で顔をこちらに向け、俺を見た。彼女はあの子が何を言ったのかを聞いていた。俺が何を止めたのかは、分からなかっただろう。それでも、彼女は訊かなかった。ガラスの向こうの彼も訊かなかった。その部屋では、訊かない者が三人いて、入らない子が一人いた。
許していないことはしない。白い部屋で、俺と彼女が互いに守った決まりだった。その決まりを、十四歳ほどの声が守っていた。誰に教わったのかは、訊かなくても分かる気がした。
俺はその部屋のことを声に出した。短く。部屋の形は言わなかった。そこで何があったかも。一秒を何度使ったかも。それは白い部屋の二日目に、録音機へもう話している。あの言葉は、どこかの測定表に書かれているはずだ。同じことを二度は言わない。
七番目が俺を見た。眉の端は動かなかった。笑いをこらえている顔ではなかった。何かを待っている顔だった。城門の前で道を見る者のように。
俺は最後の一文だけを言った。
「その部屋には、俺と魔王しかいなかった」
* * *
その日、その接見室で「魔王」という言葉は一度だけ、声に出された。
立会刑務官はその言葉を要約欄に書かなかった。書く欄を見つけられなかった。
ガラスの向こうの人は、その言葉を聞いているあいだ、左手で右手の爪を覆っていた。その爪の下の黒いものが、その日はじめて、少しだけ濃くなった。




