第139話 面会事由書(4)
午前3時に目が覚めた。
魔王軍の夜襲の時間だ。
手に握っていたのは毛布じゃなくて、ボールペンだった。どうやら俺は、食卓に突っ伏したまま眠っていたらしい。
癖で、頭の真ん中に耳を澄ませた。
静かだった。
彼女も今ごろ、どこかでこうやって目を覚ましているのかもしれない。返事のない名前を呼びながら。
その子にも手紙を書けたらよかった。
その子には住所がなかった。収容番号もなかった。
その子の住所は、三人が一度に入る、たった一つの部屋だった。その部屋は、勤務時間にしか開かなかった。
便箋は白かった。最初の一行に、二文字だけ書いてあった。
「先輩」
半年前も、ここまで書いたところで長いこと止まった。
あのときは、受刑者に「お疲れさまです」とは書けなかったからだ。
今は、理由が違った。
あのときは、何を書けばいいのか分からなかった。今は、何を書くべきか分かっていた。それがあのとき書いた言葉と正反対で、手が止まった。
ためしに、あのときの文をそのまま一度書いてみた。
「今後も何もいたしません」
自分の字で書いてあるのに、俺の文じゃなかった。
最初は「残り2か月」と書いた。管理局はその五文字を差し戻した。保護期間を特定する表現と解釈されるおそれがある、という理由だった。
俺はそれを消して、「今後」と直した。文は通った。
管理局が通したのは、俺の約束じゃなかった。期限のない約束だった。
* * *
接見室で、俺は彼に言った。
「手紙は受け取りました」
「返事は、まだ書けていません」
その言葉を口にしてから、ようやくそれが本当だと分かった。
半年前に出したのは返事じゃなかった。検閲を通った一文だった。
俺は、あの文に線を引いた。一度。二度。何度も。文字がほとんど見えなくなるまで。
半年前の彼の手紙にも、そんな線があった。
「見るな」
彼はそう書いて、消した。そしてその下に、新しく書き足した。
「もう見てもいい」
その手紙を受け取った日、俺には意味が分かった。
あの人は、消したことを見せるために消したんだ。
俺もまた、消した跡を残した。
そしてその下に、新しく書いた。
* * *
手紙は短かった。
会社勤めのときに覚えたことだ。長いメールは、誰も最後まで読まない。
それに、この手紙はあの人より先に、別の誰かが読むだろう。
あの子の話は書かなかった。誰にも、です。
検閲官も「誰にも」に入る。名前も、声も、接見室で起きたことも。
俺は枠のない紙の上で、枠に合わせて書いた。
枠からはみ出さないように。はみ出せば、そこにあの子がにじみ出てくる気がした。
グラフの話も書かなかった。
三本目の線。同じ傾き。六つの升目。
それは彼女の引き出しの一番下の段にある話だった。俺の手紙に移す話じゃない。
ただ、あのグラフを見た日から、俺は一つの計算をしていた。
俺が何もしなければ、あの線はひとりでに上がる。
洗顔のように毎日使えば、俺の手で上げる。
どちらにせよ、上がる。
ならば、何もしないことは選択肢じゃなかった。それはただ、別のやり方で上がるだけだった。
本文はこうだった。
最初の行は、消した行の下にあった。その行は、一番最後に書いた。
「半年前の返事は、私の一文ではありませんでした。期間を消したのは管理局でした。それでも私は、その一文を守りました。1年のあいだ何もせず、家に帰りました」
「家に帰ってから3か月、毎朝、洗面台の水滴を捕まえました。それは、何もしていないことに入ると思っていました。洗顔みたいなものですから。先週、それが洗顔じゃないと分かりました」
「先輩は、1年のあいだにやったことは終わらないとおっしゃいました。1年が終わったあとにやることも、終わらないようです。ですから今度は、最後までやってみます」
「少し話す必要があるとおっしゃいました。話します。日付は書類が決めるとおっしゃったので、書類が決める日に伺います」
「時間、贈る」
最後の一行を書き終えて、俺はその二語を長いこと見ていた。
名前の代わりに使ったあだ名が、そう読めるとは知らなかった。
直さなかった。
間違ってはいなかった。
朝。
妻が起きてきて、食卓の上の便箋を見た。
読まなかった。
妻は人の手紙を読まない。郵便物は開ける。けれど、中身の手紙は読まない。その二つがどう違うのか、妻は知っている。
妻が見たのは、消した行だけだった。
「ずいぶん消したね」
「一行だ」
「一行を、ずいぶん消したね」
妻はコーヒーを淹れに行った。
俺は便箋を折った。折り目が俺の字を横切っても構わなかった。俺の字は枠の中にあったから。
* * *
収容者に手紙を送るのに、書式は要らなかった。切手さえあればよかった。管理局を通さない手紙だった。
宛名欄には、刑務所の住所と収容番号、それに名前を書かなければならない。
俺は彼の名前を知らなかった。
引き出しから、先週窓口で差し戻された接見申請書を取り出した。俺が空欄のままにした被収容者氏名欄を、窓口の職員がシステムで埋めて印刷してくれた紙だった。
そこに、その名前があった。
あの身体の名前。
俺はその名前を初めて見た。半年のあいだ手紙をやり取りしてきた相手の名前を、差し戻された書類で初めて読んだ。
封筒に書き写した。整ってはいない字で。
書き写しながら、妙な気分になった。その名前を誰かが呼ぶ声を、俺は一度も聞いたことがなかった。
半年前の手紙の一番下には、署名がなかった。接見室で、彼は俺の名前を訊かなかった。俺を「時間」と呼んだ。俺も、彼の名前を訊かなかった。
互いに名前を訊かない間柄では、名前は封筒の上にしかなかった。
半年前、白い部屋では管理局支給の便箋に書いた。管理局の検閲も受けた。今回は、管理終了者が郵便局から出す手紙だった。
俺のファイルが「管理再開(測定限定)」でまた開かれたことを、郵便局は知らなかった。括弧の中は、システムも読まない。
手紙を出した翌朝、俺は洗面台の前で水滴を捕まえなかった。
一度、試してみたかった。何もしないことが、本当に選択肢ではないのかを。
蛇口をひねり、歯ブラシに歯磨き粉を付けた。
そして我に返ったとき、俺は歯ブラシを持ったまま洗面台の前に立っていた。歯磨き粉が半分ほど、歯ブラシから垂れていた。
鏡の中の男が俺を見ていた。
何秒消えたのか、分からなかった。
洗面所の扉の外から、妻が訊いた。
「どうして水をそんなに長く出しっぱなしにしてるの」
俺は答えられなかった。いつから出しっぱなしだったのか、分からなかった。
書かなければ、滑る。
1年前、白い部屋で聞いたその言葉は、もう測定値ではなく、朝の出来事になっていた。
俺は水滴をひとつ捕まえた。この一秒。
そして、離した。
あの朝の選択肢は、二つではなかった。滑るか、昇るか。
* * *
2日後、知らない番号から電話が来た。刑務所からだった。
「信書検閲担当です。差出人ご本人ですか」
低く、遅い声だった。言葉と言葉の間に、一定の間があった。三、四、三、四。
その拍子をどこで聞いたのか、俺は考えた。学校の国語の時間だった。
「はい。俺です」
「信書の中の一つの表現を確認したいのです。収容者を指す言葉として、『先輩』と書かれています。収容者同士の上下関係を示す隠語でしょうか」
「違います。同じ部屋を先に使っていた人、という意味です」
「同じ部屋というと、収容歴がおありですか」
「刑務所の房ではありません」
受話器の向こうが、しばらく静かだった。
検閲官は、その答えをどの欄に収めるか選んでいるようだった。
「では、もう一点。本文の末尾に『時間』という署名があります。差出人の氏名とは異なります」
「あだ名です。その方が、俺をそう呼ぶんです」
「あだ名は検閲の対象ではありません」
検閲官はそう言って、付け加えた。
「ただ、一点。消した行の下の『今後は』という表現ですが」
俺は息を止めた。
半年前の差戻しの理由が浮かんだ。『期間を特定する表現と解釈されるおそれあり』。
「期間を特定していないので問題ありません。通過です」
検閲官はそう言って、電話を切らなかった。
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。
「審査意見欄に一行書きました。収容者にも同じものが届きます。念のため、お伝えしておきます」
「何と書いたんですか」
検閲官は、その一行を読み上げた。三、四、四、四の拍子で。
「お手紙の
今後は
期限なし
通すとぞ」
切れた電話を耳に当てたまま、それが時調の一節だと気づくのに、しばらくかかった。
我々は、消された行の下を読む。
お前たちが何度線を引いても、紙は忘れない。
半年前の一行と、今日の一行。同じ言葉が、字ひとつを挟んで向かい合っている。
* * *
妻にその話をした。
あの子の話は抜きで、検閲官の話だけ。
妻はコーヒーカップを持ったまま、しばらく笑っていた。そして笑みを止めて、訊いた。
「その人、差し戻すこともできたんでしょう」
「ああ」
「なのに通して、しかも時調まで書いてくれた。いい人だ」
妻は警察署で4年間、差戻しの書類を受け取ってきた人間だ。
事由不十分、終結保留、陳情者の意思尊重。
妻は、差し戻さない人をすぐ見分ける。
半年前、管理局は「残り2か月」を差し戻し、「今後」を通した。今日、刑務所は「今後は」を通し、その事実を時調に書いた。
同じ言葉だった。字がひとつ増えただけだ。
その字ひとつが、半年だった。
* * *
彼女には言わなかった。
手紙を出したことは、言わなくても彼女が知ることになる。彼女は刑務所のすべての通信記録を照会できた。照会しないこともできた。
俺は、彼女が照会しないことを願った。彼女がそちらを選ぶだろうことも、分かっていた。
1年のあいだ、彼女は俺のポケットを探らなかった。俺も彼女の薬の瓶に触らなかった。
許されていないことはしない。その規則は、白い部屋にだけあるものではなかった。
ただ、ひとつ引っかかっていた。
半年前の彼の手紙は、ため口だった。
最初の一行は「おい」だった。挨拶はなかった。
なのに、接見室のガラス越しの彼は、古めかしく硬い言葉で話した。
「あなたが時間である。少し話をするべきだと思ったのだ」
語尾が長かった。
彼女は、二人は同じ人間だと言った。
手紙の文字は、罫線の枠に押し込まれた詰まった文字だった。ガラスの向こうの声は、語尾が長く、遅かった。文字にも話し方があるのなら、その二つの話し方は違っていた。
半年のあいだに彼に何があったのか、俺は知らない。
俺はその半年のあいだに、白い部屋を出て、家へ帰った。
彼はその半年のあいだに、どこへ行ったのだろう。
その問いを、俺は手紙に書かなかった。
話は後でしよう、と俺が言った。その「後で」が来たら、訊く。
* * *
最初の一行を書きながら、俺は妻の事由書を思い出していた。
動かぬ事由欄。指一節の高さの一行。
妻はその欄に、一文を書いた。その文は欄を突き破って、下へ伸びた。警察は「事由不十分」と書いた。
その文は、正しかった。
俺の最初の一行は、欄を突き破らなかった。俺はそういう文字を書く人間ではない。
それでも、その一行は半年前の一行を突き破って出てきた。何度も線を引いた場所の、すぐ下から。
手紙はこう始まった。消した線の下に、俺の文字で。
「先輩。今後は、何かをします」
* * *
その日、刑務所の検閲台帳の審査意見欄には、正確に十五文字が記された。
三、四、四、四。
その欄に時調が記されたのは、あの検閲官の15年のあいだで初めてだった。
彼はその日、退勤しながら、そのことを誰にも言わなかった。
* * *
我々はその夜を、しばらく眺めていた。
消された場所の下に、新しい一行が置かれた。
我々はそれを、忘れない。




