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第138話 面会事由書(3)

通知書は翌日届いた。


彼女の言ったとおりだった。彼女の予測はたいてい当たる。外れるのは、人についての予測だけだ。


妻が先に受け取った。俺はその日、午前中ずっと管理局にいて、昼ごろに帰った。玄関の扉を開けると、食卓の上にその封筒があった。封は切られていた。妻は郵便物の封を切る人だ。受取人欄に誰の名前が書いてあっても。


帰還者保護開始通知書。


俺はその表題を知っている。1年前には受け取れなかった。あのときは、頭に黒い布の袋をかぶせられていた。通知書の代わりに、白い部屋が来た。


妻は食卓の向かいに座っていた。眼鏡を額の上に上げていた。怒ったときの癖だ。妻は怒ると眼鏡を外さず、上げる。外すと、相手の顔が見えなくなるから。


「また入るの?」


「違う」


「ここに、保護期間は帰還日から365日って書いてある。帰還日の欄には、去年の7月2日って書いてある。だったら、もう終わってるじゃない。終わったものを、なんでまた開始するの?」


「システムのエラーだ。取り消しの書類は出したって。営業日で7日だ」


「7日」


妻は通知書の一番下の欄を見た。受領確認の返信欄だ。


妻はボールペンを取った。そして、その欄に書いた。欄からはみ出して。欄の三倍ほどもある大きな文字で。


「送りません」


「ん」の最後の払いが長く伸びて、手前の「せ」の下まで潜り込んでいた。句点は欄の外の余白に打たれていた。


「これをそのまま送れ。返信しろって言われてるんだろ」


妻はボールペンを置き、眼鏡を鼻の上に戻した。そして通知書をもう一度読んだ。今度はゆっくりと。


「もし、本当にまた入ることになったら」


「入らない」


「もしもの話。そのときは、私も行く。同席者欄、あるでしょ。そこに私の名前を書いて」


俺は、刑務所の正門の警備室にあった訪問者名簿の同席者欄に、自分の名前を書いた日のことを思い出した。


あの日、班長はその欄に線を引かなかった。


俺はその通知書を封筒に戻した。


検閲官がこの返信を受け取って目にする。あの字を、彼女は見分けるはずだ。白い部屋で1年のあいだ、毎週あの字を検閲していた女なのだから。


3日後、彼女から電話が来た。返信は受け取った、と。


受領確認の返信欄にあった「送りません」は、受領確認として認めて処理した、とも。


送付取り消しの書式とその返信は、同じ日の同じ決裁板に並べて挟まれた。


受け取った人間が「受け取っていない」と書いた書類が、送った人間が「送っていないことにする」と書いた書類の隣に。


彼女はその報告を終えると、しばらく黙った。受話器の向こうで、ボールペンの先が机を叩く音がした。


「あの字、久しぶりでした」


彼女はそう言って、電話を切った。


彼女は1年のあいだ、毎週木曜日にあの字を読み、検閲の印章を押していた。印章がまっすぐな週もあれば、傾いた週もあった。


もう彼女に、あの字を読む理由はない。3日前までは。


* * *


妻の誕生日は、そこから10日後の金曜日だった。


俺はそれを3か月前から知っていた。正確には、5年前から知っていた。


最後に誕生日を一緒に過ごしたのは、俺がいなくなる前の年だった。


あっちでは日を数えられなかった。暦が違った。


白い部屋では日を数えられた。行くことはできなかった。


白い部屋での最初の日、指で日を数えたとき、俺は今年の誕生日には行けないと、そこで計算を打ち切った。


計算は当たった。その年の10月は、白い部屋の測定表のあいだを通り過ぎていった。


妻は手紙に、俺の誕生日を4回ひとりで祝ったと書いていた。


自分の誕生日を何回ひとりで祝ったかは、書いていなかった。


その数字なら、俺にも数えられた。数えなかった。


今年は数えることも、行くこともできた。家だったから。


それなのに、金曜日の朝まで、俺は贈り物を選べずにいた。


3か月、選ぼうとしていた。会社に通っていたころと同じやり方で。


ノートパソコンに表を作った。横軸が候補、縦軸が基準。


値段、実用性、妻が以前欲しいと言ったことがあるか、4年間、妻になかったものか。


候補は30を超え、基準は10を超えた。


表の一番下に「結論」の欄を作った。


その欄は、3か月間、空のままだった。


表の作り方は、会社で覚えた。


表の閉じ方は、誰にも教わらなかった。


金曜日の午後、俺は百貨店へ行った。印刷した表を持って行った。1階の売り場で、店員が俺の手元の紙に目を留めた。


紙には、候補が31あった。


店員は笑うのを必死にこらえていた。


「贈り物を受け取られる方は、どんなものがお好きですか」


「それが分からなくて、表を作りました」


「プレゼントを贈られるのは、何年ぶりですか」


「5年ぶりです」


店員は少し考えてから、妙に真剣な顔で言った。


「でしたら、5つお買い求めください。1年に1つずつ」


その言葉が正しいのか、俺はしばらく考えた。


正しい気がした。だから、余計に選べなくなった。


5つ選ぶのは、1つ選ぶより5倍難しい。


俺は表を折らないまま、店を出た。折り線が候補を横切るのが嫌だった。


* * *


金曜日の夜、妻はケーキを買って帰ってきた。


自分の誕生日ケーキを、自分で買ってきたのだ。小さなケーキだった。ろうそくは買ってこなかった。


「ろうそくは?」


「立てない。何本立てるか、また悩みたくないの」


半年前の俺の誕生日に、妻はろうそくを何本立てるか、手紙に書いていた。


こっちの年齢か、俺が生きてきた年数か。


その手紙は、今も俺の引き出しにある。


妻は同じ悩みを繰り返したくないと言った。今回は彼女自身の年齢なのに。


俺は手ぶらだった。


妻も分かっていた。妻は俺の手を見て、笑った。


「表、作ったでしょ」


「ああ」


「結論の欄、空だったでしょ」


「ああ」


「会社に通ってたときもそうだった。結婚記念日のとき。エクセルを開いたまま夜を明かして、結局、花を買ってきたじゃない。花は表になかったのに」


俺はそのことを覚えていなかった。


あっちで11年を過ごすと、こっちの記憶が少しずつ抜けていく。


抜けた場所を、妻が埋めてくれる。


妻の記憶には、まだ欄がたっぷりある。


* * *


ケーキを半分ほど食べたころ、妻が訊いた。


「会社で、何かあった?」


俺はフォークを置いた。


半月以上、妻はその質問をしてこなかった。


俺が毎朝、洗面台の前で水滴を捕まえているのを見ていても。


俺が午前3時に目を覚まし、天井を見ているのを知っていても。


そして、俺が最近ときどき、頭の真ん中に手を当てているのを見ていても。


その癖を、俺は知らなかった。


妻に言われて、知った。


「しきりにここ、触ってるね。頭の真ん中。どこか痛いの?」


「いや」


痛いところはなかった。


そこは、あの子の声が出ていた場所だった。


俺はそこに手を当てていた。何かが聞こえるのを待つ人間のように。


半月以上、その場所は静かだった。


その静けさが妙だった。


それまで、頭の真ん中が静かだなんて、奇妙に思ったことは一度もなかった。


「誰にも、です」


彼女の声が浮かんだ。


あの子が伝えてくれた声だ。


「奥さんにも、です。姉が、ごめんって」


「仕事が少しあって。言えない仕事だ」


俺はそう言った。


嘘ではない文のうち、いちばん短いものを選んだ。


妻はうなずいた。それ以上は訊かなかった。


代わりに、ケーキの皿を俺のほうへ押しやった。


「言えない仕事なら、4年間で私がいちばんやってたよ。警察署で。一人でやってると、ご飯がまずくなる。だから、食べて」


妻はフォークで、ケーキの上のチョコレートの板を半分に割った。


そこに書かれていた文字が、二つに分かれた。


「私も4年間、嘘を一つついてた。会社の人たちに。夫が海外派遣に行ってるって。最初の1年は、その言葉を言うたびに喉が詰まった。でも、あなたが帰ってきて、話を聞いてみたら」


妻が片方を俺の皿に置いた。


「あれ、合ってたんだ。すごく遠くに派遣されてたんだね」


俺は笑った。妻も笑った。


4年間、嘘だと信じて言っていた言葉が本当だったと、妻は一人で知ることになったのだ。


笑い終えると、妻は残ったケーキの半分を俺のほうへ押しやった。


俺は食べた。ケーキは甘かった。妻は味付けはできないが、ケーキは店で買ってくる。それは妻が知っていることだった。


* * *


皿洗いは俺がやった。妻は居間でテレビをつけたまま、見てもいなかった。


俺は茶碗をすすぎながら、蛇口から落ちる水滴を見た。掴まなかった。今日は朝に一度やった。測定表には1日1回と書いてある。彼女がその欄をまた開けたので、もう一度、空欄ができた。


俺はあのグラフを思った。3本目の線。あの子の線と同じ傾き。毎朝、俺の手で一マスずつ上へ上げていく線。


書かなければ滑り落ちる。1年前、彼女がそう言った。書けば貼りつく。だから俺は毎日書いた。妻のそばに貼りついているために。


なのに、貼りつくために書くことが、俺をあの子の線の上へ押し上げていた。


俺は蛇口を閉めた。


* * *


妻が眠ってから、俺は引き出しを開けた。


妻の手紙が40数通。七番目の手紙が1通。行の詰まった刑務所の便箋だった。最初の行に「よう」。


白い部屋で、俺はその手紙に返事らしきものを送った。検閲で差し戻され、「残り2か月」を「これから」に直された文。あれは俺の文ではなかった。管理局の文だった。管理局が通した約束だった。


接見室で俺は彼に言った。「手紙は受け取りました。返事はまだ書けていません」


嘘ではなかった。俺はその言葉を口にしてから、そうだと知った。


俺はその手紙を読み返した。10か月、毎晩見ていた二文字を刻んだ男の手紙。


一年の間にやったことは終わらない。


そしてその数行下に、お前は俺のようなことはしないだろうから。


彼は俺が何もしない人間だと信じて、あの手紙を書いた。俺は何もしないと答えた。管理局がその答えを永遠にした。


ところが俺は、この半月あまりで、何もしない人間にはできないことをしてきた。ガラスの向こうで他人の頭の中の音を探した。あの子の名を呼んだ。そして今は、あの子を全部連れてこようという言葉に答えなかった。


答えないのは拒絶ではなかった。この国で1年暮らせば、その違いがわかる。空白は拒絶ではない。まだ書いていない欄だ。


引き出しの一番下に、妻の便箋の束があった。妻が書きかけで残したものだった。線のない紙で、欄もなかった。俺は一枚を取り出した。


居間で妻が寝返った。寝言のように訊いた。


「何を書いてるの」


「手紙」


「誰に」


「先輩」


妻はその先輩が誰かと訊かなかった。代わりに布団を引き寄せて、半分眠った声で言った。


「誕生日プレゼントは」


「選べなかった」


「知ってる」


妻が寝返った。そして背中越しに言った。


「来年のも考えてきて」


* * *


その夜、あの家の便箋一枚は、午前3時を過ぎても白いままだった。


欄のない紙だった。彼は欄がなくても欄に合わせて書く人間だった。だから最初の一行には、長い時間がかかった。


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