第137話 面会事由書(2)
彼女が電話をかけてきた。書類ではなく、電話だった。
「管理終了者を呼び出すための様式がありません」
第一声がそれだった。挨拶はなかった。前回の同行依頼書は、彼女が白紙に定規を当てて引いた枠だった。同じことを二度やれば、それは様式になる。様式になれば決裁が要る。だから電話だ、と彼女は言った。
「明日の午前10時。測定です」
「測定、ですか」
「測定です」
彼女は同じ言葉を二度言った。白い部屋で過ごした1年のあいだ、彼女が同じ言葉を二度言う日は、その言葉の裏に別の言葉が隠れている日だった。
妻が食卓の向こう側から電話機を見た。誰なのかとは訊かなかった。俺の顔を見て、分かったのだ。妻はこれまで、食卓の向こう側から俺の顔を見てきた。その顔が誰と電話しているときにどう変わるのか、妻は知っている。
「会社?」
「ああ。会社」
妻はあの会社を会社と呼ぶ。俺がそう呼んだからだ。誰にも話すなという約束をしてから、4日目だった。嘘ではなかった。あの建物にも出入証があり、昼休みがある。
ただ、俺は妻に嘘をついたことがない。あっちで11年、こっちで1年。妻に言えなかったことはたくさんあった。言わないでおいたことはなかった。白い部屋の手紙は、検閲が代わりに消してくれた。俺が消す必要はなかった。今度は、俺が消さなければならなかった。この4日間、俺は食卓で言葉を選ぶ人間になっていた。妻はそれに気づいただろう。妻は枠より大きく書く人間で、枠が空いているのを誰よりも先に見る人間だ。
* * *
管理局の建物は、白い部屋とは違っていた。窓があった。
彼女の部屋は3階の廊下の突き当たりだった。ドアの名札に「室長」とある。18年のあいだこの部署の長だったという人間の部屋にしては、狭かった。
机が1つ、椅子が2つ、鉄のキャビネットが1つ。机の一番下の引き出しには錠が付いていた。机の上には録音機。あの録音機だった。赤いランプは消えている。
彼女は書類を1枚、机の上に置いて俺を待っていた。
「まず、これから処理します」
矯正当局の公文書だった。題名は長い。特別面会記録に関する確認依頼。本文は短かった。
前回の面会における立会い刑務官の記録用紙、その要約欄に「ユンスル」という語が3度、繰り返し発話されたと記載されている。当該語が面会対象の収容者以外の第三者の人名であるか確認されたい。人名である場合、面会対象者名簿の訂正を求める。
この国の書類は、名前ひとつさえ素通りさせない。
彼女は返信様式の「返信内容」欄にボールペンの先を置いた。俺はその欄を逆さまに読んだ。白い部屋で覚えたことだ。彼女がそこに書き終えるまで1分かかった。たった一行だった。
当該語は人名ではなく、日光や月光に照らされてきらめくさざ波を意味する普通名詞である。管理対象者に関連する記憶情報の照合過程で用いられた比喩的表現と判断される。
嘘ではなかった。辞書に載っている語だ。その子の名を付けた児童養護施設の院長が、その言葉を知らないはずがなかった。彼女は辞書を書類にした。書類を辞書にする人間は多くても、辞書を書類にする人間は初めて見た。
彼女は朱肉を出さなかった。署名だけをした。そして返信書を決裁板に挟みながら言った。
「誰にも、です」
「分かっています」
今は聞こえますか。俺はそう訊いた。声には出さなかった。彼女の顔を見て訊いた。彼女は首を振った。
「四日間、毎晩呼んでみました。頭の中で」
彼女はそう言って、机の引き出しを見た。
薬の箱が入った引き出しではなかった。その上の段だった。
「返事はありませんでした。18年のあいだ呼ばなかった名前を、今は呼んでも返事がありません」
彼女は笑わなかった。それは不平ではなかった。彼女はその言葉を報告書のように口にした。
だが、俺にはその報告書が何を意味するのか分かった。
彼女は返事のない名前を、4晩続けて呼んだのだ。その名前が返事をするのを、一度聞いたことがあるから。
* * *
「では、測ります」
彼女は録音機を俺のほうへ押し出した。赤いランプが点いた。
俺は彼女の机の上にある置き時計を見た。秒針のある時計だった。
その部屋でいちばん小さい音は、その秒針ではなかった。窓の隙間の風だった。
俺は風を掴んだ。1秒。いや、それより少し長い。
毎朝、洗面台の前でしていることと同じだった。顔を洗うように。
そして、放した。
彼女は録音機の画面を見た。
長いこと見た。
それから、画面を俺のほうへ回した。
同期エラー -00:00:02.88
1年と少し前、この画面には0.31が浮かんでいた。
白い部屋の最後の日には、0.1だった。
そのあと3か月、俺は顔を洗うように毎日、時間を止めた。
測定はしなかった。
誰も測らないあいだも、数字はひとりでに育っていた。
「増えました」
「分かっています」
俺はそのマイナス記号を見た。
初めてその記号を見た日、彼女は言った。
「止まったのではありません。あなたがこの部屋の時間を後ろへ引いたんです。ほんの少しだけ」
それ以来、俺は時間をただ止めたことは一度もない。
止めるたびに、少しずつ引いた。
それが俺の指紋だった。
1年のあいだ、その指紋は一度もゼロに触れなかった。
* * *
「お見せするものがあります」
彼女は机の一番下の引き出しにかかった錠を開けた。
紙を二枚取り出す。方眼紙だった。
一枚はテープでつないで長くしてあり、もう一枚はつないでいない一枚きりだった。
彼女はその二枚を机の上に並べて広げた。
「白い部屋で、クリップボードの裏にグラフがあるのか、気になさっていましたね」
「見せてくれと言った覚えはありません」
「ですから、お見せしませんでした」
彼女は片方を指さした。
点が打ってあった。
最初の点の横に、鉛筆で小さく、0.47。
次の点、その次の点。点はつながって、一本の線になっていた。
線は右上へ上がっていく。
最後の点の横には365。
そして今日、彼女はその隣に点を一つ増やした。この点は88。
点は同じ傾きのまま、さらに一マス上がった。
「俺のか」
「あなたのです」
彼女はもう一枚を指さした。テープでつないだ方だ。
線は三本あった。
一本はテープを三度越えながら上へ上がり、そこで終わっていた。
一本は下へ下がり、同じ日に終わっていた。
そして別の色で引かれた三本目。一本目の線の隣で、同じ形のまま上がっていた。
「一本目はあの子です。12歳から20歳まで」
俺はその線を見た。
最初の数か月は緩やかだった。
ある月から急になった。
そしてテープを三度越えたところで、切れていた。
「三本目はあなたです」
俺は二本の線を交互に見た。
傾きが同じだった。
最初の数か月は緩やかで、ある月から急になる。その形が同じだった。
俺の線はまだテープに届いていなかった。
紙の一番上までマスを数えた。六マスだった。
「六マスなら、何年ですか」
「分かりません。横は月で、縦は数値です。上へ一マス上がるのに何か月かかるかは、傾きが決めます。そして、あの子の傾きはある月から急になりました」
俺はあっちの11年を思った。
魔王城まで残る距離を、マスで数えたことは一度もない。
森がいくつ残っているか、川を何度渡るかは数えた。
だが、それは俺が歩いていく距離だった。
これは、俺が歩かなくても縮む距離だった。
何もしなくても、一マスずつ上がっていく線。
俺はその線を、毎朝、洗面台の前で自分の手で上げていた。
「あの子は、大きくなっていって、それから散りました」
彼女が言った。
その言葉は、正門の前で一度だけ聞いたことがある。散った、と。
今日、彼女はその言葉の隣に、俺の線を置いた。
「そして、あなたも同じ傾きで大きくなっています。毎日書いているからです。書かなければ、滑り落ちるからです」
俺は答えなかった。
1年前、彼女が初めて俺に茶色のファイルを手渡したときの言葉が浮かんだ。
「あの方の能力も、最初はとても小さなものでした。あなたの0.31秒のように。ですが、縮みませんでした」
そのときの俺は、それが六番目の話だと思った。
それは順番の話だった。
六番目、あの子、そして俺。
「なぜです」
俺は聞いた。
「管理局が見てきた自然転移者は、全員が10日以内に縮み始めたと、あなたは言いました。なのに、なぜ六番目と、あの子と、俺は縮まなかったんですか」
「分かりません」
彼女は言った。本当に分からない『分かりません』だった。
彼女は、分からないことと、保留を区別する人間だ。
「だから、調べようと思います。あの子を連れてくるには、あの子がなぜ散ったのかを、まず知らなければなりません。同じ理由で、もう一度散らばらせるわけにはいきませんから」
そう言って、彼女は三本目の線を指で押さえた。
俺の線だった。
「そして、この線を同じ場所で終わらせるわけにもいきません」
* * *
彼女は、俺の書類を開き直さなければならなかった。
管理が終了した人間を測るには、その人間の書類が生きていなければならない。閉じた書類の上では、数字も動かない。
彼女は端末にKR-08を打ち込み、状態欄を「管理終了」から「管理再開(測定限定)」へ変えた。
括弧の中は、彼女が自分で打った。
端末は、その括弧を読まなかった。
状態欄が書き換わった直後、彼女のモニターの隅に小さな通知が表示された。
「管理再開対象者に帰還者保護開始通知書が自動送信されました。送信先:登録居住地」
事務的な文面だった。読み終えるのに、一秒もかからない。
彼女がそれを見た。
俺も見た。
登録居住地は、俺たちの家だった。
「取り消せますか」
「発送取り消しの様式があります」
「では」
「処理期限は、営業日基準で7日です」
彼女は言った。
「郵便は、明日届きます」
彼女は発送取り消しの様式を印刷した。
俺は、その様式がプリンターから出てくる音を聞いた。
それが、この部屋で今、一番大きな音だった。
* * *
帰り道、俺は刑務所に寄った。
彼女には言わなかった。
窓口で、一般接見申請書を一枚受け取った。
収容番号欄に、数字を書いた。
この前、正門の警備室で班長が訪問台帳を広げた。
そのとき、逆さまに読んで覚えておいた番号だ。
白い部屋で覚えたことは、どこでも役に立つ。
そして、関係欄でボールペンが止まった。
家族、親族、弁護人、その他。
俺は「その他」にチェックを入れて、括弧の中に書いた。
窓口の職員は、その括弧を長いこと見ていた。
それから、パソコンのキーを叩いた。画面を見て、また括弧に目を戻した。
「当該収容者は保護措置中ですので、一般接見はできません」
「いつ解除されますか」
「事由の確認中ですので。事由が確認されて初めて、解除になるかならないかが決まります」
職員は差戻しの印を押した。
差戻しの事由欄に、「保護措置中」。
そして、もう一度、俺の括弧を見た。
「先輩って、学校の先輩ですか」
「部屋の先輩です」
職員は、それ以上は何も聞かなかった。
俺は差し戻された申請書を折らずに持って出た。
あの子は、あの建物の中の一つの部屋でしか生きていない。その部屋へ入る扉は、彼女の書類一枚だけだった。
一番上の欄までは、六マスだった。文字の傾きは、あの子のものだった。
* * *
その日、彼女の方眼紙に押された点は、一つだけだった。その点は、長いこと空いていたマスの、最初の点だった。
あの子の線は毎月、決裁を受けていた。彼の線は一度も、決裁板に挟められたことがなかった。
彼女はその日、初めてその線を、人に見せた。




