第136話 面会事由書(1)
「あんパン、一つだけ」
その声は、耳から入ってこなかった。
耳から入る音なら、俺は全部わかる。白い部屋で一年、いちばん小さい音を探し続けたせいで、耳がそうなった。上の階の換気口が軋む音。ベルクロが剥がれる音。キンパを包んでいたアルミ箔が皺になる音。他人の息。音には必ず向きがある。どこから来たか、どれくらい離れているか、誰のものか。耳を澄ませば、そこまでわかる。
この声には、向きがなかった。
頭の真ん中。俺が物を考える、その場所で声がした。俺が考えてもいない言葉だった。
あっち側にも、頭の中へ直接話しかけてくる奴らはいた。神殿の神託のようなものだ。ああいう声はたいてい低くて長い。こちらの内側をゆっくり撫でていくみたいに。だが、この声は高くて短かった。声変わりが始まる前の、男の子の声。語尾が少しだけ震えていた。笑いをこらえているのか、泣くのをこらえているのか、聞いただけではわからない震えだった。
俺は横を向いた。
彼女が隣に座っていた。額には、ガラスに押しつけられた赤い跡が残っている。唇は動いていない。ガラスの向こうの七番目も、口を閉じたままだった。三人とも黙って、同じ声を聞いていた。
立会い刑務官には、何も聞こえていなかった。ボールペンの先で記録用紙を叩きながら、壁の時計を見ていた。壁時計は一秒遅れていた。さっき、俺が扉の向こうの足音をつかみかけて、取り逃がした一秒。その一秒は、どの書類にも書かれていない。班長が来週、時計を替える。
* * *
「おじさん」
俺を呼ぶ声だった。
その声にどう答えるべきか、俺は知らなかった。口に出せば、刑務官に聞かれる。だから頭の中で言ってみた。はい。
「頭の中でも『はい』って言ってますね」
声が言った。
「お姉さんが言ってました。おじさんは書類には『はい』って書くのに、口では『うん』って言うんだって。測定表の備考欄にも書いておいたんだって」
俺は彼女を見た。彼女はほんの少しだけ頭を下げた。そういうことを書き留めておく人だった。一年、俺はそれを知らなかった。
「それに、おじさんの頭の中はうるさいです。ずっと何かを聞いてるんです。いちばん小さいものを探してるんです。今も」
そのとおりだった。
今も俺は、この部屋でいちばん小さい音を探していた。刑務官の腕時計の秒針。通話口を抜けていく風。癖だった。あっち側の老司祭が教えてくれたとおり、俺はどの部屋に入っても、まずいちばん小さい音を探す。それを他人に聞かれていたのが、不思議だった。見つかった感じはしなかった。一緒に聞いている感じがした。
この一年、人々は俺の顔に、俺自身が知らない何かを見てきた。赤羽の子も、ラーメンも、警備員たちも。俺は最後まで、それが何なのかわからなかった。
この子は逆だった。俺の頭の中から、俺が知っていることだけを読んだ。俺が知らないことは、一つも読まなかった。それがこんなに楽だとは知らなかった。
「あのおじさんの声は、聞こえないんです」
ガラスの向こうのことを言っていた。
「ドアを閉めてますから。重いドアなんです」
七番目が一度、目を閉じて開けた。聞こえたのだ。
彼はドアを開けなかった。代わりに、爪の下が黒い右手を、膝の上にきちんと置いた。ドアが閉まっていても、ノックの音なら聞こえる、という意味のように思えた。
「手、痛いですか?」
その子は、その手のことを尋ねた。さっき、あの手から何かが抜け出して、ガラスを越えてきた。爪の下の黒いものが、少しだけ薄くなっていた。
「平気である」
七番目が声に出して答えた。頭の中で答えるやり方を知らなかったのか、知っていてわざと口に出したのか、俺にはわからない。
立会い刑務官が顔を上げた。部屋の中を見回した。誰も尋ねていない言葉に、収容者が答えていた。刑務官は少し迷ってから、記録用紙の隅に何かを小さく書きつけた。それも、あとでコピーで見た。
(収容者の独り言――「平気である」)
七番目は、それきり口を開かなかった。
独り言として分類される答えは、一度で足りると、彼はこの建物で二年半のあいだに学んだのだろう。
* * *
彼女が頭の中で、何かを言った。
俺には、その声が直接聞こえなかった。その子が、代わりに運んできた。
「お姉ちゃんがね、誰にも言わないでって。この部屋の外では、誰にも。部署にも、おじさんの奥さんにも、あの刑務官のおじさんにも」
彼女らしい文だった。白い部屋で一年のあいだ聞いてきた話し方だ。短く、相手がはっきりしていて、例外がない。
ただ、今回は無線ではなく、十四歳くらいの声に乗って届いた。命令が子どもの声で届くと、頼み事のように聞こえた。
俺は妻のことを考えた。
その子が、俺の考えを読んだ。
「奥さんのことも、です。お姉ちゃんが、ごめんって言ってます」
俺は頭の中で答えた。
「はい」
今度は、その子は何も付け足さなかった。
七番目が、一度だけ頷いた。
顎を引いて、すぐに元の位置へ戻す。それだけの動作だった。だが、意味は二つあった。聞こえた、ということ。そして、同意する、ということだ。
俺と七番目、それにその子。三人は、一言も交わさずに同じ約束をした。
この部屋の外では、誰にも言わない。部署の者にも、妻にも。
その約束の証人は、どこにもいなかった。書類もなかった。
この国で、書類のない約束をするのは二度目だった。一度目は、彼女が俺を家の前まで送ると言った約束だ。あの約束は守られた。だから俺は、二度目も、守られるものとして数えている。
立会い刑務官が、記録紙に目を落とした。
接見内容の要約欄には、さっき書いた一語しかなかった。
刑務官はその下に何かを書き足そうとして、ボールペンの先を紙に当てた。それから顔を上げ、俺たち三人を一人ずつ見た。七番目。その子。俺。三人とも口を閉じていた。
沈黙まで揃っている、と思った。余計なことだ。
刑務官は結局、こう書いた。後に副本で見た。
(その後、約8分間沈黙)
この国の書類は正確だ。正確に間違っている。
「お姉さんの頭の中に、おじさんが、もう一人います」
その子が言った。
今度は彼女――面談官に向けた言葉だったが、俺にも聞こえた。俺と七番目、それに彼女の三人にまとめて話すほうが、その子には楽なようだった。
「刃物を握って、泣いてたおじさんです。二階の部屋にいました」
「僕が、そのおじさんの頭の中に書いたんです。下ろせば、誰も怪我しないって」
「そのおじさんが、僕にありがとうって伝えてほしいって。お姉さんが伝えるって、言ったんだって。いつ伝えられるかは、言ってませんでした」
彼女の手が、ポケットのほうへ行った。薬入れのある側だった。
手はポケットに入らなかった。ポケットの上で止まった。
「あのおじさんに、です」
その子が言った。
「僕からも、ありがとうって伝えてください。あのとき、刃物を下ろしてくれたから。あのときは、返事ができなかったんです。次の人のところへ行かないといけなくて。忙しすぎて」
刃物を握っていたあの人が誰なのか、俺は知らない。
二階の部屋のことも知らない。
だが、彼女の顔は知っていた。
白い部屋で1年のあいだ見てきた顔のなかに、あんな顔はなかった。何かを18年ものあいだ先延ばしにしてきた人間が、先延ばしにされたままでも終わりにできるのだと、たった今知ってしまった顔。
あの子は、とても忙しかったのだと言った。
20歳の誕生日の翌日に倒れた、あの子が。
白い部屋の、あの日を思い出した。
彼女がキンパのアルミ箔を折っては広げながら、そう言った日。
「あの子は、1日も休まなかったんです」
* * *
「面会終了、3分前です」
立会い刑務官が言った。規則上、告げなければならなかった。
刑務官は、この部屋が今この建物でいちばん混んでいる部屋だとは知らなかった。
見た目には、三人が口を閉じているだけだった。頭の中では、三人が話し、一人が聞いていた。
刑務官は告げ終えて、誰も答えないのを見ると、少し気まずそうな顔で記録用紙に時刻を書きつけた。
「おじさん」
その子が、また俺を呼んだ。
「さっき、私の名前を呼んだとき。声、低かったです」
俺は、その言葉に答えられなかった。
「キッドも、そうやって呼んだんです。たった一度だけ。頭の中で」
その子は、それ以上は言わなかった。
俺はキッドという人を知らない。
さっき、彼女がガラスの向こうに向かって言ったこと。それがすべてだった。
名前のない人。その子に印章を刻んでやった人。その子が、その人をキッドと呼んだということ。そして、さっきその子が「キッドは」と訊いたとき、その子の頭の中が長いあいだ静かだったということ。
俺は、その人がどうなったのか知らない。
その子は知っている。さっき知った。そして、パンを一つ頼んだ。
18年を越えて帰ってきた子が、最初にしたことが、それだった。いちばん悲しい知らせを聞いて、いちばん小さなものを求めること。
俺は、その順序を知っている。
あっちで仲間を埋めた日の夜、俺たちは誰も、その名前を口にしなかった。代わりに、誰かが塩を少しくれと言った。
あの夜、その言葉がいちばん難しい言葉だった。
七番目が、通話口のほうへ身を傾けた。声に出して言った。刑務官に聞こえるように。低く、語尾の少し伸びる声で。
「この子を、皆連れて帰ろうではないか」
刑務官がボールペンを取った。「この子」——記録用紙に書く言葉を探す顔だった。
七番目は刑務官を見なかった。俺を見ていた。そして、彼女を見ていた。
「日付は、書類が決める」
* * *
接見室の扉が閉じた。
廊下に出ると、声が途切れた。扉の閉まる音と一緒に、言葉の途中で。
あの子は、何かを言っている途中だった。
「おじさん、次は」——そこまでだった。その先は来なかった。
俺は立ち止まった。彼女も立ち止まった。俺たちは同じことを確かめていた。
頭の中は静かだった。俺の考え以外に、何もなかった。もともとそうだった。あの部屋に入るまでは。
彼女は、閉じた扉を振り返った。扉の向こうには七番目がいる。刑務官と一緒に、あちらの扉から出て行くところだろう。
「三人が一緒にいないと、聞こえないんですか」
俺は訊いた。声に出して。廊下には俺たちしかいなかった。
「今は、そうみたいです」
彼女は言った。今は、と。
彼女は言葉を選ぶ人だ。「今は」という言葉を選んだ。
俺は頭の中で、その名前を一度呼んでみた。声には出さなかった。
答えはなかった。
廊下の蛍光灯が唸っていた。それが、この廊下でいちばん小さな音だった。俺はその音にすがらなかった。
計算は簡単だった。
あの子は、三人が同じ部屋にいるときにしかいない。三人のうち一人は、この建物の外へ出られない。だからあの子は、この建物の接見室の中でしかいられない。
接見は勤務時間内に限られ、一度に30分を超えることはできない。
18年ぶりに戻ってきたあの子に、この国が用意できる場所は、それだけだった。
半年前、俺は七番目に、返事らしきものを送った。
「これからも何もしません」
管理局はその約束から期間を消した。おかげで、約束は永遠になった。
俺は今、その永遠の約束がどこまで保つのかを考えていた。この廊下の端までは保ちそうだった。正門までは分からない。
廊下の突き当たりで、収容者が何人か、医務課の前に列を作っていた。
その列に、襟を立てた老人がいた。老人は俺を見るなり、指を鳴らした。
「さっきの人! 思い出した。空港の映像で、ちび司祭の隣にいた奴は別人だ。そいつは背がこれくらいだった。あんたじゃない」
俺はあの映像に映ったことがない。
老人は、それを知らなかった。
老人は1時間ものあいだ、俺を映像の中の誰かではないかと疑っていた。そしてついさっき、自分ひとりで無罪を言い渡した。
老人は、列の横に立っていた班長に、たった今自分が出した判定を備考欄に書けと、大きな声で要求した。
「あの人は、その人じゃない」
班長は断った。
「収容者の判定は備考の対象じゃない。そんな欄はない」
「なら、判定欄を作れ」
班長は、ほんの一瞬だけ、真剣に考える顔をした。
正門を出る前に、彼女が言った。
「次の接見申請書は、私が書きます」
「事由欄は」
「それが問題です」
彼女は笑わなかった。俺も笑わなかった。
二人とも、同じ欄のことを考えていた。
この国のどの様式にも、三人が同じ部屋にいなければ聞こえないあの子のための欄は、なかった。
* * *
その日、我々は初めて、残りの頁を数えた。
数えるのは、我々がしてきたことではなかった。
我々は、開いて眺めるだけだった。




