第135話 合本(4)
私の声が接見室の壁に当たった。
反響もせず、そのまま吸い込まれるように消えた。
立会い刑務官がボールペンを止めた。
ガラスの向こうの人物が、私が口にした名前を、口の中で繰り返した。音はしなかった。唇だけが、同じ形をなぞった。
そのとき、私の頭の中で、あの文が動いた。
18年のあいだ、折り畳まれたままだった文。
私が自分の言い訳だと信じて、薬で消そうとしていた文。
その文は、名前を聞いて顔を上げた。
呼べば振り返る名前。保育園の院長が、三つの候補の中から選んだ名前。
文は、私の頭の真ん中で振り返った。
「姉さんのせいじゃないんです」
18年前の5月13日。
競技場の最上階の空き部屋で、あの子は散らばりながら、俺の頭の中に最後の文を残した。
私はその文を、自分の考えだと思っていた。
自分を楽にするために、私が作り出した言葉なんだと。
だからその文が浮かぶたびに、私は消すために薬を飲んだ。
その文は、私の声ではなかった。最初から。
* * *
八番目とガラスの向こうの人物が、ガラス越しに互いを見た。その名前が、二人の間のガラスを一度だけ通り過ぎたあとだった。
八番目は、40を前にした顔をしていた。3か月前、あの家の前で車から降りたときより、少しだけ頬に肉がついていた。おばさんの薄味のわかめスープのせいだろう。
目の下には影があった。午前3時に目を覚ます人間の影。
その目は、白い部屋で1年のあいだ私を見ていたときと同じだった。何かを測る目。
だが今日、その目は俺を測っていなかった。ガラスの向こうを測っていた。
ガラスの向こうに、七番目がいた。
その顔は、30を少し過ぎたばかりに見えた。その体の年齢だった。
けれど、その顔の奥には別の年齢があった。外側の年齢と、噛み合っていなかった。
私はその数を数えられなかった。数えるための物差しを、持っていなかった。
痩せていた。頬骨が浮いていた。唇が薄かった。
七番目は八番目を見た。初めて、画面越しではなく、肉眼で。
七番目の目が、ほんの少しだけ大きくなった。すぐに元の大きさに戻った。
二人はしばらく、何も言わなかった。
立会いの刑務官が、記録紙の上でボールペンを持ち上げては、置いた。
先に口を開いたのは、ガラスの向こうの人物だった。
ガラスに空いた通話口からだった。低い声だった。語尾が、少し長かった。
「あなたが、時間か」
ガラス越しの声は低く、語尾が少し長かった。
八番目は答える前に、一度だけ息を吸った。
「そう呼ばれてはいます」
「話をせねばならぬ、と思っていた。ずっと前からな」
「手紙は受け取りました。返事はまだ書けていません」
ガラスの向こうの人物は、その言葉を聞いて、一度頷いた。
八番目が続けた。
「話は後にしましょう。今日は、この人の件から」
ガラスの向こうの人物は、棚の上の紙を顎で示した。
「その子は誰だ」
私は答えた。
12歳のあの子を、私が連れてきた。
8年のあいだ、私が毎朝ブリーフィングをしてきた子。
20歳の誕生日の翌日、散らばった子。
そして、この印章は――名前のない一人の人間が、その子のために作ったものだった。
その子は、その人をキッドと呼んだ。
その人がその子を呼んだのではない。その子が、その人に名前を付けた。
私は、その順序を間違えないように話した。
ガラスの向こうの人物は最後まで聞き終えると、八番目を一度見た。それから、また私を見た。
「名のない者が、その子のために名を刻んでやった、と」
私は、そうだと答えた。
七番目は長く黙った。
名前を取り戻して、二か月になる人。
彼の陳述を、私は読んでいない。
それでも、その沈黙の重さは分かった。キッドの沈黙と同じ重さだった。
八番目が私を見た。ガラスの向こうの人物も、私を見た。
二人の視線が、初めて同じ場所に置かれた。
〈午後2:11〉
* * *
ガラスの向こうの人物が、右手を上げた。
爪の下が黒い手だった。その手のひらが、ガラスに触れる。
枡が一つだけの紙の、すぐ上。手のひら一つが収まる場所。二か月前、この部屋で子供が七番目にしたのと同じ高さだった。
あの時は、子供がこちら側から手のひらを当て、七番目が向こう側から額を当てた。
今日は逆だった。
七番目が言った。
「額を」
私は体を傾けた。傾けたのは、私だった。額がガラスに触れる。七番目の手のひらの、ちょうど向かい側。ガラスは冷たかった。手のひらが触れた場所だけが冷たくなかった。ガラス一枚向こうの温もりが、こちらへ渡ってくるはずもない。それなのに、額が温かくなった。
七番目がもう一度言った。今度は、八番目に向けて。
「この人の頭の中に、あの子の文がある。私が一針すくう間、そのわずかな間だけ、掴んでおいてくれぬか」
八番目が、私の隣で目を閉じた。
私は額をガラスに当てたまま、八番目の息を聞いていた。白い部屋で一年のあいだ聞いていた、あの息。最も小さな音を見つける前の息。八番目は今、私の頭の中で音を探していた。上の階の換気口を抜ける風の音でもなく、キムバプの銀紙を折る音でもない、18年のあいだ畳まれていた一文の音。子供の声。高くて、幼い。
八番目が、ごく小さく言った。
「見つけました」
そして、その名を呼んだ。低く。
「ユンスル」
世界は止まらなかった。立会い刑務官のボールペンは動き続けていた。壁時計の秒針も。止まったのは、一つだけだった。私の頭の中の、あの一文。その一文が、畳まれては開くのをやめ、真ん中にまっすぐ置かれた。シーソーが水平になった、その一瞬が続いていた。
〈午後2:12〉
* * *
ガラスの向こうの人が、手のひらをガラスに当てたまま、その名前を呼んだ。
「ユンスル」
三度目だった。
その瞬間、私は額で何かを感じた。針。いや、針ではなかった。糸が通り過ぎていく感覚。頭の真ん中に置かれた一文から糸が一本出て、外へ伸びていく。とても遠くまで。その糸の先に何かが引っかかっていた。糸が引かれた。
私はそのとき、分かった。自分が何なのかを。
私は見分ける人間だ。24年前、警察署で泥だらけのあの人を狂人と見なかったのも、1年ほど前、白い部屋で八番目を見て息を止めなかったのも、そのせいだった。呪いが終わる前の晩、私は八番目に言った。最初から呪いのせいであなたが怖かったわけではない、と。本物を見分ける人間は、本物がどう終わるかも知っている。私はその終わりを、競技場で見た。
他人の頭の中に畳まれた他人の一文なら、私は見分けられた。自分の頭の中の一文だけは、見分けられなかった。鏡がなかったからだ。
今日、ガラスが鏡になった。額を当てているガラスに、手のひらの向こうから七番目の顔が重なって映った。そしてその背後に、私の顔が。
糸が引かれた。一針。
〈午後2:13〉
* * *
その次の一分間、私は数千の声を聞いた。
18年前、競技場で聞いたものと同じだった。だが、向きが逆だった。あのときは広がっていく音だった。今は戻ってくる音だった。
院長の頭の中から「ありがとう」が戻ってきた。矯正委員の頭の中から「銃を下ろせば誰も傷つかない」が戻ってきた。西の階段が、今は高いところへ、ゆっくり立ち上がれ、実長の頭に埋め込んだ一行が、警備室の蛇口が、窓の留め金が。数千の文が、数千の頭の中から糸をたどって戻ってきた。私の頭の真ん中にある一文へ。「姉さんのせいじゃないです」に縫い留められるように。
ガラスの向こうの人は、手のひらを当てたまま目を閉じていた。額に汗が浮かんでいた。七番目の爪の下の黒いものが、少しずつ薄くなっていった。いや、薄れたのではない。糸になって、ガラスを越えてきていた。一針。また一針。かろうじて。
八番目は目を閉じて、私の隣に座っていた。彼の鼻の下に、赤いものが一筋流れていた。19年前、あの子が台風の山の頂で流したのと同じ色。朱肉の色。私はハンカチを取り出して渡さなかった。今、その手は一秒を掴んでいた。私がその手に触れてはいけなかった。白い部屋で八番目が私に守ってくれた規則。許されていないことはしない。私はその規則を、今日、彼に返した。彼の手が膝の上で、ほんの少し震えていた。一秒を掴んでいる手だった。その一秒が一分になるまで、掴み続けていた。白い部屋で彼が掴んでいられた最も長い時間は三秒だった。測定表にはそう書いてある。
立会い刑務官が、記録用紙の接見内容要約欄に、初めて何かを書いた。あとで見た。刑務官は、あの部屋で三度呼ばれた言葉をそのまま書いていた。ユンスル。その横に括弧。「収容者及び同席者が反復発話」
〈午後2:14〉
* * *
糸が止まった。
最後の一針が入った。ガラスの向こうの人が、手のひらをガラスから離した。手のひらの形の曇りがガラスに浮かんで、消えた。八番目が目を開けた。長く息を吐いた。手の甲で鼻の下を一度ぬぐった。
七番目がガラスの向こうから八番目を見た。八番目も七番目を見た。今度は、どちらも目をそらさなかった。七番目が通話口に短く言った。
「返事はゆっくり書くがよい」
「そうします」
それで二人の会話は終わった。立会い刑務官が記録用紙から顔を上げて、何も書かずにまた伏せた。
私は額をガラスから離した。
頭の真ん中が空っぽだった。
18年間そこに折り畳まれていた文がなかった。私はその文を思い出そうとしてみた。言葉は浮かんだ。「姉さんのせいじゃないです」。ところが、その言葉を運んできていた声が来なかった。高くて幼い声。薬を飲んでも三日で戻ってきたそのこだまが、いくら呼んでも戻ってこなかった。その文は持ち主に帰った。何千人もが失ったのは、他人の文の一行だった。私が失ったのは、18年間、私を支えていた唯一の赦しだった。
私は唇だけ動かして、その文を言ってみた。自分の声で。低かった。かすれた声だった。あの子のものより不器用だった。それでも私の声だった。もうその文は、私が言わなければ誰も私に言ってくれない。
ポケットの中の薬入れが手に当たった。開ける必要はなかった。消す文がなかった。
そして、その声を聞いた。
私の頭の中で。同時に、八番目の頭の中で。ガラスの向こうの人の頭の中で。三人が同時に同じ声を聞いたということを、私は二人の顔を見て知った。八番目が顔を向けた。ガラスの向こうの人が目を開けた。
高くて幼い声。14歳の声。だが、初めて、その声は誰の声も借りていなかった。私が最も信じている声でも、母の声でもなかった。あの子自身の声だった。
「姉さん」
私は答えられなかった。口でも、頭の中でも。
あの子は、私の答えを読んだ。それから、こう言った。
「キッドは?」
その問いの前で、私は息を止めた。
あの子は知らなかった。自分が散らばったあと、あの部屋で何が起きたのかを。
あの子は私の頭の中を読んだ。競技場の空き部屋。「整理」という言葉。二度の音。あの子を覆った灰色のスーツの背中。
18年ぶりに、あの子はそれを全部読んだ。
三人の頭の中は、長いあいだ静かだった。
それから、あの子が言った。三人に同時に。とても小さな声で。
笑いをこらえているのか、泣くのをこらえているのか、私にはわからなかった。
「あんパン、一つだけ」
* * *
その日の午後2時14分、この街と、あの海辺の小さな街で、数千人が一つの文を忘れた。
忘れたことにも気づかなかった。
その場に残ったのは、それぞれの勇気だった。
その日、その部屋で初めて、我々の布ではない針が、我々の布を縫った。
第三部、終わり。




