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第131話 死亡診断書(4)

その人の陳述は、そこで終わる。


次の日は、俺が書く。


十八年前の五月十三日、朝。


俺は七時四十分に正門を通った。出入証をかざすと、遮断機が上がった。


階段で三階へ上がった。事務室のドアを開け、ブラインドを半分ほど上げた。


椅子に座った。


その時は、まだ斜めには座っていなかった。正面を向いて座った。


向かいの椅子は、まだ空いてはいなかった。


その椅子は、その人が俺の部屋へ報告に来るとき、座らずに立っていた場所の前にあった。


決裁板の上に、大きな封筒が置かれていた。


俺は封筒の表を読んだ。


「あの子が戻ってこられるようになったら、開けてください」


その文の意味は、分からなかった。


あの子は地下二階の部屋で眠っていた。戻るも戻らないも、なかった。


俺は封筒を引き出しにしまった。


夕方、その人にどういう意味か尋ねるつもりだった。


夕方は、その人には来なかった。


9時半。


実長の決裁が下りたという連絡を受け、廊下へ出た。


その人は、階段を上ってくるところだった。


灰色の背広。五つのボタンは、きちんと留められていた。


その人は俺を見て足を止め、深く頭を下げた。


俺は封筒の表の文がどういう意味なのか、尋ねた。


その人は顔を上げたまま答えた。


「閲覧条件どおりにしてください」


そして、俺の横を通り過ぎていった。


俺には、その答えが答えになっていないと分かった。


その人は、答えないというやり方を、あの子から学んだのだ。


いや、七月にはもう知っていた。


該当なし。


* * *


車は10時に発った。


三台だった。先頭の車に実長。真ん中の車に、あの子と俺。最後の車に、実長の部下と、あの人。


あの人はその日、待機資源として車に乗った。実長の指示だった。


あの人は何も消せない手を膝の上に重ね、後部座席に座っていたのだろう。その隣には、口を利かない男が座っていたのだろう。警護の名目で。


あの子は真ん中の車の後部座席で、窓の外を見ていた。


あの子の顔は曇っていた。前日、一日休んだ分だけ、まだ靄がかかっていた。


俺はその顔をバックミラーで見た。


あの子は、俺が見ていることを知っていた。そして、頭の中で言った。


「お姉さん、大丈夫です。やっていれば、そのうちはっきりしてきます」


俺は答えなかった。


あの子は、俺の答えを読んだ。そして笑った。曇った顔のまま。


競技場は、首都圏の外れにある大きな円形の建物だった。


その日、そこではプロサッカーの試合が行われていた。観客は四万人ほど。


彼らはその日、自分たちが訓練の対象だとは知らなかった。


書類には「予防的避難誘導訓練」と書かれていた。


その書類の事由欄を書いたのは、俺だった。


一行で。


* * *


俺たちは競技場の最上階、中継室の隣にある空き部屋に入った。


窓は競技場のほうへ向いていた。


窓の外に観客席が見えた。四万人分の頭。色とりどりの服。応援歌が窓ガラスを震わせていた。


あの子は窓辺の椅子に座った。


俺はあの子の左側に立った。あの人はあの子の右側に立った。実長はドアのそばに。口を利かない男はあの人の後ろに。


後半20分。実長が時計を見て、頷いた。


あの子が目を閉じた。


その日、あの子が入れた文章を、俺は聞いた。あの子はその部屋の誰も外さなかった。そんな余裕はなかった。文章は短かった。


ゆっくり立ち上がれ。いちばん近い出口へ。押すな。前の人の背中を見ろ。


その文章が俺の頭の中で響いた。俺の声だった。いや、俺が最も信じている声だった。それが誰の声だったかは、この記録には書かない。


窓の外、観客席で人が立ち始めた。


最初は数人。次に一区画。その次には競技場のすべてが。


応援歌が止んだ。


4万人がゆっくりと、何も言わず、前の人の背中を見て出口へ歩いていく。試合は続いていた。選手たちはボールを蹴り、そのうち一人、また一人と足を止めて観客席を見上げた。


* * *


あの子の顔がはっきりした。最初の数分間。


そして、鮮明という域を超えた。


そのあとに起きたことを、俺は正確には書けない。その人なら、枠を引いて書けたはずだ。俺にはその枠が見つからなかった。ただ、見たままを書く。


あの子の顔は写真のようにくっきりした。それから、くっきりしたまま、縁がにじみ始めた。


ぼやけるのとは違った。ぼやけるのは内側へ縮こまるにじみだ。あの日のにじみは外へ広がった。あの子の縁が、あの子の外へ、部屋の中へ、窓の外へ。朱肉が紙ににじむのではなく、紙が朱肉の中へ溶けていくように。


あの子は目を開けないまま、頭の中で言った。今度は4万人に向けてではなかった。その部屋の三人にでもなかった。あの子がこれまで文を入れてきた、すべての頭の中へ。


俺はその瞬間、数千の声を聞いた。俺の頭の中で。院長の声、人質犯の声、西側階段の声、台風の都市の声。あの子がこの8年のあいだに入れたすべての文が、いっせいに返ってくる音。いや、返ってくるのではなかった。広がっていく音だった。あの子はその文たちを追って、外へ出ていこうとしていた。


あの子の体が椅子からずり落ちた。


* * *


その人が、あの子を受け止めた。


その人は右側に立っていた。あの子が滑り落ちていく側だった。


その人は膝をついて、あの子を抱いた。あの子の体は、その人の腕の中で力なく垂れた。息はあった。とても浅く。


あの子の顔は、もうにじんでもいなければ、くっきりしてもいなかった。ただの20歳の男の顔だった。初めてだった。


その人はあの子のポケットに手を入れた。何かを確かめるように。それから手を抜いた。手には何もなかった。その人は確かめただけだった。


実長が扉のそばで無線機を取った。医療班を呼ぶのだと思った。実長は無線機に向かって、別のことを言った。俺には聞こえた。一言だった。


「整理」


物言わぬ男が、その人の背後へ一歩近づいた。


俺はその男の手に何が握られているのかを見た。その人も見た。その人はあの子を抱いたまま首を巡らせ、男を見上げた。それから、俺を見た。その人の顔には何の表情もなかった。その人は、表情がないときがいちばん多く計算している人間だった。


その人は何も言わなかった。一度だけ頷いた。俺に。決裁板のいちばん右下、いちばん小さい欄の人間の頷きだった。今日の書類はきちんと押印された、という。


音がした。思ったより小さい音だった。印章を欄に押し当てる音に似ていた。


その人の体があの子の上へ傾いた。あの子を覆うように。


二度目の音がした。一度目より近かった。


物言わぬ男が無線機に向かって短く言った。


「整理完了」


実長は扉を開けて出ていった。振り返らなかった。


俺は脚を崩したまま、床に座っていた。その人の背中があの子を覆っていた。灰色のスーツの背中に、穴が二つ開いていた。指が一本入るほどの穴。俺はその穴を見た。その人の陳述を読んだ今なら、分かる。その人の7月のシャツにも、同じ場所に穴が二つあった。そのシャツは今、証拠品保管室にある。このスーツもその隣にある。二着が並んでいる。


俺はその人を、あの子の上から下ろして寝かせなかった。


医療班が来るまで、そのままにした。


その人があの子を覆っている形を、崩したくなかった。


あの子はその人の背の下で、ごく浅く息をしていた。


* * *


その日の晩、医療課から死亡診断書が二枚出た。


一枚の氏名欄には、あの子の名前が書かれていた。孤児院の院長が付けた名前だ。年齢は20。死因欄は「過労」。


あの子はその夜9時に息を止めた。集中治療室で。あの子の顔は最後まで曇らなかった。20歳の顔のままだった。


もう一枚の氏名欄には「不明」と書かれていた。年齢欄は「20代と推定」。死因欄は「作戦中の事故」。


その診断書の氏名欄に不明と書いたのは、実長だった。


その人には、法的な名前がなかった。


住民登録もなかった。


その人の書類に書かれていたのは、番号だけだった。


KR-05。


その診断書は、この部署でその人について最後に作られた書類だった。


その人は、その書類に判を押せなかった。


* * *


その日の夜、家に帰って上着を脱いだとき、ポケットの中で何かに指が触れた。


あんパンだった。


前日の誕生日に、あの子が俺のポケットに入れたパンだ。


引き出しにしまおうとして、やめた。


次の誕生日まで入れておく引き出しが、なかった。


次の誕生日が、なかった。


俺はそのパンを食卓の上に置いて、長いこと見ていた。


ビニールを破ろうとして、やめた。


俺はあんこが嫌いだ。


あの子は、それを知っていて入れた。


このパンを食ったら、あの子の計算が狂ってしまう気がした。


俺はそのパンを食わなかった。


捨てもしなかった。


台所の戸棚の一番上の段に入れた。


三か月後、カビが生えたときになって、ようやく捨てた。


その三か月の間、戸棚を開けるたび、そのパンはそこにあった。


* * *


その後のことは、すべて書類に残っている。


内部監査が開かれた。


競技場の4万人は無事に避難した。報道はその日を「原因不明の集団退場」と伝えた。


監査は、あの子の死を問題にした。


そして、あの人の死も。


実長は解任された。


無口な男は、書類から消えた。


その男がどこへ行ったのか、俺にはわからない。


監査報告書の該当欄には「転出」とだけ記されていた。


部署は解体された。


そして、作り直された。


名前が変わり、所属が変わった。


使い道を探す部署から、管理する部署へ。


越えてきた者を使うのではない。管理するのだ。


1年のあいだ保護し、能力が減っていくのを見守り、普通になれば送り返す。


新しく越えてきた者を確認するときは、まず周囲を空にする。


測定表には、使用の有無を記す欄がある。


その欄を、あの人が作った。


あの規則の半分は、あの子のせいで生まれた。


残りの半分は、あとから来た七番目のせいだ。


そうして、その日、国家移住管理局に特殊課が生まれた。


俺はその部署の最初のチーム長になった。


* * *


四十日前まで、俺はあの子がその夜の九時に死んだと信じていた。


死亡診断書に、そう書いてあったからだ。


時刻も、名前も、死因も、そこに記されていた。


書類は、すべて揃っていた。


昨日、俺はB棟でその行を見つけた。


昭和19年の冬の台帳。係長の字で、症状の欄の終わりに——産日。


周辺人の多くが、同じ言い回しを自分の考えとして陳述している。


そして、刑務所の運動場の報告書。


子供の中に破れた場所を縫い合わせるようだった。


あの子はその日、死ななかった。


散らばったのだ。あの子が文章を入れた、すべての頭の中へ。


体は集中治療室で息を止めた。だが、あの子はその体を離れ、数千の頭の中で他人の考えのふりをして、18年を過ごした。


そして1か月半前から、そのふりが解け始めている。


あの人はそれを知っていた。だから封筒の表に、そう書いた。


あの子が帰ってこられる時に。


管理局はその日に生まれた。そして、あの子はその日、死ななかった。


* * *


我々が広げておいたあの子の章は、20歳の誕生日の翌日で終わる。


その後のあの子は、一枚の章ではない。数千の章の隅に、一行ずつ折り畳まれている。


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