第13話 入国事由書
テーブルの上に、紙が一枚置いてあった。
いちばん上に太字で、入国事由書。その下に欄が七つ。氏名、生年月日、入国日、入国経路、出国日、滞在国、入国事由。
「なんで俺がこれを書くんです?」
俺は訊いた。彼女は椅子に斜めに腰かけたまま、ボールペンを俺のほうへ押しやった。
「あなたには、大韓民国に入国した記録がありません」
「日本から飛行機で来たじゃないですか。頭に袋をかぶせられて」
「あの飛行機は、記録にない飛行機です」
彼女は平然と言った。俺も平然と受け入れた。十五日目だった。この施設で「記録にない」という言葉は、「ある」という意味だった。
「住民登録は生きています。失踪宣告が出たことがありませんから。書類上のあなたは、4年3か月前に日本へ出国して、まだ戻っていない人間です。なのに今ここにいる。出国記録はあるのに入国記録がない人間は、行政上、二つのうちのどちらかです」
「何です?」
「密入国者か、幽霊か」
「どっちも当たってる気がしますけど」
彼女は答えずに、ボールペンの先で紙をトントンと叩いた。
* * *
ボールペンを取った。氏名欄に名前を書いた。久しぶりに書く自分の名前だった。十五日間、俺は署名欄に「八番目」と書いてきた。名前を書くと、手が少し妙な感じがした。他人の名前を代筆しているみたいだった。
生年月日。書いた。
入国日。帰還した日付を書いた。7月2日。
入国経路。
□航空 □船舶 □その他( )
俺は「その他」にチェックを入れた。かっこの中に何を書けばいいのかわからず、しばらくボールペンを宙に浮かせていた。向こうからこっちへどうやって来たのか、俺にもわからない。魔王を倒したあとのある日、目の前が真っ白になって、目を開けたら赤羽のあの家の玄関の前に立っていた。経路と呼べるようなものはなかった。
かっこの中に書いた。玄関。
出国日。4年3か月前の、あの日付を書いた。
滞在国。この欄で、ボールペンが止まった。向こうの国の名前を書いた。俺が11年暮らした国。王が勲章をかけてくれた国。その名前をカタカナに直そうとして、どう書けばいいのかわからなかった。向こうの言葉は聞いてわかるだけで、書いたことがなかった。向こうでは拇印を押していた。
最後の欄。
入国事由:
欄は一行だった。指の関節ひとつ分の高さの、一行。妻の不同意事由書と同じ高さだった。この国の事由欄は、全部一行らしい。
俺は書いた。
魔王討伐後、帰宅。
欄にぴったり収まった。
* * *
彼女が紙を受け取った。最初から最後まで読んだ。滞在国の欄で少し止まった。入国事由の欄で、長く止まった。
「このまま提出しますか」
「事実でしょう」
「事実です」
彼女は紙をファイルに挟んだ。そして立ち上がって出ていった。
四十分後に戻ってきた。紙はそのままだった。ただ、いちばん上に赤いハンコがひとつ押されていた。
差戻し。
その下に、小さな字で理由が書いてあった。担当部署の手書きだった。
入国事由不十分。滞在国確認不可。経路欄「玄関」不適切。
事由不十分。
その四文字を見て、笑いがこみ上げた。妻の不同意事由書にも、同じ言葉が書いてあった。夫は帰ってきます。理由不十分。魔王討伐後、帰宅。事由不十分。この国は、帰ってくると言う人間にも、帰ってきた人間にも、理由が足りないと言った。夫婦そろって差し戻されたわけだ。
「同じ部署ですか」
「はい?」
「妻の書類に『理由不十分』って書いた人と、これを書いた人」
彼女は差戻しのハンコの下の字を見た。
「違います。警察と出入国管理は別の機関です」
「なのに、同じ言葉を使うんですね」
「この国の公務員は、みんな同じ言葉を使います。私も使います」
彼女が初めて、自分もその中に含めて話した。
* * *
「書き直してもいいですか」
「どうぞ。結果は同じだと思いますが」
彼女は新しい用紙を一枚くれた。今度は、用紙の裏に「記入要領」が印刷されていた。その他欄の記入例という項目がある。例:陸路(徒歩)、海上漂流、その他の事由による非正規入国。
海上漂流。誰かがこの欄に海上漂流と書いたことがある、ということだ。その人は受理されたのだろうか。
俺は書き直した。入国経路のその他欄に、説明不可。滞在国の欄に、表記不可(カタカナで表せない音を含む)。入国事由の欄には、今度は少し行政っぽく書いた。公務遂行(魔王討伐)終了に伴う帰宅。
彼女がまた持って出ていった。今度は十二分で戻ってきた。赤いハンコがまた押されていた。理由も短くなっていた。
説明不可は説明にあらず。公務の主体不明。
公務の主体。王だった。向こうの王。その王の印が押された委任状など、どこにもなかった。勲章の円盤が、管理局の引き出しのどこかに「用途不明」として眠っているだけだった。
「三回目も書いてみますか」
「三回目は、担当者が昼食に出ました」
彼女が言った。いたって真剣な顔で。
「担当者が昼食から戻れば、少し機嫌がよくなるかもしれません」
「そしたら受理されます?」
「いいえ。差戻しの理由を、もっと長く書いてくれるでしょう」
俺はボールペンを置いた。
* * *
彼女がファイルから、もう一枚紙を取り出した。新しい入国事由書だった。いくつかの欄は、すでに埋められていた。彼女の字だった。端正で、小さい。欄の中にきっちり収まる字。
入国経路:☑航空
滞在国:日本
入国事由:海外長期滞在後の帰国。
「ここに署名だけしていただければ結構です」
俺はその紙を長いこと見ていた。
航空。滞在国、日本。海外長期滞在後の帰国。ひとつも間違ってはいなかった。日本にいたし、長期間滞在したし、帰国した。ただ、そのあいだの11年が抜け落ちていた。魔王とワイバーンと、仲間四人の墓が抜け落ちていた。王がかけてくれた勲章が、年老いた司祭の砂時計が、盗賊の「プレゼント」が、抜け落ちていた。
「これは嘘です」
「行政文書です」
「行政文書は嘘をついてもいいんですか」
「行政文書には、受理されることだけを書くんです」
彼女は俺の目を見なかった。俺の左肩の向こうを見ていた。
「あなたが書いた文章は事実です。そして、事実は受理されません。この書類が受理されなければ、あなたはずっと幽霊のままです。1年後に呪いが解けても幽霊です。幽霊は家に帰れません。幽霊には住所がありませんから」
俺はボールペンを取った。
* * *
署名欄の前で、手が止まった。
昨夜読んだ手記の一文が浮かんだ。六番目が会議室で聞いた言葉。知っている者には売れん。売れるのは、信じている者にだけだ。
この書類を受け取る人間は、知らない。だから信じるだろう。海外長期滞在後の帰国。俺はその人間に、自分を売るのだ。受理される形に切りそろえて。
でも、彼女は知っている。彼女はこの紙が嘘だと知っている。なのに、その嘘を自分の字で埋めた。端正に、小さく。欄の中にきっちりと。
俺は署名した。名前で。
彼女は紙を受け取ってファイルに挟んだ。今日は出ていかなかった。その場でファイルを閉じて、手のひらで一度押さえた。
「ありがとうございます」
彼女が言った。何に対する礼なのかは言わなかった。
* * *
「じゃあ、俺もひとつもらいます」
俺は言った。
「この前のメモです。3番」
彼女が顔を上げた。ポケットから俺のメモ用紙を取り出した。まだそこにあった。2番と3番に線が引かれて、横に「保留」と書かれた、あのメモ。
彼女はボールペンで、3番の横の「保留」に線を引いた。そしてその横に書いた。端正に、小さく。
はい。
その二文字を書いて、彼女はメモを俺のほうへ押しやった。
3.俺のベッドのシーツ――この部屋には、前に誰がいたのか。保留。はい。
「七番目ですか」
「はい」
「鏡を割ったのも」
「はい」
「ベッドの下に字を彫ったのも」
彼女が初めて、ためらった。
「それは、知りませんでした」
彼女が言った。
「あの部屋は、七番目の方が出ていかれたあとに清掃しました。ベッドの下は誰も見ていません。あなたが最初に見たんです」
彼女は立ち上がらなかった。右手がポケットに入った。薬のケースは出さずに、ポケットの中で握りしめているだけだった。
「何と書いてありましたか」
今度は彼女が訊いた。この施設で、彼女が俺にした初めての質問だった。
「見るな」
彼女は何も言わなかった。下唇を噛んだ。かさぶたのある、あの場所を。
しばらくして、彼女は立ち上がった。ドアの前で、振り返らずに言った。
「今夜は、床でお休みにならないでください」
「なぜです」
「あの字が誰に宛てたものなのか、あなたは知りません。私も知りません。宛名のわからない手紙を、毎晩読む必要はありません」
彼女は、俺が床で寝たことを知っていた。上の観測室のラーメンが記録したのだろう。対象、床で就寝。理由不明。理由はあった。ただ、一行の欄に収まらなかっただけだ。
* * *
その日の午後、配膳口から入ってきたトレイの横に、ファイルが一冊一緒に入ってきた。茶色ではなかった。灰色でもなかった。黒いファイルだった。
付箋が貼ってあった。彼女の字だった。
閲覧台帳への署名不要。持ち出し不可。今夜回収。
配膳口の向こうで、スニーカーと革靴がいつもより半歩下がって立っていた。スニーカーが小さく言った。
「そ、それは僕らも中身を知りません。室長が直接入れろとおっしゃったので」
「汁物じゃないですよね」
「はい?」
「ファイル。汁物禁止でしょう」
スニーカーが笑いをこらえる音が聞こえた。革靴がスニーカーを小突いた。ふたが閉じた。
俺はトレイを脇へ押しやって、黒いファイルを膝の上に載せた。
表紙には、手書きで四行が記されていた。茶色のファイル、六番目の表紙と同じ書式だった。同じ人間の字だった。
管理番号KR-07――七番目
分類:自然転移
状態:収監
罪名:殺人
* * *
彼女が「海外長期滞在後の帰国」と書くのにかかった時間は、四十秒だった。
その四十秒のあいだに彼女が何度ボールペンを止めたのか、我々は知っている。七回だ。なぜ止めたのかは、知らない。




