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第127話 返したものと埋めたもの(4)

井戸があった場所は、今は遊び場になっていた。


地面には緑色のゴムマットが敷かれている。滑り台が一つ、ブランコが二つ、シーソーが一つ。シーソーは片側が地面に着いたままだった。誰も乗っていない午後だった。


俺は遊び場の端にあるベンチに座った。ベンチには地域の住民センターが貼った案内板があった。「遊び場利用規則」。保護者同伴、ペットの出入り禁止、喫煙禁止。規則は七つ。枠はきちんと整っていた。


俺は遊び場から西へ数歩離れた路地を見た。今は路地ではない。車が二台やっとすれ違う裏道になっている。両側には集合住宅が並ぶ。塀はない。塀のあった場所には駐車枠が引かれていた。白い線で。


89年前の7月。その塀の日陰のどこかに、十五歳の子供が石を握って立っていた。その子供から十歩離れた場所で、男が一人倒れ、消えた。


俺はその十歩の位置を頭の中で数えた。駐車枠の三つ目あたりだ。その枠には白い乗用車が一台停まっていた。フロントガラスに、電話番号を書いた紙が貼ってある。車をどかしてほしい、という連絡先だった。


俺はその番号に電話をかけなかった。


ところが、車の持ち主のほうが先に現れた。集合住宅の一階から、スリッパを履いた男が飛び出してきた。男は俺の背広を見て、駐車違反の取り締まりだと思ったと言った。


「違う」


と、俺は言った。


それでも男は車をどけると言った。この町では、取り締まりでなくても、背広を着た人間が長く立っているだけで車をどけたほうがいいのだ、と。


男は車をバックさせ、路地の端へ持っていった。三つ目の駐車枠が空いた。


俺はその空いた枠の中に立った。白い線が四本、俺を囲んでいる。アスファルトは7月の土ではなかった。血の跡もない。何もない。


俺は枠の中で足元を見下ろした。あの男が倒れた場所。そして消えた場所。そこには、きちんとした枠が引かれていた。


あの男なら、この枠を気に入っただろうか。自分が消えた場所に、こんなにまっすぐな線が引かれていることを。


* * *


その老人の葬式に、俺は行った。あの男が死んだ年の冬だった。


斎場に遺影があった。86歳の顔。曇った目。俺はその顔を、遺影で初めて見た。


まだあの男の陳述を読んでいなかったので、俺はその老人が誰なのか、正確には知らなかった。あの男の、事由欄のない引き出しから出てきた分厚い封筒を持って行っただけだ。封筒の表には何も書かれていなかった。


喪主はその封筒の厚みを見て、俺を長いこと見た。


俺は頭を下げて出てきた。斎場の入口の芳名帳に、名前は書かなかった。続柄の欄に何を書けばいいのか、わからなかったからだ。その行は今も空いているだろう。


今ならわかる。


その老人は、7月の路地であの男が消えるのを見た、ただ一人の人間だった。そして、あの男が差し出した金を返した人間だった。米だけは受け取った人間。


俺はその封筒を、結局その老人に渡した。あの男の代わりに。あの男が返してもらった、あの封筒を。


老人はその封筒を開けて見ることができなかった。すでに遺影の中にいたからだ。喪主が開けたのだろう。喪主は、その金が何の代金なのか知らなかっただろう。あの男が7月に値切った一割まで、きちんと計算に入れた金だということを。


俺はそのことをうまくやったのか、わからない。


その老人は、謝罪は金では受け取らないと言った。俺は老人が死んだあとで、その金を渡した。老人が断れないときに。


あの男なら、その計算は正確じゃないと言っただろう。


* * *


ベンチで俺は手帳を出した。


10日間、俺はあの子の文を持っている人間を探し回った。院長と矯正委員の次に。あの人の陳述に出てきた名前、あの子の作戦報告書に出てきた場所。西階段の生存者は211人。連絡がついたのは14人。そのうち9人が、同じことを言った。


1か月ほど前から、あの考えが浮かぶとき、幼い男の子の声で聞こえる、と。


9人のうち1人に、俺は直接会った。50歳の女だった。21年前、あのビルの11階の保険会社で働いていた。女はあの日、「西階段」という考えを、母親の声で聞いたと言った。母親はそのころ、もう死んでいた。


女は21年間、それを母親が自分を救った証拠だと信じてきた。それが10日ほど前から、母親ではなく、見知らぬ男の子の声で聞こえるようになった、と女は言った。


女は泣かなかった。


「じゃあ、うちの母はあの日、そこにいなかったの?」


俺は答えた。


「あの子は、あんたが一番信じている声を借りた。その声が母親だったということを、あの子が作ったわけじゃない」


女はその答えを長いこと考えて、それから言った。


「母の声がそこにあったなら、それでいい」


台風の街では、住民センターに「おかしな幻聴」の相談が1か月の間に100件を超えて入っていた。相談記録の症状欄には、どれも似た言葉が書かれていた。


子どもの声。高い場所。今。


台風の街の住民センターの相談窓口に電話をかけたとき、出た相談員は疲れきっていた。


この1か月で、同じ症状を訴えて訪ねてきた人は100人を超えるという。


相談員は最初、集団ヒステリーと報告書に書いた。だが上から、その言葉は使うなという指示が下りて、「原因不明の聴覚体験」に直した、と言った。


その直された言葉を聞いて、俺は思った。あの人なら、まずその言葉が決められた言葉の一覧に載っているかどうかを訊いただろう、と。


相談員は俺に、原因に心当たりはないかと訊いた。


俺は知らない、と答えた。


嘘だった。


あの子の前だったら、しなかった嘘だった。


俺はその数字を手帳に書きつけ、計算した。


あの子が文章を入れた相手は、数百人ではなかった。


数千人だった。もしかすると、1万人を超えている。


都市が一つ、まるごと。


その文章を一編ずつ訪ね歩いて集めることなど、不可能だった。俺の残りの年月をすべて使っても、終わらない。


なのに、その文章はどれも、同じ時期に、同じやり方で目を覚ましていた。


1か月余り前から。刑務所の運動場であった、あの夜の数日後から。


互いに知らない数千人の頭の中で、同じ日に。


散らばったものが同じ日に一緒に動くのなら、どこかで縛られている。一本の糸に。


* * *


その人の陳述のうち、俺はその箇所を何度も読み返した。


台風の夜、山の頂で、その人の頭にも文章が入ってきたという箇所。


その文章は、受け取る者にとって、その者が最も信じている声で聞こえる、とその人は書いていた。


大半は、母親の声だった。


そして、あの子供の作戦報告書だ。


事由欄は三行。俺が書いた三行。


その報告書の一番下、備考欄には、あの子供が鉛筆で残した落書きが時々あった。


作戦担当者は、報告書を読んで署名する前に備考欄を確認する規定があった。その規定は俺が作った。あの子供が落書きをする欄が一つぐらいあってもいいと思ったからだ。


子供はその欄に、時々、絵を描いた。


あんパン。井戸。方眼紙。


鉛筆の線はどれも薄かった。消しかけて、やっぱり残したみたいに。


俺はしばらく、そのページを閉じなかった。


あの子の隣で、いちばん長く言葉を交わしたのは誰だったのか。


答えなら、俺にもわかっている。


8年間、毎朝あの子にブリーフィングをした人だ。


あの子がブリーフィングを聞くより早く、その子の頭のなかで先に読み取っていった声。


あの子の前では、嘘をつけなかった声。


その人の陳述の七番目。封筒からその一節を読んだとき、俺はしばらく次の頁へ進めなかった。


台風の夜から3日目にあの子が目を覚まし、その人に言ったのだという。


「一日だけ、休みたい」


その人は、そのくだりにこう書き添えていた。


「あの子は、その言葉をあなたには言っていません」


後になって、俺はあの子に聞いた。なぜ俺に、それを聞いたのか、と。


あの子は答えた。


「あなたの声は、とても聞き慣れているから。あなたに何か言おうとすると、自分の声なのか、あなたの声なのか、わからなくなるんだ」


そのとき、俺は何と返したらいいのかわからなかった。


初めて読んだとき、俺はその書き添えのなかで、順序だけを見ていた。


今日、遊び場のベンチで、その文をまた思い出した。


自分の声なのか、あなたの声なのか。


* * *


あの子が散らばった日、あの子は俺にも文を入れたのだろう。


その考えを、俺は二十日以上も避けてきた。矯正委員に会った日から。院長の頭のなかで、他人の文を見分けた日から。


俺は他人の頭のなかは覗き込んでおきながら、自分の頭のなかは覗き込んでいなかった。


だが、ひと月ほど前から、俺は妙なものを感じていた。


ひと月ほど前から、ある考えが浮かぶたび、その考えの声が少しだけ違うのだ。


俺の声なのに、俺の声より少し高い。少し若い。


俺はそれを疲れのせいだと思った。薬を二度も抜いたから。あの人の陳述を、毎晩読んでいたから。


その考えは、18年のあいだ、俺とともにあった。


一日に何度も浮かんだ。浮かぶたびに、俺は薬入れを取り出した。


その考えは、俺を楽にする考えだった。だから嫌だった。


俺は、その考えが自分から自分への言い訳なのだと信じていた。楽になるために俺が作り出した文なのだと。


だからその文が浮かぶと、その文を消そうとして薬を飲んだ。


俺はベンチから立ち上がった。


シーソーは、まだ片側が地面についていた。


俺は浮いている側に手を置いた。そしてゆっくりと押した。


シーソーは逆に傾いた。地面についていた側が浮いた。


水平になる瞬間があった。ほんの一瞬だけ。


シーソーの持ち手は冷たかった。鉄だった。筋のない鉄。


俺はその持ち手を握ったまま、長いこと立っていた。


水平は長くは続かない。手を少しでも離せば、どちらかへ傾く。水平を保つには、休まず押し続けるしかない。


俺はその瞬間に、あの文を思い出した。わざと。


その文は、俺の声ではなかった。


* * *


帰りの車の中で、俺は計算をしていた。


散らばったものは、いちばん大きなかけらに結びついている。そのかけらは、あの子がいちばん多く語りかけた相手の頭の中にある。集めるには、あの子の名前が要る。


刑務所の運動場にいたあの人は、名前を持つものを掴むやり方を知っている。報告書に載った目撃者の陳述が、そう告げていた。倒れた子供の手首を掴んで、一針ずつ。


そして、その一針が入る瞬間を留めておく何かが要る。シーソーが水平になる、あの短い時間を。


あの子の名前は、俺の引き出しの中にある。なつめの木の印章に刻まれて。


その一瞬を押さえていられる人間を、俺は知っている。方眼紙の三本目の線。


信号に引っかかるたびに、俺はバックミラーで自分の顔を見た。白髪の混じった顔。あの子が覚えている俺の顔は、今より18歳若い顔だ。あの子が今の俺を俺だと分かるか、俺には分からない。


あの子は人を顔で見分けなかった。声で見分けた。頭の中の声で。


その勘定をしながら、俺はハンドルを握る自分の手が震えているのを見た。震えるべきときに震える手。初めて、俺の手が俺の手のようだった。


18年のあいだ、俺が自分の考えだと信じてきた文が、一つだけある。


* * *


その日、彼女がシーソーを押した遊び場は、89年前に井戸があった場所だった。その井戸は、一人の青年が手を浸すと水が澄む井戸だった。


シーソーが水平になったあの一瞬を、我々は我々の本に記した。その一瞬は、我々の本のどの章とも同じ高さだった。


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