第125話 返したものと埋めたもの(2)
管理番号 KR-05 自筆陳述書
陳述23 — 路地の証人。
封筒8。原文のまま転載。実名は▇処理。
* * *
私は、あの老人をもう一度訪ねました。
十日後のことでした。今度は一人で行きました。実長にも、あなたにも告げていません。日曜日でした。日曜日の外出記録を、誰もまだ開いてはいませんでした。その後も実長の監視が付いていたのか、私は知りません。もし付いていたのなら、実長はその日曜日の写真も升目を揃えて机の上に並べていたでしょう。私はそれを覚悟して行きました。
封筒は持って行きませんでした。代わりに米を一袋、持って行きました。10キロです。バス停から老人の家まで、20分歩きました。米袋が肩に食い込みました。七月の私は、米袋など持ったことがありませんでした。米は配給で、受け取りは妻がしていました。
老人は庭で唐辛子を取り込んでいました。雨が上がって三日。唐辛子はすっかり乾いていました。老人は私を見て、手を止めました。そして私の肩の米袋に目をやりました。
「金の代わりに米か」
私ははい、と答えました。米は謝罪ではなく、ただの米です、と付け加えました。
老人はその言葉を聞いて、初めて笑いました。前歯が一本ありませんでした。そして米袋を縁台の上に下ろせと言いました。受け取る、という意味でした。袋を下ろすと、肩が軽くなりました。背広の肩には、米袋の跡が白く残っていました。米ぬかでした。老人はその跡を見て、手で払ってくれました。二度。七月に、妻が出勤する私の肩の埃を払ってくれた手つきと同じでした。私はその手が止むまで、動きませんでした。
〈2015年10月18日、11:40〉
米10キロ。あの人の名簿の四行目、返済の欄には、「受領拒否」の横に小さな字で一行が書き足してある。「米10キロ — 受領」。あの人は、金が拒否された欄に、米が受け入れられたことを別に記した。同じ枠の中に。枠の外に出ないよう、ごく小さく。
* * *
老人は私を縁側に座らせました。
今度は縁台ではなく、縁側でした。
部屋からやかんと湯呑みを二つ持って出てきました。麦茶でした。
私はその湯呑みを受け取ったまま、待ちました。老人が先に口を開くのを。
老人は麦茶を一口飲み、庭の唐辛子のなくなった場所を、長いこと見ていました。
「この前、あなたの顔をどこかで見たような気がすると言いましたよね」
「はい」
「嘘でした。どこで見たか、分かったんです」
私は湯呑みを置きませんでした。手に持ったままでした。麦茶が揺れないように。
老人の話はこうでした。
七月に自分の姉がその畑を売ったあと、老人は、襟に印を付けたあの若い役人の後をつけて回りました。
役所の前で待ち、仕事を終えて出てくるその後をつけました。
何日も、ポケットに石を入れたままでした。
「投げるつもりでした。後頭部に。あの人が、父が連れ去られたその場所で働いていたからです。十五の私にできたことなんて、それくらいしかありませんでした」
老人は笑いました。今度は、前歯のないほうを手で隠しました。
「でも、投げられませんでした。毎晩後をつけながら、毎晩投げられませんでした。あの人が電車でつり革を握るのを見ると、どうしても投げられなくなるんです。いつも同じ場所を握っていました。後ろのドアの横、三つ目のつり革です。それが妙に怖かった。毎日、同じ場所を握る人」
〈2015年10月18日、12:10〉
三つ目のつり革。
あの人が七月の路面電車でいつも同じ場所を握っていたことを、私は最初の封筒で読んだ。
その場所を毎晩、背後から見張っていた人がいたことを、この封筒で読んだ。
あの人は、自分が見張る側の人間だと生涯思っていた。見張られる側だったことは一度もない、と信じていた。
* * *
私はその言葉を聞いて、七月の路面電車を思い出しました。
つり革の三つ目。
同じ時刻の路面電車。同じ顔ぶれ。
私はその顔ぶれの順番を知っていました。眼鏡をかけた学生が降り、二駅あとに風呂敷包みを抱えた女が降りました。
その順番のどこにも、十五歳の少年はいませんでした。
私はその子を見たことがありませんでした。
その子は毎晩、私の後ろにいたのに。
老人は続けました。
「その日もつけて行きました。七月の末です。あの日は、あの人がいつもより早く出てきました。四時ごろでした。そして、いつも降りる場所で降りなかった。西の端まで行きました。井戸のある町です。私は、あの人がそこでまた誰かを捕まえるのだと思いました。あの人は路地をあちこち歩き回って、駄菓子屋で何かを尋ねて、井戸のそばにしばらく立っていました。日が暮れるまで。私は、あの人がなぜ井戸をそんなに長く見ているのか分かりませんでした」
私はその日、井戸のそばにしばらく立っていました。
日が傾きました。路地から、子供たちが家へ呼ばれて入っていきました。その路地のどこかの塀の陰に、十五歳の少年が石を握って立っていました。
「そして、あの人が近道に入りました。塀の高い路地です。灯火管制で真っ暗でした。私は今度こそ投げようと決めました。石を取り出しました。そのとき、私の後ろから誰かが来ました」
〈2015年10月18日、12:30〉
老人の証言。
私はこの箇所を、あの人が死んだあとになって、この陳述で初めて読みました。
あの人はこの証言を報告書にしませんでした。実長にも、私にも。証人がいたという事実を、あの人は自分の陳述の中にだけ残しました。
証言を書類にすれば、あの老人には欄が一つできます。あの人は、その老人に欄を作ってやりたくなかったのでしょう。
* * *
老人は杯を置いた。
「二人でした。私を通り過ぎて、あの人の後ろへ回りました。一人は重い足音で、一人は軽い足音でした。重いほうは制服でした。暗がりでも帽子の形で分かりました。軽いほうは白い服でした。私たちのような者が着る服です」
私はその夜、足音を数えました。二つ。一つは重く、一つは軽い。
拍子が合っていませんでした。
「その二人があの人の後ろに付きました。何も言いませんでした。名も呼びませんでした。そうして音がしました。思ったより小さい音でした。何かの判を押すような音でした。たん、と」
私は息を止めました。
その比喩は三度書き直して、この陳述の前半に残しました。判を欄に押す音。
その比喩を書くのに、私は三日かかりました。
ところが、七月の路地にいた十五歳の少年も、その音を同じものとして聞いていました。
「あの人が倒れました。弁当箱が転がってきました。私の足元まで。空の箱でした。白い服がしゃがんで、懐中電灯をつけました。あの人の顔と紙を交互に照らしました。そして何か言いました。短く。制服がもう一度、撃ちました」
老人は庭を見ました。
唐辛子のなくなった場所を見ていました。
「私はそのとき、うれしかったのです。本当は。あの人が倒れるのを見て。石を投げなくてもよかったから」
〈2015年10月18日、12:50〉
* * *
「ですがね」
老人が俺のほうへ体を向けた。
曇った目が、俺の顔を探した。
「あの二人が行ってから、私はあの人のところへ行きました。死んだかどうか、確かめようと思って。でも、いなかったんです。あの人が。倒れた場所には血があったのに、人はいませんでした。私が塀の陰から出てくる、その数歩の間に。私はそれが怖くてたまらなくて、あの町から逃げました。それから70年、誰にも話していません。姉にも。女房にも」
老人は俺の手を見た。
麦茶の湯呑みを握っている手。
「あなたが、あの人ですか」
俺は答えなかった。
答える欄はあった。
「そうです」と書くための、正確な欄。
だが、俺がその欄に入れば、老人の70年は別の欄へ移されることになっていた。
父親を連れ去った役所の人間が、70年後、あの顔のまま戻ってきて、米を持って縁側に座っている、という欄。
その欄に入った老人は、残りの歳月、その欄から出られないことになっていた。
俺は麦茶を飲んだ。最後まで。
それから、湯呑みを置いた。
老人は俺の答えを待たなかった。
ひとりで、頷いた。
「もういいんです。米、ありがとうございます」
〈2015年10月18日、13時20分〉
その日、あの人は答えなかった。
あの老人は、答えを待たなかった。
私はこの箇所を読んで、長いこと座っていた。
あの人は、私にも何度も答えなかった。
そのたびに、私はあの人が答えを知らないのだと思っていた。
今なら、わかる。
あの人は、その答えが相手をどの欄に入れるかを、計算していたのだ。
* * *
バス停まで歩くあいだ、私はその路地の地図を頭の中に描きました。
井戸、駄菓子屋、近道、塀の日陰。
その塀の日陰のどこかに、15歳の子供が立っていました。
私はその位置を計算しました。私が倒れた場所から、十歩ほど。
その子供は十歩離れたところから、私が消えるのを見ました。
この世界でそれを見た者は、その子供ひとりだけでした。
私はその事実を記録する欄を探しました。
見つけられませんでした。
ですから、この陳述にだけ書きます。
* * *
帰りのバスで、私は計算をしました。
二人でした。制服と、白い服。
制服は、おそらく移入係の側のものでしょう。
焼却の指示が下りて、課長が外勤をしていた7月の末。書類のことを知っている朝鮮人の末端職員を片づける仕事。
その計算は合っていました。
ところが、白い服は。
白い服の者は、懐中電灯で私の顔と紙を照らし合わせました。
光が私の目に当たり、私は思わず顔をそらしました。
紙の上には、私の名前がありました。
「上同」
そう告げたのは、白い服の者でした。
その者は、私たちのような者たちが着る服を着ていました。
なぜ、あの路地に制服の者と一緒にいたのか。
私は知りませんでした。
申告人だったのでしょうか。
密告者だったのでしょうか。
それとも、私が移送した誰かの家族だったのでしょうか。
キム某だったのでしょうか。
三日ごとに窓口へ来て、自分の名前を確認していた、あの男だったのでしょうか。
私はその計算を終えられませんでした。
欄が多すぎました。
制服の欄は一つでしたが、白い服の欄は数えきれませんでした。
私が7月に台帳へ整然と書き写した一つ一つの名前が、白い服になり得たのです。
その名の息子も、兄も、父も。
白い服が入る欄が、7月の私の台帳には数百もありました。
その日、バスの窓の外を田んぼが過ぎていきました。
私は初めて知りました。
誰が私を撃ったのかを知りたいのだ、と。
そして、その気持ちが、名簿の次の行を償いたい気持ちよりも大きいのだと。
私はその大きさが恥ずかしかったのです。
謝罪しに戻ってきた者が、謝罪より先に、自分を撃った手を探し出したがったのです。
誰が私を撃ったのか、知りたかったのです。それが謝罪よりも先にしたいことだったのだと、その日知りました。
〈2015年10月18日、16:00〉
* * *
その夜、あの老人は米の袋を開けて飯を炊いた。七十年ぶりに、その路地の話をした日だった。
飯は少し柔らかかった。老人は水を入れすぎた。手が震えていたから。




