第113話 嘘がつけないやり方(2)
管理番号 KR-05 自筆陳述書
陳述14 ― あんパン。
封筒5。原文のままに移す。実名は▇処理。
* * *
初めての作戦のあと、私はあの子どもと同じ車によく乗りました。
作戦のある日もあれば、ない日もありました。作戦のない日でも、あなたはあの子どもを外へ連れ出しました。その子が建物の中にばかりいると、建物の中の人間の頭の中をすべて読んでしまうからです。同じ人間の同じ心配を一日じゅう聞かされるのは、14歳にはよくない――それがあなたの判断でした。だからあなたはその子を公園へも連れていき、川辺へも連れていきました。人の少ない場所へ。私はその散歩に荷物のように付き従いました。待機資源はどこに置いても待機でしたから。
あの子は車の中で、私にこの時代を教えました。
携帯電話の画面の使い方、地下鉄の路線図の読み方、コンビニのレジで袋が要るかと聞かれたときの答え方。あの子は口を開かずに教えました。私の頭の中に絵を描き入れたのです。路線図は色ごとに、レジは順番どおりに。私はその絵を書き写しました。ノートの枠に。あの子は私が書き写すのを見て、頭の中にすでにあるのに、なぜまた書くのかと不思議がりました。私は、頭の中にあるものは枠の中にはないもので、枠に書いてこそ確かめられると答えました。あの子はその答えをしばらく考えてから、おじさんの頭の中はもともと枠でできているから、枠の外に置かれたものは信じられないのだと言いました。
私はその言葉が正確だと分かりました。あの子は私を、私より正確に読んでいました。
〈2010年10月8日、15時30分〉
そのノート。あの人があの子から学んだことを書いたノートは三冊ある。表紙に番号がある。1、2、3。三冊目の最後のページには「あんパン――二つ買えば、一つは誰かのポケットへ」と書いてある。確認した意味の欄には、何もない。
* * *
私はあの子に、自分の時代のことを教えました。
あの子のほうが先に、おじさんの頭の中にしょっちゅう浮かんでくるあの赤いものは何かと訊きました。
朱肉でした。
私は内ポケットから印鑑を取り出しました。そして車の中の手のひらほどのノートに、朱肉の代わりにボールペンで塗りつぶしたところへ印鑑を押して見せました。
滲みました。ボールペンは朱肉ではありませんでした。
あの子は笑いました。口に出して。
翌日、私は文房具店で朱肉を一つ買いました。
あの子に、朱肉を三回叩くやり方を教えました。枠の真ん中に押すやり方。押し終えて一、二と数えるやり方。
あの子は私の印鑑でノートに三回押してみました。一度目は傾き、二度目は滲み、三度目はまっすぐに収まりました。
あの子は三度目の印を見て喜びました。
そして頭の中で訊きました。
「おじさん、これ、僕の名前で作ったものはないんですか?」
ありませんでした。
あの子はこの建物では番号で呼ばれていました。書類には番号が書かれ、通帳にも番号が書かれていました。あの子の名前は孤児院の帳簿にしかありませんでした。
あの子は、自分の名前が彫られた物を一つも持ったことがありませんでした。
私はその週の土曜日、街の印鑑屋を訪ねました。
まだそういう店が残っていました。路地の奥、ガラス戸に「印鑑・名板」と金色の文字が貼られた店でした。
主人は七十を過ぎた老人でした。老人は拡大鏡をかけ、木の印鑑を彫っていました。
私はその手を長く見つめました。7月、妻の印鑑を彫ったという義父の刃物さばきを思い出しました。
私は老人に、名前を三文字書いて渡しました。
あの子の名前でした。あの子が頭の中で私に教えてくれた名前。
老人はその名前を見て、いい名前だと言いました。誰が付けたのかと訊きました。
私は、あの子を育てた人が付けたのだと答えました。
老人はうなずき、名を付ける人の手は温かかったのでしょうと言いました。
私はその言葉をあの子に伝えませんでした。あの子が読むものだったからです。
老人は前金を受け取り、領収書を手書きで書いてくれました。領収書の隅には老人の印鑑が押してありました。朱肉を三回叩いたような印でした。
私はその領収書をノートの間に挟んでおきました。
この時代に受け取った書類のうち、初めて機械ではなく人の手で書かれた書類でした。
〈2010年10月16日、11時00分〉
印鑑屋。その店は数年前に閉じていた。
その場所には、携帯電話の修理店が入っていました。
私は修理店のガラス戸に貼られた営業時間の案内を、長いこと眺めました。
あの人なら、まず営業時間の欄がまっすぐ引かれているかを見ただろう。まっすぐではありませんでした。
* * *
印章は一週間後に出来上がりました。
なつめの木の印章でした。長さは指一本半ほど。
印面には、あの子の名前が篆書体で彫られていました。
私はそれを小さな箱に入れ、あの子に手渡しました。
渡す前に、私がまず朱肉を三回叩き、一度押してみました。
まっすぐでした。老人の腕は確かでした。
あの子は箱を開け、印章を取り出しました。
そしてしばらく、何も考えませんでした。
あの子の頭の中が静かなのだと、私にはわかりました。
あの子が何かを考えると、その考えはいつも少しずつ私にも漏れ込んできました。ですが、その日は何も漏れ込んでこなかったのです。
あの子が私に何も聞かせなかったのは、初めてでした。
しばらくして、あの子は印章を朱肉に当て、三回叩きました。
ノートを開きました。空欄を一つ見つけました。欄の真ん中に印章を押しました。一、二。そして離しました。
まっすぐでした。あの子の名前が、欄の中に赤く収まっていました。
あの子はその欄を長く見つめました。それから、頭の中で、とても小さく言いました。
「これ、書類に押してもいいですか?」
私は、だめだとは答えられませんでした。
この部署の書類には、あの子の名前が入る欄がありませんでした。あるのは番号の欄だけでした。
だから私は、いつか押す場所ができるだろうと頭の中で答えました。
その答えが正確なのか、私にはわかりませんでした。
あの子にはわかったのでしょう。私がわかっていないことまで、読み取ったはずですから。
それでもあの子は、その答えを受け入れてくれました。
印章を箱に戻し、箱をポケットに入れました。
そのポケットを、手で一度だけ押さえました。
〈2010年10月23日、16時40分〉
棗の木の印章。
それは今、私の机の一番下の引き出しにあります。封筒の隣です。
あの子が死んだ日、あの子のポケットから出てきました。
遺品目録には「印章1個(氏名記載)」とありました。
私はその目録から、その一行を消しました。
そして、印章を持ち帰りました。
私がこの部署で犯した、たった一度の窃盗です。
* * *
あの子は、作戦が終わると決まってあんパンを食べました。
あなたがコンビニの前で車を止め、あの子がパンを選び、あなたが二個を会計しました。
あの子はいつも一つだけ選び、あなたはいつも二個を会計しました。
そしてあの子は、残った一つをあなたのジャケットのポケットに入れました。
あなたがあんこを嫌いだと知っていながら。
あなたはそのパンを食べませんでした。
事務所の引き出しに入れて、数日後に捨てました。
あの子は、それも知っていました。
知っていて、それでも入れました。
毎回。
私はそのことが不思議でした。
計算が合いませんでした。
食べないと知っている相手にパンを渡すこと。
捨てられると知っているパンを買い続けること。
私はあの子に、なぜなのかと聞きませんでした。
聞けばあの子は答えるでしょうし、その答えを聞けば、計算が合ってしまいそうでした。
その計算だけは、合わないままにしておきたかったのです。
十一月のある夜でした。
作戦が長引きました。
国境の向こうへ行く人たちの頭の中に、あらかじめ入れておく文章でした。
あの子は車の中で目を閉じて、一時間耐えました。
終わったとき、あの子はハンカチでも拭いきれないほど汗をかいていました。
あなたはコンビニの前で車を止めました。
あの子は車から降りられませんでした。
あなたが一人で入って、パンを二個買ってきました。
あの子は一つを受け取って、半分ほど食べました。
そして、残った一つを取り出しました。
あなたのジャケットのポケットに手を伸ばして、止まりました。
そして、その手は向きを変えました。
あの子はそのパンを、私のスーツのポケットに入れました。
〈2010年11月19日 23:20〉
* * *
私はそのパンを見ました。
あの子は何も言いませんでした。頭の中でも。
あの子は半分ほど食べたパンを手に握ったまま、後部座席にもたれて目を閉じました。
運転席のあなたがバックミラーでその光景を見ました。あなたも何も言いませんでした。
私はそのパンをポケットから出しました。ビニールを破りました。一口かじりました。
甘かったです。65年前に茶房で飲んだコーヒーより、警察署の紙コップのコーヒーより甘かったです。
私はそのパンを最後まで食べました。パンくずも残しませんでした。
豆を数えるように、一口ずつ数えました。十一口でした。
食べ終えてから、後部座席を振り返りました。あの子は眠っていました。口を少し開けたまま。
それなのに、口の端が上がっていました。眠りながら笑っていました。あるいは、眠ったふりをして笑っていました。
どちらなのか、私には分かりませんでした。私はあの子の頭の中を読めませんでしたから。
あの子はそれから、残ったパンを一つずつ、交互に入れるようになりました。
私はその夜、地下の部屋に戻ってノートを広げました。あの子から教わったことを書くノートです。
番号の欄に次の番号を書き、単語の欄に「あんパン」と書きました。「初めて見た日」の欄に、その日の日付を書きました。
「推定した意味」の欄には、こう書きました。二つ買えば、一つは他人のポケットに。
「確認した意味」の欄は空けておきました。その欄を埋めるにはあの子に聞かねばならず、聞けばその計算が当たってしまいそうでした。
私はその欄を最後まで空けておくことにしました。私がわざと空けておいた欄は、それが初めてでした。
一度はあなたのポケットに、一度は私のポケットに。あなたのポケットに入ったパンは捨てられ、私のポケットに入ったパンは食べられました。あの子はその計算を最後まで変えませんでした。
私はそのパンを食べました。あなたと違って。
〈2010年11月19日 23:45〉
私はそのパンを食べなかった。あの人は食べた。あの子はその二人のことを全部知っていた。
あの子がなぜその計算を最後まで変えなかったのか、私はこの陳述を読んでも分からない。
ただ、今は一つだけ分かる。私のポケットに入ったパンは、捨てられるためではなかった。あの人のポケットに入るパンと対になるためだった。
* * *
その年の冬、あのコンビニのあんパンの販売記録には、同じ時間帯に、同じカードで二個ずつ決済された行が31回分残っていた。
そのうち、残った一つが食べられたのは15回だった。食べた人はいつも同じ人だった。




