第103話 移送事由書(4)
地下文書庫の閲覧台帳には、出入りの時刻を秒単位で書く。
俺は階段を下りる前に、腕時計を標準時に合わせた。事務室のパソコン画面の隅の時計と、秒まで。
ラーメンが台帳を一枚まるごと書き直してから、二日が経っていた。俺は一枚まるごと書きたくはなかった。
文書庫の扉の前で、主務官は俺が書いた時刻を自分の腕時計と突き合わせてみた。
9時02分31秒。
主務官はもう一度、時計を見た。それから、俺の顔を見た。
その顔に、失望がよぎった。定年を一年後に控えた男が、一日にそう何度も巡ってこない機会を逃した顔だった。
主務官は閲覧目的の欄を指した。
「目的を具体的にお書きください、室長。前回の職員の方は『室長の私物』と書いておられました」
俺は目的欄に「旧移入係の台帳及び移送事由書の確認」と書いた。
主務官は「旧移入係」という言葉のところで、眉を少し上げた。
その言葉をこの建物で声に出して読む者は、彼と俺の二人だけだろう。
主務官は何も尋ねず、鍵束から三本目の鍵を選んだ。
問わないこと。それが、この文書庫で彼が守る二番目の規則だ。
一番目は秒単位だ。
* * *
文書庫の一番奥。湿度計が貼りつけられた鉄の棚に、その台帳たちはある。
表紙は黄色く褪せ、紐は新しいものに替えて結び直されている。巻数が墨で書かれている。
俺はそのうちの一冊を抜き取った。あの人が最後の欄を埋めた巻だ。
18年前、この巻を初めてめくったとき、俺は最後のページしか見なかった。にじんだ巻末の印章を見て、あの人の手が初めて震えた跡だと思った。
昨日、あの人の陳述を読んで、その考えを訂正した。
手は震えていなかった。規則をすべて守ったのに、にじんだのだ。
俺は今度は、最初のページからめくった。
字は整っていた。枠の外へはみ出した線は一本もない。事由欄はどれも一行だった。
挙動不審、移入の疑い、挙動不審、挙動不審。処理欄は保留と移送。
一枚に二十の名前。一冊に何枚あるかは、数えなかった。数えたら、その数を覚えてしまいそうだった。
7月2日の頁で、手が止まった。名前は七つ。
そのうち一つの処理欄に移送。そしてその隣、事由欄の「移入の疑い」。
その言葉の下に、鉛筆の跡が薄く残っていた。消しゴムで消した跡だ。元は何と書かれていたのか、読み取れない。ただ、長さから見て五文字ほど。
水を清める。
五文字だ。
あの人は最初、申告書の言葉を鉛筆で書き写し、それを消して、決められた言葉に書き直した。
陳述に、その鉛筆の話はない。書き直した、とだけ書いてある。
直す前に一度、そのまま書いてみたという事実を、あの人は欄の外にも書かなかった。
* * *
移送事由書は台帳の隣の棚に、十二束ある。
私は七月の束を取り出した。作成者の欄に、あの人の印章 が押され始める束。
確認事項欄を一つずつ読んだ。18年前には、この欄を読まなかった。誰も読まない欄が押され始める束。
確認事項欄を一つずつ読んだ。18年前には、この欄を読まなかった。誰も読まない欄だったからだ。
あの人の陳述のとおりだった。課長は事由欄だけを読んだ。私もそうだった。
額に傷跡。左手の小指が曲がっている。特異事項なし。20歳くらい。背は作成者の肩の高さ。裸足。
「裸足」という言葉の前で、長く座っていた。湿度計の針が少し動いた。
この部屋の湿度は、文書のために合わせてある。人のためではない。
私は息を少し浅くした。
70歳くらい。小柄。手が大きい。
その束で「手が大きい」は一度だけだった。次のページから四枚は、どれも「特異事項なし」。日付は同じ。7月12日。
あの人の陳述によれば、その日、赤ちゃんは明け方4時に熱が下がり、あの人は出勤して、何も書かないことにした。
四枚の「特異事項なし」は、字が少し大きかった。他の日の同じ言葉より。大きく書いた字は、端正さを保つのが難しい。
その日、あの人は端正に書くために、普段より力を入れたのだろう。特異事項を書かないために使った力が、字の大きさになって残った。
受け先の欄には、どれも同じ番号の印章が押してあった。
18年前、私はその番号を照会してみた。この部署のどの索引にも、その番号はなかった。
受け先が記録から消されたのか、最初から記録しなかったのか、私には分からない。あの人も知らなかった。
あの人は尋ねなかった。尋ねろという欄もなかった。
* * *
私はその棚で、手を二段下へ移した。
そこには、移入係の次の時代の簿冊がある。
表紙の字体が違う。墨ではなくボールペンで、縦書きではなく横書きだ。
書式も変わった。欄の名前も変わった。
事由欄は「確保事由」になり、処理欄は「措置」になった。
「移送」という語はない。代わりに「確保」と「配置」がある。
簿冊には番号が付いている。対象者一人につき、一冊。
私は番号を順にたどった。
番号が一つ、空いていた。
その場所には、簿冊の代わりに、手のひらほどの紙片が挟んであった。
「移管」
移管した日付と、移管した人の印章。
印章は、私のものだった。
私はその紙片を、18年前に自分で挟んだ。
その簿冊が今どこにあるか、私は知っている。
この文書庫ではない。
私の机の一番下の引き出しの横にある、もう一つの鍵のかかった区画の中に。
その簿冊の番号がなぜ空いていなければならなかったのかは、この部署の誰にも説明したことがない。
説明しろという欄がなかったからだ。
あの人の言い回しが、私にうつっていた。
私はその簿冊の中から一冊を抜いて開いた。26年前の簿冊だ。
「特殊資源確保命令書」。
対象:氏名 ▇▇▇、12歳、保護機関(宗教団体)所在。
確保事由欄。
精神感応能力の確認。
一行だけだ。
氏名欄には、あの子の名前がある。
私はその名前を、この記録にも、あの人の陳述に付けるメモにも書かない。
その子の名前は、その子が帰ってきたときに、声に出して呼ぶ。
その順序は、あの人の封筒の表側がすでに決めていた。
私はその順序を守るつもりだ。
作成者欄には、私の名前が書いてある。その下に、私の印章。
24歳の私の印章は、今のものより少し傾いている。
あのときは、欄の真ん中に押せと誰も教えてくれなかった。あの人に会う前だった。
私はその一行を、長いこと見ていた。
あの子を連れてきた日のことを覚えている。
団体の建物の廊下に、白い服を着た人たちが並んでいた。
その人たちは、私たちを見まいと、頭を下げていた。
あの子は、廊下の突き当たりの部屋に座っていた。
扉を開けると、あの子が先に言った。
口を開かないまま、私の頭の中で。
「お姉さん、それ、一行で書きましたよね」
その言葉は、私の頭の中にあった。
私はそれを、自分の考えだと思った。私の良心のようなものだと思った。
車に乗せてから、その子が笑うのを見て、分かった。
あの子は、私がその言葉を自分の考えだと勘違いするところまで読んでいた。
そして、その勘違いが面白いとでもいうように笑った。
帰りの道で、あの子がコンビニの前で車を止めてくれと言った。頭の中で。
無視することもできた。運転していた先輩の局員には、その声は聞こえていなかったからだ。
あの子は運転席ではなく、私の頭の中にだけ話しかけた。
私は先輩に、トイレに行きたいと嘘をついた。
あの子が後部座席で声を出して笑った。
あれが、私があの子の前でついた最初で最後の嘘だった。
あの子は、その嘘が自分のためのものだと分かっていた。
コンビニで、あの子はあんパンを選んだ。一つだけ。
私は二つを会計した。
なぜ二つ買ったのか、自分でも分からない。
たぶん、あの子が一つしか選ばないのが引っかかったのだろう。
車に戻って袋を渡すと、あの子は一つを取り出して、私の上着のポケットに入れた。
私はあんこが嫌いだ。
あの子はそれを知っていた。知っていて、入れた。
私はそのパンを食べなかった。
その夜、ポケットから出して机の引き出しに入れ、三日後に捨てた。
あの子はそれも知っていただろう。
その日から、私はあの子の前で嘘をつけなくなった。嘘をつく前に読まれるからだ。
そしてその日から、私は事由欄を長く書こうと努めた。あの子の書類でだけ。
あの子の次の書類、配置命令書と作戦報告書の事由欄は、どれも三行以上ある。
三行書いて何が変わるのか、私には分からなかった。
あの子は分かっていただろう。私が三行を書いている間、何を考えたかまで読んでいたはずだから。
* * *
閲覧を終えると、私は台帳を棚に戻した。巻数の順どおりに。
湿度計の針は、元の位置に戻っていた。
扉の前で、主務官が閲覧終了の時刻を書けと言った。私は時計を見て書いた。10時47分12秒。
主務官は、自分の時計を見た。そして今度はごく小さく、失望していない顔でうなずいた。
私はそのうなずきの意味が分かった。この文書庫で、二度続けて秒を当てた者は珍しい。
主務官は私に、初めて規則の外の話をした。
「あの移入係の台帳、室長以外にも探している人が一人いました。ずいぶん前のことです」
「誰ですか」
「名前は閲覧台帳にありません。目的の欄に『本人確認』とだけ書いてありました。本人確認は閲覧の目的にはできないと突き返したんですが、その人は笑ったんです。目の下から」
階段を上がりながら、私はその笑いを考えた。
目の下から動く笑い。その人は、自分の名前が台帳にあるかを確かめに来て、欄がなくて帰っていった。
三日ごとに窓口に来て、自分の名前を確かめていた男のように。
事務室へ戻ると、ラーメンが私の部屋の前で待っていた。
ラーメンは、文書庫の主務官から、私が秒を二度とも当てた話をもう聞いていた。この建物で噂が一番早く回る場所は地下だと、私は今日知った。
「室長、あれ、どうやって当てたんですか」
「下りる前に時計を合わせた」
「それ、反則じゃないですか」
「規則に、時計を合わせるなとは書いてない」
ラーメンは、その言葉を長く考える顔をした。
そして自分の腕時計を外すと、私の机のパソコンの時計に合わせた。秒まで。
合わせ終えて、ラーメンは満足した顔で出ていった。
次の閲覧は来月だ。そのときまでに、ラーメンの時計は何秒かずれるだろう。
ラーメンは、その事実をまだ知らない。
私は机に座った。斜めに。
机の上に、矯正当局の公文書が一通届いていた。収容者KR-07の保護措置期間延長の通知。事由欄は「事由確認中」。一行だった。
私はその公文書を長く見た。そして思った。
この部署が名前を三つ経るあいだに、変わらなかったものがもう一つある。日が差してはいけないという言葉と一緒に。事由は一行。
その子を連れてきた書類にも、事由は一行だった。書いたのは、私だった。
* * *
その日、文書庫の湿度計は、彼女が入るときと出るときに同じ数字を指していた。
彼女がその中で息を浅くしていた四十五分は、湿度計に記録されなかった。




