↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
102/160

第102話 移送事由書(3)

管理番号 KR-05 自筆陳述書

陳述 6 — 土地。

封筒 2。原文のまま転記。実名は▇処理。


* * *


7月の2週目の土曜日、私たちは土地を見に行きました。


それは、戸棚のいちばん下の段の靴下が、もう十分に太ったと妻が判断した日でした。


妻は靴下の下の封筒を引っ張り出し、部屋の床に広げ、紙幣を同じ向きに揃えて数えました。


数え終えると、妻は数字をひとつ言いました。


私はその数字を頭の中で数え直しました。


合っていました。


妻の計算は、狂ったことがありません。


その金額なら、城の外の東、川向こうの畑をひと区画買えました。


福徳房の老爺が先月から私たちに教えてくれていた土地でした。


パク書記は、土地を買うという私の言葉に手を叩きました。


土地は逃げない。それがパク書記の持論でした。


人は逃げても、土地はその場にあります。


それでパク書記は、給料をもらうと、土地を買う代わりに妻の実家へ持って行って渡しました。


妻の実家は逃げませんでしたが、お金は妻の実家から戻ってきませんでした。


パク書記はその事実を知りながら、持論を変えませんでした。


持論とは、もともと自分に適用するものではありませんでした。


* * *


朝7時、私たちは赤ちゃんをおぶって家を出ました。


電車に乗って、東の終点まで行きました。


行き先の布が、ひとマスずつ回りました。


妻はその布を、初めてじっくりと見ました。


私は妻に、その布に書かれた停留所の名前を、順番どおりに暗誦して聞かせました。


妻は「それ、どうして覚えてるの」と聞きました。


私は「覚えたんじゃありません。勝手に入ってきたんです」と答えました。


妻は「あなたの頭には、マスがいくつあるの」と言って笑いました。


私は「数えたことはありません」と答えました。


事実でした。


マスを数えるマスはありませんでした。


〈7月14日、07:50〉


城の外の東、川向こう。


あの畑の地番を、私は知っている。


今、その場所に畑はない。


あの人も、この箇所を書くときには知っていた。


だが、この箇所では知らないふりをする。


マスを守ったのだ。


* * *


福徳房の老爺は、長い煙管をくわえたまま、私たちを待っていました。


老爺は煙管を口から一度も離さずに、話しました。


だから老爺の言葉は、いつも煙と一緒に出てきました。


煙が濃いほど、重要な言葉でした。


老爺は私たちを、川向こうの畑へ連れて行きました。


畑には、何も植えられていませんでした。


去年の春に耕しただけで、種を蒔かなかった畑でした。


土は乾いて、ひび割れていました。


妻は赤ちゃんを私に渡して、畑の周りを歩きました。


歩数を数えながら。


妻は米屋の娘らしく、何でも数える人でした。


一周りし終えてから、妻が数字を言いました。


福徳房の老爺が言った坪数とは、合いませんでした。


少し足りませんでした。


老爺は濃い煙を吐き出しながら、「女の歩幅は男の歩幅より短いんでな」と言いました。


私は赤ちゃんを妻に返して、もう一度、畑の周りを歩きました。


私の歩幅でも、足りませんでした。


老爺は今度は、煙を吐き出しませんでした。


代わりに、「値段から一割負けてやろう」と言いました。


値引きの言葉には、煙がありませんでした。


私はその一割が気に入りました。


計算が合ったからです。


足りない分だけ、引かれました。


正確な取引でした。


〈7月14日、10:30〉


一割。


あの人は後に、この一割を別に計算した。


利息まで付けて。


その計算書が別の封筒に入っているかどうか、私はまだ知らない。


入っているだろう。


あの人は計算を後回しにしなかった。


* * *


契約は福徳房の狭い縁側でしました。


契約書は老爺が自分で書きました。長煙管をくわえたまま筆を動かしたので、字を書いている間に、煙管の先から灰がひとつぶ落ちました。


灰はあいにく、買主の欄の上に落ちました。老爺は口でふっと吹いて灰を飛ばしましたが、灰色の染みが残りました。


私は新しい紙に書き直してほしいと頼みました。


老爺は煙を濃く吐き出しながら、灰の落ちた契約書は長持ちするという言い伝えがある、と言いました。そんな話は初めて聞きました。おそらく老爺がその場で作り上げた話でしょう。


それでも私はそれ以上せがみませんでした。長持ちするという言葉が気に入ったからです。


染みは私の名前ではなく、妻の名前が入る欄の上にありました。妻はその染みを爪でそっと引っかいてみて、すぐにやめました。引っかくと紙が傷みました。


売り主は若い女でした。十代前半ぐらいの弟を連れてきました。


土地の持ち主はもともとその女の父親でしたが、父親が家にいないので女が代わりに来た、と言いました。


福徳房の老爺は、委任状は預かってある、と言いました。私はその委任状を見せてくれ、と言いました。委任状なしに他人の土地を買うのは、正確なことではありませんでしたから。


老爺が取り出して見せた委任状には、父親の印章が捺してありました。印は端正でした。朱肉もにじんでいませんでした。


私はその印を良い印だと思いました。


契約書に名前を書く番になったとき、私は妻の名前を書きました。土地は妻の名義にすると、もう決めてありました。


役所に通う者の名前で土地を買うと噂になる、というのが係長の忠告でした。係長自身もそうした、と言いました。


係長の夫人の名義の土地が城の外の西にあることを、我々係の者たちはみな知っていました。


噂にならない方法が、みなが知る方法になれば、それは別の種類の噂になりました。


それでも誰も、その言葉を口にしませんでした。


妻は、名前の隣に印章を押しました。


妻の印章は、嫁に来るときに実家の父が彫ってくれたものでした。妻は押す前に、朱肉を二度叩きました。


私は、危うくもう一度叩けと言いかけるところでした。言いませんでした。


妻の印は、二度でもはっきりと出ました。実家の父の彫りが、良かったのでしょう。


私は金を手渡しました。女が受け取って数えました。弟が横で、一緒に数えました。


二人の唇が、同じ数字を音もなく動かしました。


数え終わって、女が頭を下げました。弟は頭を下げませんでした。


弟は私を見ました。正確には、私の背広の襟を見ました。襟に付けた記章を。


〈7月14日、13時10分〉


委任状の、あの端正な印。


私はその委任状の写しを、登記書類の綴りから見つけました。日付は、契約日より三週間前です。その三週間の間に何があったのか——彼は次の段落に書きます。


書く前に、原稿用紙を一枚、空けてありました。まるまる一枚。


* * *


帰りの電車の中で、私はあの弟の目のことを考えていました。


階級章を見る目なら、待合室で何度も見ました。あの目と同じでした。


私は、あの目がなぜ福徳房の板の間にあったのか、突き合わせてみました。


父が家にいない、という言葉。委任状の日付。城の外の東、川向こう。そして、あの父の姓。


月曜日に出勤して、私は台帳を開きました。開く必要がないことは分かっていました。それでも、開きました。


確認は台帳で行います。記憶では行いません。


6月下旬の欄をめくりました。そこに、あの姓がありました。


本籍は、城の外の東。事由は「移入の疑い」。


申告書の原文には、「その者が鋤き返した畑だけが、干ばつにもひび割れない」とありました。


処理欄には、移送。私の筆跡でした。


その者が鋤き返した畑。この春、鋤き返しただけで、種を蒔かなかった畑。土が乾き、割れた畑。


私は台帳を閉じました。そして、思いました。この取引は、正確だったのか。


委任状は本物でした。印は端正でした。値は坪数どおりに引かれました。金は数えどおりに渡されました。どの欄にも、間違いはありませんでした。


間違いのない取引でした。


それなのに、私はあの土地に二度と足を運びませんでした。


妻は、秋に大根を植えようと言いました。私は、そう答えました。


秋が来る前に、事が起きました。そのことは、次の封筒に書きます。


あの土地の上に今、何が立っているのか、私は知っています。


それも、別の封筒に書きます。一つの封筒には、一つの土地だけを書くと決めていました。


その日の夕方、妻は土地文書を赤ちゃんの枕の下に入れようとしました。


妻の実家の村には、「文書を枕にして寝た子は、その土地を守る者になる」という言い伝えがあるのだと、妻は言いました。


私は、文書がしわになるからと言って止めました。妻は、赤ちゃんに紙をしわにするような力がどこにあるのか、と言いました。


赤ちゃんはその夜、三度寝返りを打ちました。私は三度起きて、枕の下を確認しました。


結局、妻が文書を油紙に包んで、もう一度入れ直してくれました。油紙に包まれた土地文書を枕にして、赤ちゃんは朝まで眠りました。


私は、朝までほとんど眠れませんでした。文書ではなく、あの土地を売った弟の目が、何度も頭に浮かんだからでした。


あの目は、油紙に包まれてはいませんでした。


〈7月16日、09:20〉


* * *


その週の水曜日、台帳の最後のページが埋まりました。


私の指の関節四つ分ほどの厚みがあったその台帳が、最後の欄まですっかり埋まりました。


新しい台帳は、すでに倉庫から出してありました。表紙の巻の番号だけが替わった、それ以外はまったく同じ台帳でした。


係長は、最後の欄を埋める者がその巻の末尾に確認の印を押すのだと、おっしゃいました。それが、私たちの係の古い慣例でした。最後の欄を埋めたのは、私でした。


最後の欄の名前は、知らない名前でした。事由は「挙動不審」。処理欄は、移送。


私はその二文字を端正に書いて、その下の巻末確認欄に印を押しました。朱肉を三度叩いて、欄の真ん中に。一、二。


印を離したとき、朱がにじんでいました。


勤め始めてから、初めてでした。三度叩いて、真ん中に押して、二つ数えました。規則はすべて守りました。


それなのに、にじんでしまいました。7月の湿気のせいだったのでしょう。あるいは、私の手のひらの汗のせいだったのでしょう。


私は、そのにじんだ印をしばらく見つめていました。書き直すことはできませんでした。


巻末確認欄は一つしかなく、台帳を新しく書き直すことは、その巻全体を書き直すことでした。


係長は、私の肩越しにその印をご覧になりました。そして、巻末の印は誰も見ないから大丈夫だ、とおっしゃいました。


私はその言葉を信じました。その後、あの巻を開いた者が何人いたのか、私は知りません。おそらく、ほとんどいなかったでしょう。ですが、私は知っています。あのにじんだ印を見た者は、少なくとも二人はいます。私と、この陳述を読んでいるあなたです。


〈7月18日, 16:40〉


そうだ。私は、あのにじんだ印を見た。18年前、あの巻の最後のページをめくったときに。


私はあのにじみを、あの人の手が初めて震えた痕だと思っていた。


今日、この陳述を読んで、訂正する。手は震えていなかった。規則はすべて守られていたのに、にじんだ。そのほうが、もっと恐ろしい。


* * *


その日、あの台帳の最後の欄でにじんだ朱肉は、あの巻が文書庫の棚で過ごした90年近くのあいだ、一度も乾かなかったように見えた。


あの土地の登記簿では、その後、名義が三度変わった。三度とも、同じ一家の名だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。