第101話 移送事由書(2)
管理番号 KR-05 自筆陳述書
陳述 5──ありがとうの言葉。
封筒 2。原文のまま転記。実名は▇処理。
* * *
7月第2週、保留の書類が再び上がってきました。
保留は、終わりではありませんでした。
保留された申告書は、ひと月のうちに再び審査を受けました。その間に、同じ人物についての申告書がもう一枚入ると、処理欄の鉛筆の印が変わりました。
保留から、移送へ。
二枚なら事由が二つになり、事由が二つなら疑いが確認になりました。それが係長のやり方でした。
係長がそのやり方をどこで学ばれたのか、話されたことはありませんでした。おそらく、その上から学ばれたのでしょう。
やり方は、いつも上から下りてきました。
* * *
その週に再び上がってきた書類のうちの一枚に、私は見覚えがありました。
7月2日、私が台帳に書き写した七つの名前のうちの一つでした。
元は事由欄に「子供の熱が下がる」と書かれていた申告書。私が「移入の疑い」と書き換えたもの。その時の処理欄は、保留でした。
今回は、同じ人物についての申告書がもう一枚、添えられていました。
別の人物が書いた申告書でした。
事由は、今回も長いものでした。
そのお婆さんが手を触れると子供たちの熱が下がるのだが、そのお婆さんが訪ねた家で昨冬、子供が一人死んだ、という内容でした。
申告人は、熱が下がる代わりに別の何かが上がった、と書いていました。
私はその二枚目の申告書を読みながら、考えました。
熱が下がった子供たちの数と、死んだ子供一人。どちらが事由になるのか。
答えは決まっていました。
事由欄に、良いことが入ることはありませんでした。決められた言葉の中に、良いことを意味する言葉はありませんでした。
係長の鉛筆の印が、変わっていました。
移送。
〈7月9日、09:40〉
申告書が二枚なら、疑いは確認になる。
このやり方は、その後何度か名前を変えたが、今もこの部署のどこかに残っている。
私は18年前、そのやり方で決裁を上げたことがある。その時は、それがやり方だとも知らなかった。
* * *
お婆さんは、その日の午後に待機室へ来ました。
お婆さんは産婆でした。この界隈で四十年、子供を取り上げてきた人で、近所の子供の半分は、お婆さんの手を最初に経てこの世に出ています。待機室の扉の前に立っていた制服が、そう教えてくれました。
制服は、お婆さんが入ってくるとき、わずかに頭を下げました。制服が対象者に頭を下げるのを、私はその日、初めて見ました。
制服は私の視線に気づいて、慌てて顔を上げました。そして、自分もお婆さんの手で取り上げられた子供なのだと言いました。制服を着た人は制服の中でひとりそう言って、それからまた制服に戻りました。
私は書類を脇に挟んで、中へ入りました。
お婆さんは椅子の真ん中に座っていました。ほかの人たちのように端には座らず、背筋を伸ばして、両手を膝の上に置いていました。私が名前を呼ぶと、お婆さんは答えました。
「はい」
ほかの人たちは名前を呼ばれても顔を上げるだけでしたが、お婆さんは返事をしました。
私は確認事項の欄を埋めました。七十ほど。小柄。手が大きい。手が大きいと書いたのは、お婆さんの手が本当に大きかったからです。体に比べて手が大きく、節が太く、手のひらが広い。赤ん坊の頭を片手で受け止められるほどの手でした。
お婆さんが私の手を見ました。ペンを握っている手を。
「お役人様、手が冷たうございましょう」
私は答えませんでした。規則でしたから。お婆さんは返事を待ちませんでした。
「ペンを握る手は、たいてい冷たいものです。血が指先まで行きませんからね。それでも、お書きになる字は整っておいでです」
お婆さんには、私の字が読めるようでした。書類はこちらから見れば逆さまだったのに。
私は確認事項欄の最後の語を書き、書類を閉じました。お婆さんがまた言いました。
「早くしてくださって、ありがとうございます。待つのが何よりこたえますので」
私はそのとき、待機室の中で初めて頷きました。返事ではありませんでした。頷くことは規則にありませんでした。禁じられてもいなかったのです。
〈7月9日、14:50〉
ありがとうの言葉。
前の封筒で、彼は、移送された老婆が一人、ありがとうと言ったことを書こうとして、書かなかった。ここで書く。原稿用紙に鉛筆で「陳述2に入れようか」と書き、消した跡がある。彼は順を守った。この言葉が来た日の順を。
* * *
そのありがとうの言葉が、私のもとに来た最後のあいさつでした。移送された人々のうちでは。
その後、移送事由書を持って待機室に下りていっても、人々は私を見ないか、見ても何も言いませんでした。あいさつをしたのは、お婆さんだけでした。なぜお婆さんだけがあいさつをしたのか、私は長く考えました。待つことが何よりこたえる、というあの言葉のせいだったのでしょう。お婆さんは四十年のあいだ、待つ人々の隣にいました。陣痛が来るのを、子どもが生まれるのを、子どもの泣き声を。お婆さんにとっては、待つことが終わるのが良いことでした。何で終わろうと。
その考えが正確なのか、私は今も知りません。お婆さんに尋ねることはできませんでしたから。
その日の午後、課長は決裁板で扇いでいました。扇子は配給されませんでした。扇風機は軍需品として取り上げられて久しかったのです。課長は、書類を挟んだままの決裁板で扇いでいて、書類が一枚、飛んで、係長の机の下に入りました。係長がその書類を拾って差し出しました。お婆さんの移送事由書でした。課長はその書類をまた決裁板に挟み、職印を押しました。風に一度飛ばされて戻ってきた書類でした。課長はその書類が何なのか、見ませんでした。風が書類を選んで飛ばすわけではないのですから。私はその場面を見て、笑みがこぼれそうになって堪えました。何がおかしいのか分からなかったので、堪えました。
パク書記はその場面を逃しませんでした。退勤路で彼は、課長の扇は書類を飛ばして決裁なさるので決裁が早い、と一人でくすくす笑いました。私はパク書記のその言葉を妻に伝えませんでした。伝えたら笑ってしまいそうでしたし、笑ったら、その書類が誰のものだったのか言わなければならない気がしたからです。
〈7月9日、18:00〉
決裁板の扇。
この部署の決裁板は、半世紀以上も同じ形をしている。木の板に金属のクリップ。風を起こすのにちょうどいい重さだ。
私はそれで扇いだことはない。今日、この箇所を読んで初めてやってみた。書類は飛ばなかった。クリップが固かった。
* * *
二日後の夜、赤ちゃんが熱を出しました。
日付が変わるころでした。妻が私を揺すって起こしました。赤ちゃんの額は熱かった。
赤ちゃんは泣きませんでした。泣かないことのほうが、かえって異様でした。
妻は濡れタオルを額に載せ、扇で扇ぎました。家の扇は配給されたものではなく、妻が嫁いでくるときに持ってきたものでした。
扇には梅の花が描かれていました。義父が米屋の常連からもらった扇で、梅の枝が一本、扇骨の継ぎ目で切れていました。
妻はその切れた枝を見るたび、来年の春にはつなげて描き直すと言いました。三度の春が過ぎましたが、枝はまだ切れたままでした。
切れた梅が、赤ちゃんの上で前後に揺れました。
妻が言いました。
「下の町に産婆のおばあさんがいるそうよ。手を当てるだけで、子どもの熱が下がるんだって」
私はその言葉を聞いて、起き上がって座りました。
「あのおばあさん、最近見かけないって言うじゃない。どこへ行ったのかしら。明日、夜が明けたら一度行ってみましょうか」
私は妻に、行くなと言いました。妻はなぜかと尋ねました。
私は医者に行こうと言いました。妻は、医者は高いし、おばあさんなら餅を一皿で済むと言いました。
私は、そのおばあさんがもうあの町にはいないとは言いませんでした。どうしてそれを知っているのか、話さなければならなくなるからです。
代わりに私は赤ちゃんを抱きました。赤ちゃんの体は熱かった。
私は自分の手を、赤ちゃんの額に当ててみました。ペンを握る手は冷たい、とおばあさんは言っていました。
本当に、私の手は冷たかった。
冷たい手を赤ちゃんの額に当てていれば、熱が少し下がるような気がしました。
下がりませんでした。
私の手は冷たいだけで、おばあさんの手ではありませんでした。
明け方4時ごろ、赤ちゃんの熱はひとりでに下がりました。
赤ちゃんはそのときになってようやく泣きました。
妻は赤ちゃんを受け取って抱き、泣きました。
私は泣きませんでした。朝、出勤しなければならなかったからです。
〈7月12日、04:10〉
彼はこの陳述で初めて、自分の手は「おばあさんの手ではなかった」と書く。
我々の知る彼は、よく手を見た。何かをする前に、手のひらを一度返して見た。
その癖の始まりがここにあるのか、我々には分からない。ここにあってほしい。
* * *
その日の朝、電車の中で私はつり革をつかみませんでした。
手をポケットに入れて立っていました。
電車が揺れるたび、体が前のめりになりました。
隣に立っていた学生が、不思議そうに私を見ました。
その学生は、いつも同じ時刻の電車に乗る眼鏡をかけた学生でした。
先週、何日か姿を見せなかったのに、また現れた学生。
私は、学生がまた現れたことがうれしかった。
喜ぶ理由は、私にはありませんでした。
名前も知らない学生でした。
それでもその朝、その学生の眼鏡を見て、私は少し安心しました。
台帳に載らなかった人が一人いる、というだけで。
事務室に着いて、私はその週の台帳を開きました。
おばあさんの名前は、台帳の処理欄に「移送」と整理されていました。
私の字でした。整っていました。
私はその欄を指で一度なぞってみました。紙は冷たかった。
私はその日一日で、移送事由書を四枚書きました。
四回、待機室に下りました。
四回、確認事項の欄を埋めました。
その日は「手が大きい」のような言葉を一度も書きませんでした。
四つの欄はすべて「特異事項なし」でした。
退勤のころ、係長はその日私が書いた移送事由書四枚をめくって目を通すと、眼鏡を外しました。
係長は考えることがあると、眼鏡を外してハンカチで拭くのでした。
その日は長いこと拭いていました。
そして、「今日は四枚とも特異事項なしだが、それなら上同と何が違うのか」と尋ねました。
私は「違います」と答えました。
上同は見ずに書く言葉で、特異事項なしは見て書く言葉です。
少なくとも、私はそう習いました。
係長は眼鏡をかけ直しながら、「では、今日は見たのか」と尋ねました。
私は答えられませんでした。
その日、私の目は特異事項を見ないことにしていました。
正確には、見ても書かないことにしていました。
それがその日、私にできる最も正確なことでした。
係長は私の答えを待たずに、四枚に印章を押しました。
上同と特異事項なしは、印章の前では違いませんでした。
〈7月12日、17:20〉
* * *
その年の冬、その町で生まれた子供たちは、別の産婆の手で取り上げられた。
そのうち熱を出した子供たちは、熱がひとりでに下がるのを待った。
ほとんどは下がった。




