8話:羽
月日は流れ、私は五歳になった。
三歳の頃と比べると、私の背はずいぶん伸びた。
鏡の前に立てば、自分でも少しお姉さんになったような気がする。
けれど、お兄ちゃんたちやレイの方が、もっとずっと大きくなったように感じられた。
身長も伸びたし、肩幅も広くなって、なんだか以前よりずっと逞しく見える。
私だって成長しているはずなのに、まるで少しも追いつけていないような気がする。
最近は、レイに前世の話をすることも増えた。
もちろん、前世のことをそのまま話しているわけではない。
私が別の世界で生きていたことなど、いくらレイでも簡単に信じられる話ではないだろう。
だから私は、夢の話ということにしている。
夢の中には、高い建物が並ぶ街があった。
馬のいない乗り物が走り、遠く離れた人とも話すことができた。
夜になっても電気で街は明るく、冷たい箱の中に食べ物を入れておけば、何日も腐らない。
そんな話をすると、レイはいつも静かに聞いてくれる。
信じているのかどうかは分からない。
けれど、馬鹿にしたり、笑ったりすることもない。
「不思議な夢ですね。」
そう言いながら、私の話が終わるまで付き合ってくれる。
以前のレイは、いつ見ても同じ顔をしていた。
怒っているようにも、困っているようにも見えない。
まるで精巧に作られた人形のようだった。
けれど最近は、ほんの少しだけ表情が豊かになった気がする。
私が変なことを言うと、わずかに眉が動く。
困らせると、ほんの少しだけ目を細める。
面白い話をしたときには、口元がわずかに緩むこともある。
他の人には分からないかもしれない。
けれど、毎日一緒にいる私には分かる。
レイは、少しずつ笑うようになった。
それがなんだか嬉しくて、私は今日も夢の話をする。
そんな穏やかな日々が続いていた、ある日のことだった。
「……痒い。」
頭が、なんだかむずむずする。
虫に刺されたときのような痒みではない。
皮膚の奥から押されているような、妙な感覚だった。
私は指先で頭を掻いた。
けれど、掻いても痒みは治まらない。
それどころか、触れた指先に、奇妙な膨らみが当たった。
「なに、これ。」
髪をかき分けながら、何度も触ってみる。
頭皮がぷっくりと盛り上がっている。
できものだろうか。
けれど、押しても痛くない。
柔らかくもない。
皮膚の下に、硬い何かがあるような気がする。
レイに言おうかとも思った。
けれど、痛くもないのに騒ぐのは少し恥ずかしい。
きっとすぐに治るだろう。
私はそう考え、その日は何も言わずに過ごした。
けれど、翌日になっても膨らみは消えなかった。
むしろ昨日よりも少し大きくなっている。
さらに次の日には、もう片方にも同じような膨らみができていた。
痒みも、日に日に強くなっていく。
それでも痛みはなかった。
熱があるわけでもない。
私は毎朝、鏡の前で髪をかき分け、膨らみを確かめた。
けれど、後頭部にあるうえ、髪に隠れてしまって、鏡越しではよく見えない。
いったい何なのだろう。
そんなことを考えながら過ごすこと、数日。
その朝、私はいつものように鏡の前へ座った。
寝癖を直そうと髪に手を伸ばし、指先に硬いものが触れた。
昨日までとは違う。
皮膚の中ではなく、外に何かが出ている。
私は慌てて髪をかき分けた。
そして、鏡の中に映ったものを見て、目を見開いた。
「……羽?」
後頭部から、小さな羽が生えていた。
髪の毛に埋もれてしまうほど、小さな羽だった。
左右に一枚ずつ。
漆黒で、まるでカラスの翼のように艶がある。
見た目は柔らかそうだった。
けれど、恐る恐る触れてみると、指先に返ってきた感触は想像以上に硬い。
羽毛のようにしなやかなのに、芯は鋼のようだった。
力を込めても、ほとんど曲がらない。
「本当に、羽だ……。」
私は鏡に顔を近づける。
髪を持ち上げなければ見えないほど小さい。
けれど確かに、私の頭から生えている。
私はそれに見覚えがあった。
お母さんの肖像画。
そこに描かれたお母さんの後頭部にも、同じような漆黒の羽があった。
お母さんと同じ羽。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
私はお母さんのことを、ほとんど知らない。
声も、顔も、温もりも。
覚えているのは、生まれたときに聞いた言葉だけだ。
それでも、同じものが自分の体に生えた。
まるで、お母さんとの繋がりが目に見える形で現れたようだった。
そのとき、扉を叩く音がした。
「姫様。お目覚めでしょうか。」
レイだ。
いつもなら返事をしてから中へ入ってもらう。
けれど今日は、返事より先に立ち上がっていた。
「レイ!」
勢いよく扉を開けると、レイが僅かに目を見開いた。
「おはようございます、姫様。」
「見て!」
私はレイに背を向け、髪を両手で持ち上げた。
「羽が生えたの!」
レイはしばらく何も言わなかった。
見えていないのかと思い、私はもう少し頭を下げる。
すると、後ろから小さく息を呑む音が聞こえた。
「……エリー様。」
声が、いつもより柔らかい。
振り返ると、レイは目を細めていた。
口元にも、はっきりと笑みが浮かんでいる。
こんなに嬉しそうなレイの顔を、私は初めて見たかもしれない。
「おめでとうございます。」
「おめでとう?」
「はい。羽や角が生えることは、魔族にとって特別なことです。」
レイはそう言って、私の前に跪いた。
「姫様が、無事に一人前の魔族へ成長された証でございます。」
「一人前……。」
まだ五歳なのに。
そう思ったけれど、どうやら“成人”とは少し意味が違うらしい。
乳歯が抜けて永久歯が生えるようなものだろうか。
赤ん坊ではなくなり、次の成長へ進んだ証。
それが、魔族にとっての角や羽なのだ。
「では、お支度を済ませましょう。」
レイは立ち上がる。
「陛下へ、すぐにご報告いたしましょう。」
「うん!」
朝の支度を終えると、私はすぐにパパのもとへ向かった。
執務室の扉を開けてもらい、中へ入る。
パパは机に向かっていたが、私の姿を見るとすぐに手を止めた。
「どうした、エレオノーラ。」
「パパ、見て!」
私は机の前まで駆け寄り、くるりと背を向けた。
髪を持ち上げる。
「羽が生えたの!」
一瞬、部屋が静かになった。
次の瞬間、椅子が大きな音を立てた。
パパが勢いよく立ち上がったのだ。
「見せてみろ。」
パパは私のそばまで来ると、膝を折った。
大きな手が、そっと髪を持ち上げる。
羽に触れられた感覚は、不思議だった。
皮膚に触れられているのとは少し違う。
けれど、自分の体の一部だということは分かる。
パパはしばらく羽を見つめていた。
その顔が、ゆっくりと綻ぶ。
「そうか。」
低い声が、いつもより優しい。
「おめでとう、エレオノーラ。」
パパの手が、私の頭を撫でる。
羽に触れないように、慎重に。
「ママと同じ羽だよね。」
「ああ。」
パパは短く答えた。
その目が、ほんの少しだけ遠くを見る。
「セレーネと同じだ。」
その声には、懐かしさと寂しさが混じっていた。
けれど、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
「シリウスとレグルスを呼べ。」
パパがそう命じると、控えていた侍従がすぐに部屋を出ていった。
しばらくして、お兄ちゃんたちがやって来た。
「エリーに羽が生えたって?」
部屋へ入るなり、レグルスお兄ちゃんが私の後ろへ回り込む。
「見せて、エリー。」
「まだ小さいよ。」
私は髪を持ち上げた。
「本当だ。」
シリウスお兄ちゃんも、すぐそばまでやって来る。
二人とも、よく似た赤い目を細めた。
「おめでとう、エリー。」
「おめでとう。ちゃんと生えてきてよかったね。」
「生えないこともあるの?」
「かなり遅い魔族もいるよ。」
レグルスお兄ちゃんが答える。
「種族によっても違うけど、五歳なら早くも遅くもないかな。」
「そうなんだ。」
私はもう一度、指先で羽に触れた。
まだ小さい。
けれど、これから少しずつ大きくなるのだろう。
「羽や角が生えることは、一人前の魔族になった証だ。」
パパが言った。
「我が国では、家族でその成長を祝う習わしがある。」
「お祝いするの?」
「ああ。」
「ケーキもある?」
「あるよ。」
シリウスお兄ちゃんが笑う。
どうやら、甘いものもちゃんと用意してもらえるらしい。
「ただ、その前に俺たちは準備をしないと。」
「準備?」
私が首を傾げると、レグルスお兄ちゃんが少し得意そうな顔をした。
「祝いには、特別な獲物が必要なんだ。」
その言葉に、シリウスお兄ちゃんも頷く。
二人にとって、お祝いの狩りは大切な役目らしい。
「父上も来る?」
「いや、私が行くまでもないだろう。」
パパは当然のように答えた。
お兄ちゃんたちも、それで十分だと言わんばかりに顔を見合わせる。
「じゃあ、俺たち二人で狩りに行ってくるね。」
「二人で?」
「そうだ。」
「何を狩ってきてくれるの?」
そう尋ねると、お兄ちゃんたちはまた顔を見合わせた。
どちらからともなく、少しだけ楽しそうに笑う。
「それは、まだ秘密。」
「帰ってきてからのお楽しみだ。」
「えー。」
不満そうな声を出してみたけれど、二人は教えてくれなかった。
それでも、嫌な気はしない。
秘密にされると、ますます気になってしまう。
私は少し考えてから、別の聞き方をしてみることにした。
「私が食べたことないもの?」
「そうだ。」
「角や羽が生えたお祝いの日に、初めて食べることが許されるんだ。」
「へ~。」
それなら、きっとよほど特別なご馳走なのだろう。
私のために、お兄ちゃんたちが特別なものを狩りに行ってくれる。
パパも、レイも、お兄ちゃんたちも、みんな私の成長を喜んでくれている。
羽が生えただけで、こんなにも祝ってもらえるなんて思わなかった。
数日後に開かれるというお祝いが、私は楽しみで仕方なかった。
――あの日が来るまでは。




