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9話:お祝い

お兄ちゃんたちが狩りへ出かけてから、数日が経った。


どうやら、二人とも無事に帰ってきたらしい。

らしい、というのは、私が眠っている間に城へ戻ってきたからだ。

朝起きたときには、すでに自室で休んでいるとレイから聞かされた。


「怪我はしてない?」


真っ先にそう尋ねると、レイは静かに頷いた。


「お二人とも、ご無事でございます。長旅でお疲れのため、今はお休みになっております。」

「よかった。」


胸を撫で下ろす。

お兄ちゃんたちが帰ってきたということは、例の獲物も無事に持ち帰ることができたのだろう。


そして、今夜はいよいよ私のお祝いが開かれる。

朝から、城の中はいつもより騒がしかった。

廊下を行き交う使用人たちは慌ただしく、厨房の方からは食器の触れ合う音や、誰かの指示を飛ばす声が聞こえてくる。

いつも静かな城が、今日はどこか浮き足立っているように見えた。


そのすべてが、私のために行われている。

そう思うと、なんだか落ち着かない。

楽しみで、嬉しくて、朝からずっと胸がそわそわしている。


いったい、どんなご馳走が出てくるのだろう。

お兄ちゃんたちが狩ってきてくれた、私がまだ一度も食べたことのないもの。

ケーキもあると言っていた。

昨日まで小さく痒かった羽のことも、今ではすっかり忘れてしまいそうだった。


「姫様、本日はいつもより念入りにお支度をいたします。」


朝食を終えたあと、レイにそう告げられた。

私の部屋には、いつの間にか何人ものメイドが集まっていた。

ベッドの上や長椅子には、色とりどりのドレスが並べられている。

さらに机の上には、髪飾りや首飾り、宝石のついた小さな装飾品まで、所狭しと置かれていた。


「このドレスはいかがでしょうか。」


一人のメイドが、黒いドレスを私の前に広げる。

胸元や裾には、たくさんのレースがあしらわれ、見るからに高そうだ。


「いえ、せっかく漆黒の羽が生えたのですから、こちらの方がお似合いかと。」


別のメイドが、銀の刺繍が入った紺色のドレスを持ち上げた。


「ですが、姫様にはこちらの白も――」

「白では羽が目立ちすぎるのでは?」

「目立たせるためのお祝いでしょう。」

「それなら髪飾りは銀がよろしいかと。」


次から次へと意見が飛び交う。

私を着飾らせるという目的は同じはずなのに、なかなか話がまとまらない。

メイドたちは真剣そのものだった。


ドレスを私の体に当てては首を傾げ、別のものを持ってきては、また悩み始める。

私はされるがまま、何度も腕を上げたり、くるりと回ったりした。


「レイは、どれがいいと思う?」


助けを求めるように尋ねると、レイは並べられたドレスを見比べた。

しばらく考えたあと、一着を指し示す。


「こちらがよろしいかと。」


レイが選んだのは、深い紫色のドレスだった。

一見すると黒にも見えるほど落ち着いた色合いだが、光を受けると、布地に隠れていた紫が艶やかに浮かび上がる。

胸元や裾には繊細な刺繍が施され、派手すぎないのに、普段のドレスよりずっと華やかに見えた。


「やはり、こちらですよね。」

「羽のお色にもよく合います。」


レイの一言で、メイドたちはようやく納得したらしい。

今度はそのドレスに合わせる装飾品を決めるため、再び話し合いを始めた。

髪飾りを選び、首飾りを選び、靴を選ぶ。

小さな羽が髪に隠れてしまわないように、髪型まで何度もやり直された。


「姫様、少し頭を下げてくださいませ。」

「こう?」

「もう少しだけ右を向いてください。」

「こっち?」


鏡の前でじっとしているだけなのに、だんだん疲れてくる。

最初は楽しかったけれど、終わる頃にはすっかりくたびれてしまっていた。


それでも、鏡に映った自分を見た瞬間、そんな気持ちはどこかへ消えた。

いつもより少し大人びたドレス。

丁寧に結い上げられた髪。


その隙間から、左右の小さな羽がきちんと覗いている。

鏡の中の私は、自分ではないみたいだった。


「……お姫様みたい。」


思わず呟くと、メイドたちが一斉に微笑んだ。


「姫様は、もとよりお姫様でございます。」


レイが、少しだけ可笑しそうに言う。


「そうだった。」


自分でも笑ってしまう。

今日は、私が一人前の魔族になったことを祝う日だ。


お兄ちゃんたちも帰ってきた。

特別なご馳走も用意されている。

鏡の中の小さな羽を見つめながら、私は夜が来るのを心待ちにしていた。


日が傾き始める頃、部屋の扉が叩かれた。


「エリー、入ってもいい?」


レグルスお兄ちゃんの声だ。

返事をすると、二人のお兄ちゃんが揃って部屋へ入ってきた。

狩りから帰ったばかりだというのに、疲れた様子はほとんどない。

すでに湯浴みを済ませたらしく、いつもの服より少しだけ華やかな衣装に着替えていた。


「わあ。」


私の姿を見たレグルスお兄ちゃんが、目を丸くする。


「すごく可愛いよ、エリー。」

「うん。よく似合ってる。」


シリウスお兄ちゃんも、満足そうに頷いた。


「本当?」

「本当だ。」

「羽もちゃんと見えるね。」


レグルスお兄ちゃんが私の後ろへ回り、小さな羽を覗き込む。

髪を結い上げてもらったおかげで、今は黒い羽が左右からはっきりと見えていた。


「お兄ちゃんたちが狩ってきたものは?」

「まだ秘密だ。」

「もう帰ってきたんだから、教えてくれてもいいでしょ。」

「食卓に並ぶまでのお楽しみだよ。」


二人とも、どうしても教えてくれないらしい。


「怪我はしなかった?」

「もちろん。」

「この程度の狩りで怪我なんてしないよ。」


そう言って、レグルスお兄ちゃんは得意そうに胸を張った。


この程度。

その言い方に、どんな獲物だったのだろうとますます気になった。

大きな魔獣だろうか。

それとも、この世界にしかいない珍しい動物だろうか。

私が知っている肉といえば、牛や豚や鶏に似たものが多い。

けれど、わざわざお兄ちゃんたちが数日もかけて狩りに出るくらいなのだから、きっと簡単には手に入らないものなのだろう。


「そろそろ参りましょう。」


レイに促され、私たちは部屋を出た。


お祝いが行われるのは、普段使っている食堂ではなかった。

案内されたのは、城の奥にある大広間だった。

扉の前には、いつもより多くの使用人が並んでいる。

私たちが近づくと、一斉に頭を下げた。

大きな扉が、ゆっくりと開かれる。


中へ足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑んだ。

広間には、いくつもの燭台が置かれていた。

天井から下がる大きな照明にも火が灯され、普段は薄暗い城内が、今日は眩しいほど明るい。

長い食卓には白い布が敷かれ、銀の食器が整然と並んでいる。

色鮮やかな花や、見たことのない果実も飾られていた。

本当に、特別な日なのだ。


「エレオノーラ。」


奥からパパに呼ばれ、私はそちらへ向かった。

パパも今日は、いつもの黒い衣装より豪華なものを身につけている。

肩には重そうな布が掛けられ、胸元には赤い宝石が輝いていた。


「よく似合っている。」

「レイが選んでくれたの。」

「そうか。」


パパはレイへ目を向け、僅かに頷いた。


「よいものを選んだな。」

「恐れ入ります。」


褒められたレイは、いつものように静かに頭を下げた。

けれど、その口元がほんの少しだけ緩んでいるのを、私は見逃さなかった。


席へ案内され、私はパパのすぐそばに座った。

反対側にはお兄ちゃんたちが並ぶ。


目の前には、普段よりも多くの食器が並べられていた。

前世のテーブルマナーと、それほど大きくは変わらないと思う。

けれど、もし粗相をしてしまったらどうしよう。

少し不安になってレイを見ると、彼は私の後ろに控えたまま、そっと耳打ちした。


「お好きなようになさればよいのですよ。今日は姫様のお祝いなのですから。」


なるほど。

今日は私のお祝いだから、多少間違えても誰も文句を言わないということか。

それでも、次にこういう豪華な食事をするまでには、きちんと作法を習っておかなくちゃ。


全員が席に着くと、パパが立ち上がった。

広間が静まり返る。


「今日、我が娘エレオノーラに羽が生えた。」


低い声が、広い室内に響く。


「これは、魔族として無事に成長し、一人前となった証である。」


そこにいる全員の視線が、私へ向けられた。

急に恥ずかしくなって、背筋を伸ばす。


「この喜ばしい日を、家族とともに祝えることを嬉しく思う。」


パパが杯を掲げる。

お兄ちゃんたちも、それに倣った。

私は慌てて、目の前の小さな杯を両手で持ち上げる。


「エレオノーラの健やかな成長に。」


皆が杯を傾ける。

私の杯には、甘い果実の飲み物が入っていた。

ひと口飲むと、少し酸っぱくて、あとから濃い甘さが広がった。


それを合図に、料理が次々と運ばれてくる。

焼いた魚。

香草の香りがするスープ。

色とりどりの野菜。

小さく焼かれたパンや、果実を使った前菜。

どれも普段より手が込んでいて、ひと口食べるたびに頬が緩んだ。


「美味しい?」

「うん!」


お兄ちゃんたちも満足そうに笑っている。

けれど、例の特別な獲物らしきものは、まだ見当たらない。

私は料理が運ばれてくるたびに、そっと扉の方へ目を向けた。

次だろうか。

それとも、その次だろうか。


何皿か料理を食べ終えた頃、使用人たちが新しい皿を運んできた。

銀の皿の上には、厚く切られた肉が載っている。

表面には綺麗な焼き色がつき、切れ目からは肉汁が滲んでいた。

色鮮やかな野菜が添えられ、見た目だけなら、少し豪華なステーキにしか見えない。


お兄ちゃんたちは楽しそうに目を細め、こちらを見た。


「エリー。」


シリウスお兄ちゃんが呼びかける。


「これが、俺たちからのお祝いだ。」


「これが、お兄ちゃんたちが狩ってきたもの?」


私が尋ねると、二人は顔を見合わせた。


「そうだ。」

「せっかくだから、何の肉か当ててみてよ。」


レグルスお兄ちゃんが楽しそうに言う。


「当てられるかな……。」

「食べてみれば分かるかもしれないよ。」


私は目の前の肉を見下ろした。

牛肉にしては色が少し淡い気がする。

けれど、鶏肉ほど白くもない。


ナイフを入れると、思っていたより少し固かった。

力を込めて切り分け、小さな一切れを口へ運ぶ。


香ばしい匂いが鼻に抜ける。

噛むと、じわりと肉汁が広がった。

けれど、普段食べている肉より少し筋張っている。

何度か噛み、飲み込む。


「……ちょっと固い?」


不味くはない。

けれど、特別美味しいとも思わなかった。


「兎?」


お兄ちゃんたちは首を横に振る。


「じゃあ、鹿?」

「違うよ。」


レグルスお兄ちゃんは、ますます楽しそうに笑った。


「もっと考えてみて。」

「うーん……。」


この世界には、私の知らない動物もたくさんいる。

魔獣の肉かもしれない。

しかも、お祝いの日に初めて食べることを許されるほど特別な獲物なのだ。

きっと、簡単には思いつかないものなのだろう。


私はもう一度、皿の上の肉を見る。

何だろう。


そう考えていると、シリウスお兄ちゃんが答えを告げた。






「人間だよ。」







「……え?」


その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。


人間。


今、そう言ったのだろうか。


私はお兄ちゃんの顔を見る。

けれど、冗談を言っているようには見えない。

レグルスお兄ちゃんも、パパも、何もおかしなことはないという顔で私を見ている。


「人間の肉だよ。」


今度は、はっきりと聞こえた。


口の中に残っていた肉の味が、急に蘇る。


さっき噛んだ感触。

舌に広がった脂。

喉を通っていった肉の塊。






私は、人間を食べた。






その事実が頭の中へ落ちた瞬間、胃の底が大きくひっくり返った。


「うっ……。」


私は咄嗟に口元を押さえた。

けれど、間に合わなかった。

喉の奥まで、さっき飲み込んだ肉が一気にせり上がってくる。

椅子から転げ落ちるように床へ膝をつき、私はその場に吐き出した。


「エリー!」


お兄ちゃんたちが同時に立ち上がる。

椅子が倒れ、食器が激しく音を立てた。


「姫様!」


すぐにレイが駆け寄り、私の身体を支える。

何度も咳き込みながら、胃の中のものを吐き出した。

さっきまで美味しいと思っていた料理が、胃液と一緒に喉を焼きながら逆流してくる。


「どうした、エレオノーラ!」


パパの声が、広間に響いた。


「毒かもしれない。」


シリウスお兄ちゃんが、険しい顔で皿の上の肉を見る。


「料理長を呼べ!」


レグルスお兄ちゃんが怒鳴った。

広間にいた使用人たちが、一斉に青ざめる。


「この料理を作った者と、運んだ者を全員ここへ連れてこい!」

「待て、厨房にいた者も全員だ。」


パパが低い声で命じた。

空気が一瞬にして変わる。

さっきまで私の成長を祝っていた広間に、怒号と慌ただしい足音が響き始めた。


「エリーの食事に毒を盛るなんて……!」

「全員打ち首にしろ。」


パパの言葉を聞いた瞬間、私は顔を上げた。


「ちが……」


けれど、口を開いた途端、また吐き気が込み上げた。


「うっ……!」


胃が痙攣し、私は再び床へ吐いた。


「エリー、もう喋らなくていい!」


シリウスお兄ちゃんが、苦しそうに私を見つめる。


「違う……」


違うの。

毒じゃない。

料理長も、料理を運んだ人も悪くない。

私はただ。

人間を食べたことが、怖くて、気持ち悪くて。


「違うの……!」


必死に声を絞り出す。

けれど、涙と咳で言葉にならない。

喉が焼けるように痛くて、息を吸うことさえ苦しかった。


「姫様、もう大丈夫です。」


レイが私の背中を撫でる。


「違う……殺さないで……」

「何をおっしゃっているのですか?」


聞こえなかったのだろうか。

レイは心配そうに私の顔を覗き込む。


「誰も……悪く、ない……」

「姫様は混乱しておられます。」


誰かの声が聞こえた。


「早く医師を呼べ!」

「解毒薬を用意しろ!」


次々と命令が飛び交う。

違う。

違うのに。

私は何度も首を横に振った。

けれど、身体に力が入らない。


「陛下。姫様をお部屋へお連れします。」


レイが私を抱き上げる。


「頼む。」


パパの声が、すぐ近くで聞こえた。


「必ず助けろ。」

「御意。」

「待って……」


私はレイの服を掴んだ。


「料理長……みんな……」


殺さないで。

そう言いたかった。

けれど、最後まで言葉にはならなかった。

広間から運び出される途中、後ろから怒鳴り声が聞こえた。


料理長を連れてこい。

給仕した者を捕らえろ。

城門を閉ざせ。

声が遠ざかっていく。

扉が閉じる。

その後、広間で何が起きたのか。

料理長や、料理を運んできた使用人たちがどうなったのか。

私には分からなかった。


◇ ◇ ◇


部屋へ戻ると、レイは私を寝台へ寝かせた。

すぐに水と布を用意し、汚れた口元を丁寧に拭ってくれる。


「姫様。お口を濯げますか。」


差し出された水を口に含む。

けれど、水が舌に触れた瞬間、あの肉の味を思い出した。

私は慌てて吐き出した。


「無理をなさらなくて結構です。」


レイは怒ることもなく、新しい布で私の口元を拭った。

その手は、いつもと変わらず優しい。


異世界に転生したのだ。

しかも、私は魔族として生まれた。


人間とは違う価値観があり、人間を殺すことも、食べることもあるのかもしれない。

そんな可能性を、一度も想像しなかったわけではない。

けれど、考えることと、実際に食べることはまったく別だった。


あれが人間の肉だと知った今でも、噛んだ感触が口の中に残っている。

喉を通っていった肉の塊が、まだ体の中にある。


「レイ……」

「はい。」

「毒じゃないの。」


レイの手が止まる。


「毒では、ないのですか?」


私は何度も頷いた。


「人間だったから……」


声が震えた。


「人間のお肉だったから、吐いたの。」


レイはしばらく黙っていた。

きっと、意味が分からないのだろう。

魔族にとって、人間を食べることはおかしなことではない。

さっきのパパやお兄ちゃんたちの反応を見れば、それくらい分かる。

けれど、今はそれよりも先に伝えなければならないことがある。


「レイ……お願い。」


私はレイの服の袖を掴んだ。


「さっきの人たちを、殺さないでって言ってきて。」

「姫様。」

「料理長も、料理を運んだ人も悪くないの。」


毒なんて入っていない。

誰も私を害そうとしたわけではない。

ただ、命じられた料理を作って、運んだだけだ。


「パパに言って。誰も殺さないでって。」

「しかし、姫様のおそばを離れるわけには――」

「お願い!」


思ったよりも大きな声が出た。

喉が痛み、また吐き気が込み上げる。

それでも、レイの袖を離さなかった。


「今すぐ言ってきて。お願いだから……。」


私が戻るまでに、誰かが殺されてしまうかもしれない。

料理長の顔も、料理を運んできた人の名前も知らない。

けれど、私のせいで死ぬなんて嫌だった。


レイは私を見つめた。

やがて、静かに頷く。


「承知いたしました。」

「絶対に、止めてね。」

「陛下へ、姫様のお言葉を必ずお伝えいたします。」


レイは一度だけ私の様子を確かめるように見つめると、静かに立ち上がった。


「すぐに戻ります。どうか、ここでお待ちください。」


そう言い残し、部屋を出ていく。

扉が閉まると、急に部屋が広くなったように感じた。


私は震える手で、水の入った器を手に取った。

口に含み、吐き出す。

もう一度、水を含む。

何度も、何度も口を濯いだ。


舌の上にはまだ肉の味が残っている。

噛んだときの感触も、喉を通っていった重さも、少しも消えてくれない。


もっと洗わなければ。

もう一度。

もう一度。

水を含んでは吐き出す。


もう一度。

けれど、それだけでは足りない気がした。


私は指を口の中へ突っ込み、舌の上や頬の内側を擦った。

爪が当たって痛くても構わなかった。


まだ残っている。


肉の味も、噛んだ感触も、喉を通っていった重さも。


全部、洗い流さなくては。


水を含んでは吐き出し、また指を口の中へ入れる。

舌を擦り、歯の隙間まで何度もなぞった。


「姫様。」


誰かに呼ばれた気がした。

けれど、私は手を止めなかった。

もっと奥まで洗わなければ。

喉に指を近づけた瞬間、強い吐き気が込み上げる。

咳き込みながら、それでもまた水へ手を伸ばした。


「姫様、もうおやめください。」


手首を掴まれ、ようやく顔を上げる。

いつの間にか、レイが戻ってきていた。


「離して……。」


私は掴まれた手を引こうとしたけれど、レイは手を離さなかった。


「まだ、残ってるの。」

「もう何も残っておりません。」

「嘘。まだ味がする。」


再び水へ手を伸ばす。

けれど、レイは器を私の手から取り上げた。


「姫様。」


いつもより強い声だった。


「これ以上続ければ、お口を傷めてしまいます。」

「でも……」

「もう、綺麗です。」

「綺麗じゃない……。」


私は叫んでいた。


「全然、綺麗じゃない!!」


レイはしばらく何も言わなかった。

それから器を遠ざけ、震える私の手を両手で包んだ。


「姫様。まずは、お聞きください。」


レイの静かな声に、私は荒い息のまま顔を上げた。


「陛下へ事情をお伝えし、処罰は取り止めとなりました。料理長も、給仕を務めた者たちも無事でございます。」


その言葉を聞いた瞬間、全身から力が抜けた。


「よかった……」


本当に、よかった。

少なくとも、私のせいでこれ以上誰かが死ぬことはなかった。


けれど、安堵した途端、今度は別の疑問が胸の奥から溢れてきた。


「レイ……」

「はい。」

「どうして、人間なの?」


レイは答えなかった。


「どこの人だったの?」

「……。」

「名前は?」


喉が詰まる。


「家族はいたの?」


皿の上に載っていた肉が、頭から離れない。

あれは食べ物ではない。

少し前まで、生きていた人だ。

歩いて、話して、笑っていたかもしれない。


「帰ってくるのを、待ってた人がいたんじゃないの?」

「姫様……。」

「私のお祝いのために、殺したの?」


レイの顔を見る。

いつもより表情が豊かになったと思っていたその顔は、今は何も映していなかった。

困っているようにも見える。

悲しんでいるようにも見える。

けれど、やはり私とは違う。


「私、食べちゃった……。」


両手で口を覆う。

何度拭っても、口の中に肉の味が残っている気がする。


「人間を、食べちゃった……。」


涙が止まらなかった。


私は魔族だ。

魔王の娘として生まれた。

頭には、お母さんと同じ羽が生えた。

みんなも、それを一人前の魔族になった証だと喜んでくれた。


けれど私は、人間を食べることを受け入れられない。

お兄ちゃんたちのように、獲物として狩ることもできない。

パパのように、当然のこととして扱うこともできない。

きっと、レイにも、どうして私がこんなに泣いているのか、本当の意味では分からない。


私には、人間だった頃の記憶がある。

人間が食べ物ではないことを知っている。

一人ひとりに名前があり、家族がいて、それぞれの人生を生きていることを知っている。


その記憶を持ったまま、魔族として生きていくなんてできるのだろうか。

これからも、人間を食べろと言われたら?

魔王の娘として、人間を殺さなければならなくなったら?

そのたびに、今日のように泣いて、吐いて、誰かに迷惑をかけるのだろうか。


それでは、魔族とは呼べない。


私は自分の頭に生えたばかりの羽へ手を伸ばした。

数時間前までは、お母さんと同じものが生えたことが、あんなに嬉しかったのに。

今はそれが、私が魔族であることを突きつけてくる印のように思えた。


「私……」


声が震える。

レイが、私の手を包んだまま静かに待っている。


「私、魔族にはなれない……」


口にした途端、胸の奥で何かが崩れた。

一人前の魔族になったと、みんなが喜んでくれたその日に。

私は初めて、自分が魔族になれないのだと知った。


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