10話:私は魔族になれない
あの日から、ほとんど食事が喉を通らなくなった。
何を口に入れても、あの肉の味を思い出してしまう。
焼いた魚も、煮込んだ野菜も、柔らかなパンも。
人間の肉とはまったく違うはずなのに、噛んでいるうちに、舌の上へあの味が蘇ってくる。
何度も噛んだ感触。
喉を通っていった肉の塊。
そして、シリウスお兄ちゃんの声。
――人間だよ。
思い出した途端、胃がひっくり返りそうになる。
結局、ひと口かふた口食べただけで、私は皿を遠ざけることしかできなかった。
「姫様。もう少しだけでも召し上がりませんか。」
レイが、心配そうに私の顔を覗き込む。
私は首を横に振った。
「いらない。」
「ですが、このままではお身体がもちません。」
「食べたくないの。」
そう答えると、レイはそれ以上何も言わなかった。
無理に口へ運ばせることもなく、残った料理を静かに下げさせる。
食事の時間が来るたび、同じことを繰り返した。
少し食べる。
気持ち悪くなる。
食べることをやめる。
日が経つにつれ、身体に力が入らなくなっていった。
寝台から起き上がるだけで息が切れる。
少し歩いただけで足が震える。
鏡に映る自分の顔も、前より白くなったように見えた。
頬は少しこけ、いつもは艶のある白い髪も、今では光を失ったようにくすんでいる。
それでも、食べる気にはなれなかった。
パパにも、お兄ちゃんたちにも会いたくない。
顔を見れば、あの日のことを思い出してしまう。
私を喜ばせようと笑っていた顔。
何の肉か当ててみてと、楽しそうに尋ねた声。
人間だと告げられたあとの、何もおかしいとは思っていない表情。
みんなが怖いわけではない。
嫌いになったわけでもない。
それでも、今は会いたくなかった。
だから私は、レイ以外の誰にも会わず、部屋に閉じこもっていた。
パパもお兄ちゃんたちも、何度か訪ねてきた。
けれど、そのたびにレイへ断ってもらった。
「今日は体調が優れないと伝えて。」
「承知いたしました。」
レイは一度も理由を尋ねなかった。
ただ、私が望んだとおりにしてくれた。
そんな日が、何日か続いた。
その日も、私は寝台の上で膝を抱えていた。
朝からほとんど何も口にしていない。
窓から差し込む光が眩しくて、厚いカーテンを半分ほど閉めてもらっていた。
部屋の中は静かだった。
レイはすぐそばに控え、私が読むことのできなかった本を棚へ戻している。
そのとき、扉の向こうから声が聞こえた。
「エリー。入るよ。」
レグルスお兄ちゃんの声だった。
「待って。」
身体が強張る。
けれど、私が止めるより早く、扉が開いた。
シリウスお兄ちゃんとレグルスお兄ちゃんが、揃って部屋へ入ってくる。
二人の後ろには、大きな蓋付きの皿を持った使用人が控えていた。
「どうしたの、それ。」
嫌な予感がした。
お兄ちゃんたちは、どこか期待するような顔で私を見る。
「エリーが、この前の肉を固いと言っていただろう。」
シリウスお兄ちゃんが言った。
「だから、今度はもっと食べやすいものを用意したんだ。」
「食べやすいもの……?」
レグルスお兄ちゃんが、使用人へ目配せをする。
皿が机の上へ置かれた。
銀の蓋が持ち上げられる。
そこには、薄く切り分けられた肉が並んでいた。
前のものより色が淡く、見るからに柔らかそうだった。
胃が、きゅっと締めつけられる。
「何の肉?」
自分でも分かるほど、声が震えていた。
お兄ちゃんたちは、少しだけ顔を見合わせた。
それから、レグルスお兄ちゃんが何でもないことのように答える。
「人間だよ。」
喉の奥が、ひゅっと狭まるような音を立てた。
「前のは少し年を取っていたから、肉が固かったんだと思う。」
シリウスお兄ちゃんが続ける。
「だから今回は、子供を狩ってきた。」
「柔らかくて、癖も少ないよ。」
レグルスお兄ちゃんが笑う。
「きっと、今度は食べやすいと思う。」
頭の中が真っ白になった。
子供。
私と同じくらいかもしれない。
もっと小さかったかもしれない。
泣いたかもしれない。
怖かったかもしれない。
お父さんやお母さんを呼んだかもしれない。
「なんで……。」
声が、震える。
「エリー?」
「なんで、そんなことができるの!?」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
お兄ちゃんたちが目を見開く。
「子供なんでしょ!?」
息が苦しい。
胸が痛い。
それでも、言葉が止まらなかった。
「その子だって、生きてたんでしょ!?家族だっていたかもしれないのに!」
「エリー、落ち着いて。」
「エリーだって子供なのに!!」
叫んだ途端、部屋の中が静まり返った。
シリウスお兄ちゃんとレグルスお兄ちゃんは、揃って不思議そうに私を見る。
どうしてそんなことを言われるのか、本当に分からないという顔だった。
「エリーは、人間じゃないだろ?」
頭を殴られたような衝撃だった。
そうだ。
私は人間ではない。
人間だった記憶があるだけで、今は魔族だ。
この人たちと同じ。
人間を狩り、食べる側の生き物。
「出てって。」
「エリー?」
「出てって!」
私は手近にあった枕を掴み、お兄ちゃんたちへ投げつけた。
枕は二人の手前へ落ちた。
力が入らず、まともに届きもしなかった。
それでも、もう一度叫ぶ。
「出てってよ!」
お兄ちゃんたちは動かなかった。
困ったように私を見るばかりだ。
「姫様は、まだ体調が戻っておられません。」
レイが、私とお兄ちゃんたちの間へ静かに立った。
「本日はお引き取りください。」
「でも、俺たちはエリーのために――」
「今は、お二人のお気持ちを受け止められる状態ではございません。」
レイの声は穏やかだった。
けれど、拒む意思ははっきりと伝わった。
シリウスお兄ちゃんは、しばらく私を見つめていた。
やがて、机の上の皿へ蓋を戻すよう使用人へ命じる。
「分かった。」
レグルスお兄ちゃんは、まだ何か言いたそうにしていた。
けれど、シリウスお兄ちゃんに腕を引かれ、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
私は寝台の上で、震える身体を抱きしめた。
「姫様。」
レイが私のそばへ戻ってくる。
私は顔を上げられなかった。
「レイも……。」
声が掠れる。
「レイも、私がおかしいと思ってるんでしょ……。」
人間の肉を見ただけで吐く。
子供を狩ったと聞いて怒る。
魔族なら、きっとおかしいのだ。
一人前になったばかりなのに、魔族として当たり前のことを受け入れられない。
「姫様。」
レイは寝台のそばに跪いた。
「私が以前申し上げたことを、覚えておられますか。」
「以前……?」
「姫様がお望みになれば、荒野は花畑となり、川の流れすら変えられるでしょう。」
聞き覚えのある言葉だった。
私が初めて街へ出かけた日。
魔王の娘という立場について、レイが教えてくれた。
「私だけではございません。魔王国に生きるすべての者が、姫様の御命令を果たすために力を尽くします。」
レイは真っ直ぐに私を見る。
「姫様のお言葉一つで、この国は動きます。」
「それが、どうしたの……。」
「食べたくないのであれば、食べなくてよいのです。」
あまりにも簡単に言われて、私は顔を上げた。
「でも、魔族は人間を食べるんでしょ。」
「姫様は、お召し上がりになる必要はございません。」
「そんなの……。」
私だけ特別扱いされるなんて、おかしい。
そう言おうとすると、レイは静かに続けた。
「姫様がお望みならば、魔族に『人間を狩るな。食べるな。』と命じることさえ可能です。」
「でも私は……。」
私は、人間を食べることを受け入れられない。
けれど、それが魔族にとって当たり前の文化なら、私の感覚だけで禁止していいとも思えなかった。
前世でも、肉を食べない主義の人たちが過激な主張や抗議を繰り返し、問題になっているというニュースを見たことがある。
私は、そういうことがしたいわけではない。
私が魔王の娘だからという理由で、国中の価値観を変えるなんて。
そんなことを望んでいるわけではなかった。
「はい。」
私が説明する前に、レイは小さく頷いた。
「姫様が、そこまでのことをお望みではないことは理解しております。」
私は口を閉じた。
レイの手が、私の手をそっと包む。
「それに比べれば、『人間を食べたくない』という願いなど、ほんのちっぽけなわがままでございます。」
「わがまま……。」
「はい。」
責めるような言い方ではなかった。
むしろ、そんなことくらい好きにしていいのだと、許してくれているようだった。
「わがままを言っても、いいの?」
「姫様は、もっと仰ってもよいくらいです。」
レイの口元が、ほんの僅かに緩む。
「何を召し上がり、何を召し上がらないか。その程度のことまで、他者に決められる必要はございません。」
胸の奥に張りつめていたものが、少しだけ緩んだ。
「人間を、食べなくてもいいの?」
「もちろんでございます。」
「ずっと?」
「姫様がお望みになる限り。」
その言葉に、涙が零れた。
今度の涙は、怖さや気持ち悪さだけではなかった。
少しだけ、安心した。
「では、まずは姫様がお召し上がりになれるものを探しましょう。」
レイが言った。
「肉でなくても構いません。果物でも、パンでも、スープでも。ひと口ずつでよいのです。」
「また気持ち悪くなったら?」
「そのときは、やめればよいのです。」
「怒らない?」
「誰が姫様を怒るというのですか。」
レイは、本当に分からないというように首を傾げた。
その姿を見て、私は少しだけ笑った。
笑ったのは、あの日以来初めてだった。
◇ ◇ ◇
「姫様は、大変混乱しておられます。」
レイモンドは、魔王の執務室で静かに告げた。
オズヴァルトの前には、シリウスとレグルスも並んでいる。
二人とも、普段より沈んだ顔をしていた。
「人間という知性を持った生物を食べることに、強い拒絶反応がおありのようです。」
「たしかに人間にも知性はあるけど……。」
レグルスが困ったように眉を寄せる。
「だからといって、食べられないほどかな?」
「姫様は、食事の前に『いただきます』という言葉をお使いになります。」
レイモンドが続けた。
「命をいただくことへの感謝を表す言葉だと、以前教えてくださいました。」
オズヴァルトが僅かに目を細める。
「エレオノーラは、命そのものに強い敬意を持っているということか。」
「はい。そのように思われます。」
「エリーは優しいし、繊細だからな……。」
シリウスが呟く。
レグルスも、小さく頷いた。
「俺たちの配慮が足りなかったのかもしれない。」
二人は、エレオノーラを喜ばせたかった。
前の肉が固かったと言われたから、今度は柔らかいものを用意した。
ただ、それだけだった。
嫌がらせをするつもりなど、少しもなかった。
「成長されるにつれ、召し上がれるようになる可能性もございます。」
レイモンドが言う。
「確かに。」
レグルスが少しだけ表情を明るくした。
「俺も子供の頃は、ピーマンが嫌いだったし。」
「今も嫌いだろう。」
シリウスが冷静に指摘する。
「昔よりは食べられる。」
「避けているのを何度も見たぞ。」
「今は、その話をしているんじゃない。」
二人のやり取りを聞き、オズヴァルトは小さく息を吐いた。
「今は、エレオノーラが食事を取れないことの方が問題です。」
レイモンドの言葉に、室内が再び静かになる。
「無理に人間を食べさせるのではなく、まずは安心して食事ができるようにすることが第一かと。」
「確かにそうだな。」
オズヴァルトは頷いた。
「人間を食べなければ、成長できないわけではない。」
「はい。」
「今後、エレオノーラの食事に人肉を使うことを禁ずる。」
レイモンドは深く頭を下げた。
「御意。」
◇ ◇ ◇
その日の夜。
久しぶりに、パパとお兄ちゃんたちが私の部屋へやって来た。
私は寝台の上に座り、少し緊張しながら三人を見る。
パパは、私の前まで来ると膝を折った。
「エレオノーラ。」
「……なに?」
「すまなかった。」
思いもしなかった言葉に、目を見開く。
「お前が、人間を食べることをそれほど嫌がるとは思いもしなかった。」
パパは、いつになく真剣な顔をしていた。
「今後、お前の食事に人間を使うことはない。」
「本当?」
「ああ。無理に食べさせることもしない。」
シリウスお兄ちゃんも、申し訳なさそうに私を見る。
「ごめん、エリー。喜ぶと思ったんだ。」
「もう、無理に食べさせたりしないよ。」
レグルスお兄ちゃんが続ける。
「そうだよ。そのうち食べられるようになるかもしれないし。」
そのうち、食べられるようになる。
やっぱり、みんなはそう思っているのだ。
今はまだ幼いから。
慣れていないから。
好き嫌いのようなものだから。
大きくなれば、いつか人間を食べられるようになる。
そう信じている。
「……うん。」
私は、それ以上何も言わなかった。
パパもお兄ちゃんたちも、私を理解しようとしてくれた。
人間を食べたくないというわがままも、許してくれた。
それは嬉しかった。
愛されていることも分かっている。
けれど、やはり私たちは違う。
私は、人間を食べられるようにはならない。
きっと、何年経っても。
何百年経っても。
この城で暮らしていれば、いつかまた同じことが起こるかもしれない。
魔王の娘として、人間を狩るよう命じられる日が来るかもしれない。
戦えと言われるかもしれない。
殺せと言われるかもしれない。
そのとき、私はどうするのだろう。
家族を選ぶのか。
人間だった頃の心を選ぶのか。
今の私には、まだ分からない。
ただ一つだけ、はっきりしている。
私は、このままずっとここにはいられない。
いつか、この城を出なければならないのかもしれない。
このとき初めて、その考えが私の中に芽生えた。




