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11話:食べるということ

あの日から、少しずつ食事を取れるようになった。


最初に口にできたのは、薄く切った果物だった。

甘い香りがして、噛むと柔らかな果汁が口の中に広がる。

肉のような感触はなく、喉を通るときも、あの日のことを思い出さずに済んだ。


次は、具の入っていないスープ。

その次は、柔らかく煮込んだ野菜。

少しずつ、本当に少しずつだった。


「今日は、パンもひと口召し上がれましたね。」


レイが嬉しそうに言う。


「うん。」


私は小さく頷いた。


以前なら、パンをひとつ食べ終えることなど何でもなかった。

けれど今は、たったひと口でも食べられたことが嬉しい。


気持ち悪くなれば、やめてもいい。

無理に食べなくても、誰にも怒られない。


そう思えるだけで、食事の時間は少しずつ怖いものではなくなっていった。


パパとお兄ちゃんたちも、できる限り私と一緒に食事を取るようになった。

もちろん、食卓に人間の肉が並ぶことはない。


私が食べられそうなものを、料理人たちが毎日少しずつ用意してくれる。


果物。

野菜。

卵。

魚。

柔らかなパン。


私がひと口食べるたび、お兄ちゃんたちは何も言わずにこちらを見ていた。

見られていることに気付いて顔を上げると、二人は慌てて視線を逸らした。


心配しているのだろう。


それでも、あの日のことを謝ってから、お兄ちゃんたちは人間の話をしなくなった。

仲直りはしたけれど、どこか距離ができてしまった気がする。

それが寂しくて。

けれど同時に、少しだけ安心した。


「いただきます。」


私が手を合わせると、パパとお兄ちゃんたちも続いて手を合わせた。


「いただきます。」


きっと、私の言葉遊びに付き合ってくれているだけなのだろう。

でも、もう誰も不思議そうな顔をしない。


あの日まで当たり前に使っていた言葉が、今は以前とは少し違って聞こえる。


食べ物を作ってくれた人へ。

ここまで運んでくれた人へ。

そして、私が食べることで失われた命へ。


私は目の前の野菜を見つめた。


これは、どこで育ったものなのだろう。


誰が種を蒔いて。

誰が水を与えて。

どれくらいの時間をかけて、ここまで大きくなったのだろう。


今まで、そんなことを考えたことはなかった。


料理は、いつも当たり前のように目の前へ運ばれてきた。

お腹が空けば食べて、美味しければ喜ぶ。

それだけだった。


けれど、食べ物は最初から皿の上にあるわけではない。


「ねぇ、パパ。」


私が声をかけると、パパは食事の手を止めた。


「どうした。」

「この野菜って、どこで作ってるの?」


パパは一度、目の前の皿へ視線を落とした。


「城の外にある農園だ。」

「農園?」

「ああ。城で使う野菜や果物の多くは、そこで育てている。」


私は目を輝かせた。


「見に行きたい!」


パパが僅かに眉を動かす。


「農園をか?」

「うん。どうやって食べ物を作ってるのか、見てみたい。」


パパはしばらく私を見つめた。


「……体調が戻ってからだ。」

「本当?」

「ああ。」


思わず顔が明るくなる。


「やった!」

「ただし、無理はするな。」

「うん!」


私は大きく頷き、もう一度目の前の食事へ向き直った。

農園へ行くためにも、まずは元気にならなくてはいけない。

そう思うと、さっきまで少し重く感じていたパンも、もうひと口だけ食べてみようと思えた。


◇ ◇ ◇


それから数日後。


少しずつ食事を取れるようになったおかげで、寝台から起き上がるだけで息が切れることはなくなった。

まだ以前のように走り回ることはできないけれど、部屋の中を歩くくらいなら問題ない。


そして今日、ようやく農園へ連れて行ってもらえることになった。


「農園へ行くなら、動きやすい服の方がいいよね。」


朝の支度をしながら、私は鏡の中の自分を見つめた。


いつも着ているのは、裾の広がったドレスばかりだ。

庭を歩く程度なら問題ないけれど、畑の中へ入れば泥で汚れてしまうだろう。

長い裾を踏んで転ぶかもしれない。


「ズボンってないの?」


私が尋ねると、メイドたちは顔を見合わせた。


「姫様がお召しになるものは、ご用意しておりません。」

「一つも?」

「はい。」


そういえば、私は生まれてから一度もズボンを穿いたことがない。

前世では当たり前に穿いていたのに、この世界では女の子はドレスやスカートを着るものらしい。


「それなら、お兄ちゃんたちに借りよう。」


思いついた私は、すぐに部屋を飛び出そうとした。


「姫様。廊下を走ってはいけません。」

「あっ。」


レイに止められ、仕方なく歩いてお兄ちゃんたちの部屋へ向かった。


扉を叩くと、中からレグルスお兄ちゃんの声がする。


「どうぞ。」


部屋へ入ると、二人は揃って机に向かっていた。

私の姿を見るなり、レグルスお兄ちゃんが椅子から立ち上がる。


「エリー、どうした?」

「ズボン貸して!」


二人が同時に瞬きをした。


「ズボン?」

「うん。今日、農園へ行くの。でもエリー、ドレスしか持ってないから。」


シリウスお兄ちゃんは少し考えたあと、立ち上がった。


「昔の服なら残っているかもしれない。」

「本当?」

「ああ。」


使用人に確認してもらうと、二人が幼い頃に着ていた服がいくつか残されていた。

その中から、今の私でも穿けそうなズボンを持ってきてもらう。


けれど、実際に合わせてみると、裾がかなり余ってしまった。


「お兄ちゃんたち、五歳の頃からこんなに大きかったの?」

「エリーが小さいんじゃないか?」

「むぅ。」


レグルスお兄ちゃんが笑いながら、長い裾を折り返してくれる。


「これなら大丈夫かな。」

「少し大きいが、動く分には問題ないだろう。」


上には白いシャツと、濃い色の上着を合わせてもらった。

鏡の前に立つと、いつもの自分とはまるで違って見える。


「なんだか、お兄ちゃんみたい。」


私が嬉しくなってくるりと回ると、二人は満足そうに頷いた。


「似合ってるよ。」

「ああ。ドレスより動きやすそうだ。」


レグルスお兄ちゃんが、私の頭を軽く撫でる。


「汚れても気にしなくていいから、いっぱい見ておいで。」

「うん!」


私は大きく頷いた。


少し前まで、お兄ちゃんたちとの間には見えない壁があるように感じていた。

けれど、こうしていると、ほんの少しだけ以前に戻れたような気がした。


お兄ちゃんたちに見送られ、私はレイとともに城の玄関へ向かった。

外には、すでに農園へ向かう馬車が用意されている。


久しぶりの外出が嬉しくて足早に近づく私とは対照的に、レイはどこか落ち着かない様子だった。


「本当に大丈夫ですか。」


馬車へ乗り込む前から、レイは何度も私の顔色を確かめている。


「大丈夫だよ。」

「少しでも気分が悪くなりましたら、すぐにお申し付けください。」

「分かったってば。」


そう答えても、レイの表情から心配の色は消えなかった。


以前、初めて街へ出かけたときと同じように、私はレイと向かい合って馬車へ乗る。

ただ、あのときとは違い、今日は窓へ身を乗り出すこともなく、大人しく座っていた。


体力が戻りきっていないことは、自分でも分かっている。

農園へ着く前に疲れてしまっては意味がない。


馬車は城を出ると、街とは反対の道へ進んでいった。

石畳だった道は、やがて土の道へ変わる。

窓の外には建物が少なくなり、代わりに低い草や、見たことのない植物が広がり始めた。


窓の外へ目を向ける。


「わぁ……。」


思っていたよりも、ずっと広い。


どこまでも続く畑には、色も形も違う植物が整然と並んでいる。

大きな葉を広げたもの。

地面を這うように蔓を伸ばしたもの。

背丈よりも高く育ち、先端に赤い実をつけているものまである。


畑の間では、何人もの魔族が働いていた。


けれど、前世で見た農作業とは少し違う。


鍬を振るっている人もいるけれど、その隣では、地面へ手をかざしている人がいた。

淡い光が土の上を走る。

すると、硬そうだった土がひとりでにほぐれ、畝の形へ盛り上がっていった。

別の場所では、空中に浮かんだ水の塊が細かな雨となり、畑全体へ降り注いでいる。


「魔法だ。」


思わず呟いた。


「はい。」


レイが先に馬車を降り、私へ手を差し伸べる。


「この農園では、作物を育てるために様々な魔法が使われております。」


私はレイの手を握り、ゆっくりと地面へ降りた。


土の匂いがする。

湿った空気と、青い葉の香り。

城の中では嗅いだことのない匂いだった。


私たちが到着したことに気付いたのか、近くで作業をしていた魔族が慌てて駆け寄ってきた。


背の低い、丸い体つきの男性だった。

頭には短い角があり、土で汚れた服を着ている。


「お待ちしておりました。」


男性は深く頭を下げた。


「こちらの農園を管理しております、バルトと申します。」

「エレオノーラです。」


私も頭を下げようとすると、レイがそっと肩へ手を添えた。


「姫様。」

「あっ。」


そうだった。

私は王族だから、簡単に頭を下げてはいけない。

街で教えてもらったことを、すっかり忘れていた。


「今日は、よろしくお願いします。」

「もったいなきお言葉でございます。」


バルトはもう一度深く頭を下げた。


「姫様が農園へお越しになると伺い、皆、朝から落ち着かない様子でして。」

「どうして?」

「魔王家の方が、こうして畑へ足を運ばれることは滅多にございませんので。」


そう言われ、辺りを見回す。


遠くで働いている人たちも、ちらちらとこちらを見ていた。

目が合うと、慌てて作業へ戻っていく。


なんだか少し居心地が悪い。


私は偉そうに視察をしに来たわけではない。

ただ、食べ物がどうやって作られているのか知りたかっただけだ。


「いつも通りにしてていいよ。」


私がそう言うと、バルトは少し困ったようにレイを見た。

レイは静かに頷く。


「姫様は、皆様のお仕事をご覧になりたいとお考えです。過度なお気遣いは不要です。」

「かしこまりました。」


ようやく少しだけ空気が和らいだ。


バルトに案内され、畑の中を歩いていく。


「これは何?」


私は、大きな葉の下に実っている紫色の実を指差した。


「煮込み料理などに使われる野菜でございます。」

「昨日のスープに入ってた?」

「おそらく、こちらのものでしょう。」


私はしゃがみ込み、実を近くから眺めた。


紫色のつるつるとした皮。

ナスに似ているが、形はトマトのように丸い。

皿の上ではいつも一口大に切られていたから、元がこんな形だとは知らなかった。


「これは、どれくらいで大きくなるの?」

「通常であれば、種を蒔いてから収穫まで三か月ほどかかります。」

「三か月も?」

「はい。ただし、成長を促す魔法を使えば、ひと月ほどまで縮めることができます。」


私は目を丸くした。


「そんなに早くなるの?」

「魔力を多く使いますので、すべての畑で行えるわけではございませんが。」


バルトは、広い農園を見渡した。


「一般の魔族が持つ魔力には限りがございます。すべての畑へ成長を促す魔法をかけ、水を与え、土を耕すところまで魔法だけで賄うのは現実的ではございません。」

「じゃあ、魔法だけで育ててるわけじゃないんだ。」

「はい。基本は我々の手で育て、必要なところだけ魔法で補っております。」


バルトは近くの畑へ手を向けた。


そこでは、一人の女性が両手を地面へかざしていた。

淡い緑色の光が畑全体へ広がっていく。

光に包まれた芽が、目に見えるほどゆっくりと葉を伸ばした。


「すごい……。」


植物がリアルタイムで成長するところを初めて見た。

まるで録画を早送りで再生したみたいだ。


前世でも、植物は生きていると知っていた。

けれど、その変化はゆっくりすぎて、普段は意識することがなかった。


今は違う。

小さな芽が光へ向かって葉を広げていく姿が、はっきりと見える。


「レイもできる?」


私が尋ねると、レイは小さく頷いた。


「できないことはございません。」

「じゃあ、レイも畑で使うの?」

「いいえ。使うことはほとんどございません。」


私は首を傾げた。


「どうして?」

「貴族に生まれた魔族は、一般の魔族よりも強大な魔力を持っております。」


レイは、畑で働く魔族たちへ視線を向けた。


「その力は、国や民を守るため、戦いに用いるものとされているのです。」

「野菜を育てるために使ったら駄目なの?」

「禁じられているわけではございません。ただ、そのように使おうと考える貴族は、ほとんどおりません。」


なるほど。

魔力の少ない者は、日々の暮らしや畑仕事に。

強大な魔力を持つ貴族は、国を守るための戦いに。

この国では、それぞれが得意な役目を担っているらしい。


「私は、できるようになりたい。」


思わず、そう口にしていた。


レイが私を見る。


「野菜を育てる魔法を、でございますか?」

「うん。」


水を与えて。

土を耕して。

小さな芽を、大きく育てる。


戦うためではなく、生きるために使う魔法。


「私も、自分で食べ物を育てられるようになりたい。」


レイはしばらく黙っていた。

けれど、否定はしなかった。


「姫様がお望みであれば、学ぶことは可能かと。」

「本当?」

「はい。ただし、まずは魔法の基礎からでございます。」


私は大きく頷いた。


「じゃあ、早く元気にならなきゃね。」


胸が高鳴った。


もし、私にも魔法が使えるようになったら。


水を出すことができるかもしれない。

土を耕すことができるかもしれない。

植物を育てることができるかもしれない。

自分で食べ物を作れるかもしれない。


もし、いつかこの城を出ることになっても。

魔法が使えれば、自分一人でも生きていけるかもしれない。


私は無意識に、畑の土を見つめていた。


「姫様?」


レイに呼ばれ、慌てて顔を上げる。


「どうかなさいましたか。」

「ううん。」


私は首を横に振った。


今は、まだ言えない。

いつか城を出るかもしれないなんて。

そんなことを話せば、きっとみんなを悲しませる。


「魔法、早く習いたいなって思っただけ。」


そう答えると、レイは少しだけ目を細めた。


「体調が戻りましたら、陛下へご相談なさってはいかがでしょうか。」

「うん!」


私は大きく頷いた。


その後、バルトに教えてもらいながら、収穫の手伝いをさせてもらうことになった。


「こちらは、根元を持って真っ直ぐ引いてください。」


言われた通り、葉の付け根を両手で掴む。

力を込めて引くと、土の中から白く長い根菜が姿を現した。


「取れた!」


思わず声を上げる。


手の中には、さっきまで土の中で育っていた野菜がある。

土がついていて、少しひんやりしていた。


「こちらは、本日の夕食にお出しするよう、料理人へ渡しておきましょうか。」

「本当?」

「はい。姫様が収穫なさったものですから、料理人たちも喜ぶでしょう。」


私は収穫した野菜を、用意された籠の中へ大切に入れた。


今まで、食べ物はいつも皿の上へ運ばれてくるものだった。

けれど今日は、自分の手で土から引き抜いた。


誰かが種を蒔き。

水を与え。

育つまで見守り。

こうして収穫して、ようやく料理になる。


「今日のご飯、楽しみ。」


そう呟くと、レイが柔らかく微笑んだ。


「きっと、いつもより美味しく感じられますよ。」


私は籠の中の野菜を見つめながら、大きく頷いた。


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