3話:魔石
時は流れ、二歳。
メイドさんや家族の献身的なお世話もあり、私はすっかりお喋りになっていた。
初めて話した言葉は「パパ」。
お父さん?
お父様?
父上?
いろいろ悩んだものの、一番しっくりきたのが「パパ」だった。
ちなみに、お兄ちゃんたちは「父上」と呼んでいる。
初めて「パパ」と呼んだ日、パパは相変わらずほとんど表情を変えなかった。
……いやいや。
こんなに可愛い娘が「パパ」って呼んであげたんだから、嬉しいに決まってるでしょ。
素直に喜べばいいのに。
でも、その日は何度も抱っこされ、そのたびに、
「パパ。」
「……もう一度。」
「パパ。」
「……そうか。」
を繰り返すことになった。
……絶対嬉しかったんだ、この人。
そんなある日。
何気なく首の後ろを触っていると、硬いものがあることに気付いた。
「……?」
表面はひんやりとしていて、つるつるとした石のような感触。
けれど、しばらく触れていると、まるで生き物のように、その奥からかすかな熱を感じた。
気になった私は、首の後ろを確認しようと鏡を持ち出して悪戦苦闘する。
椅子に登り。
鏡の角度を変え。
何度も首を伸ばして――
ようやく見えたそれは、アメジストとルビーを混ぜたような、不思議な色をした宝石だった。
目を凝らすと、その奥で何かがゆらりと揺らめいているようにも見える。
(きれい……。)
その後、周りを観察してみると、パパも、お兄ちゃんたちも、メイドさんたちも。
みんな首の後ろに同じような宝石があることに気付いた。
普段は髪や服に隠れていて、ほとんど見えないだけらしい。
私はパパの服をちょんちょんと引っ張る。
「パパ。」
「どうした。」
「これ、なぁに?」
首の後ろを指差すと、パパは私を抱き上げた。
「それは魔石だ。」
「まーせき?」
「ああ。」
パパは静かに頷く。
「魔族にとって、とても大切なものだ。」
「だいじ?」
「ああ。」
そして少しだけ真剣な声になった。
「だから、自分であまり触ってはいけない。」
「どうして?」
「傷つけてはいけないからだ。」
私は首を傾げる。
石なのに?
そんな私を見て、パパは小さく息を吐いた。
「……もっとも、そう簡単に傷つくものでもない。」
「そっか!」
私は深く考えることもなく頷いた。
大事な石。
それくらいの認識だった。
◇ ◇ ◇
そんなこんなで、私はすくすく育ち、三歳になった。
毎日、広い魔王城を走り回って遊ぶのが日課だ。
「姫様、お待ちください!」
今日もメイドさんたちが慌てて追い掛けてくる。
「やだー!」
私は笑いながら廊下を駆け抜けた。
魔族と一口に言っても、その力はみんな同じではない。
王族や貴族は、生まれながらに強大な魔力と優れた身体能力を持つ。
メイドさんたちのような奉仕種族も魔法は使えるけれど、王族とは生まれ持った魔力や身体能力に大きな差があるらしい。
私はまだ三歳だけれど、その恩恵はしっかり受けているようだ。
気付けば、後ろから聞こえていたメイドさんたちの声はすっかり遠ざかっていた。
「よーし!」
角を曲がると、前からシリウスとレグルスが歩いてくる。
「エリー。」
シリウスは私をひょいと抱き上げた。
「もう!下ろしてー!」
足をばたばたさせる私を見て、レグルスが小さく笑う。
「あんまりはしゃぐな。」
「そうだよ。怪我したら大変だぞ。」
私は頬を膨らませた。
「パパも忙しいし、お兄ちゃんたちだって遊んでくれないじゃん! エリー、退屈なの!」
レグルスは少し困ったように呟く。
「本当はもっと遊んであげたいんだけどね。」
シリウスも頷いた。
「でも、魔法の訓練も勉強もあるんだ。」
「うー……。」
二人が言っていることはよく分かる。
魔王の息子であるお兄ちゃんたちは、将来この国を支えるため、毎日魔法の訓練や勉強に追われている。
それでも。
遊び盛りの三歳児には退屈なのだ。
前世みたいにゲームや漫画があるわけでもないし、暇を潰すにも限界がある。
だから毎日、新しい遊びを探している。
「じゃあ、お庭で遊んでくるー!」
私はシリウスの腕からするりと抜け出し、そのまま走り出した。
「エリー!」
「気を付けるんだぞ!」
兄たちの声を背中で聞きながら、私は庭へ飛び出す。
そこには、お気に入りの大きな木が立っていた。
最近のマイブームは木登りだ。
前世では、お世辞にも運動神経が良いとは言えなかった。
というより、かなりどんくさかった。
木登りなんて、挑戦しようと思ったことすらない。
でも今の私は違う。
枝を掴み、軽々と身体を持ち上げる。
一歩。
また一歩。
するすると木の上へ登っていく。
(運動神経、最高!)
庭にあるそれなりに大きな木だけれど、広大な庭の端までは見渡せない。
魔王城全体の姿も見えない。
一体どこまでがお城の敷地なんだろう。
まだ魔王城の外へ出たことがない私は、魔族の国がどれほど広いのか想像もつかなかった。
ふと空を見上げる。
黒い怪鳥が悠々と空を旋回していた。
前世では見たこともない景色だ。
「すごい……。」
今度は城の方へ目を向ける。
あの辺が、パパのお仕事部屋だったはず。
目を凝らすと、窓辺に人影が見えた。
「あっ、パパ!」
思わず大きく手を振ろうとした、その瞬間。
つるっ。
足を掛けていた枝が滑った。
「あ……。」
身体が宙へ投げ出される。
胃がふわりと浮くような感覚。
視界がぐるりと回転し、青空と木々と芝生が目まぐるしく入れ替わる。
地面が目の前まで迫る。
頭から落ちる――。
「「エリー!!」」
聞いたこともないほど大きな声が響く。
兄たちの声が重なった。
先ほどまで廊下にいたはずのシリウスとレグルスが、ほとんど同時に私へ駆け寄る。
二人が地面を蹴った瞬間、小さなクレーターが生まれ、砂埃が舞い上がる。
到底間に合うはずのない距離。
それなのに、次の瞬間には二人の腕が私を抱き留めていた。
勢いを殺しきれず、そのまま芝生の上を何度も転がる。
ごろ、ごろ、ごろっ。
ようやく止まると、私を抱えたままシリウスとレグルスは勢いよく身体を起こした。
「魔石は!?」
「傷はないか!」
二人は真っ先に私の首の後ろを確認する。
「だ、大丈夫……?」
何が起きたのか分からず、私はただ目をぱちぱちと瞬かせるしかなかった。
その時だった。
「エレオノーラ!」
庭へ駆け込んできたのは、パパだった。
普段は落ち着き払っているその声が、今はわずかに震えている。
「パパ……?」
パパは私をそっと抱き寄せると、真っ先に首の後ろへ手を添えた。
魔石を確認しているのだろう。
しばらく黙っていたパパは、小さく息を吐く。
「……無事だ。」
その一言で、シリウスとレグルスもようやく肩の力を抜いた。
少し遅れてメイドさんたちも庭へ駆け付ける。
その瞬間、全員が地面へ伏せるように頭を下げた。
首筋が露わになり、隠されていた魔石が見える。
「申し訳ございません、陛下。姫様をお止めできませんでした。」
パパは静かに首を横へ振る。
「いい。責めるつもりはない。」
短くそう言うと、私を抱き上げたまま城の中へ歩き始めた。
私は抱っこされたまま、パパとお兄ちゃんたちの顔を見比べる。
みんな、ひどく真剣な様子だった。
……いや。
表情はいつもとほとんど変わらない。
それでも、今だけは空気がいつもと違うことだけは分かった。
部屋へ戻ると、私はソファへ座らされた。
温かい飲み物が運ばれてくる。
もちろん私の前には、果汁を薄めたジュースだ。
部屋には静かな空気が流れていた。
その沈黙を破ったのは、レグルスだった。
「父上。もう、エリーに話してもいいんじゃないか。」
パパは静かにレグルスを見る。
「年齢の割に理解も早いし、好奇心も強い。今日みたいなことがまた起きるかもしれないじゃん。」
シリウスも静かに頷いた。
「知っていた方が、自分でも気を付けられる。」
部屋に短い沈黙が流れる。
やがてパパは、小さく頷いた。
「……そうだな。」
パパは私の前にしゃがみ込み、目線を合わせる。
「エレオノーラ。」
「うん。」
「以前、魔石は大切なものだと話したな。」
「うん。」
私は首の後ろを指差した。
「これ。」
「ああ。」
パパはゆっくりと言葉を選びながら話し始める。
「魔石は、魔族にとって命そのものだ。」
私は首を傾げた。
「命?」
「そうだ。命の源だ。」
「だから、魔石が砕かれれば命を落とす。」
……なるほど。
人間でいう心臓みたいなものか。
私は思わず首の後ろへ手を伸ばす。
パパはその手を優しく包み込み、そっと下ろした。
「怖がる必要はない。」
「魔石は非常に硬い。普通に生活しているだけで傷付くことはまずない。今日も、お兄ちゃんたちが助けてくれたから無事だった。」
私はシリウスとレグルスを見る。
二人は何も言わず、小さく頷いた。
「それから、もう一つ。」
パパは穏やかな声で続ける。
「魔石は普段、他人へ見せるものではない。」
「どうして?」
「魔石を晒すということは、自分の命を相手へ委ねることだからだ。」
私はきょとんと首を傾げる。
パパは静かに説明を続けた。
「魔族にとって、それは『私はあなたを信用しています』『敵意はありません』『降伏します』という意思表示になる。」
その言葉を聞いた瞬間、さっきの光景が頭に浮かんだ。
メイドさんたちはパパの前で地面に伏せるように頭を下げ、首筋を晒していた。
あれはただの謝罪の作法ではなく、魔石を晒すことで、自分に悪意がないことを示していたのか。
しばらく考え込んでいると、レグルスが穏やかな声で口を開いた。
「家族は別だけどね。家族同士なら、お互いを信頼しているのは当たり前だから。」
続いてシリウスが静かに言葉を継ぐ。
「でも、それ以外の相手には簡単に見せては駄目だ。特に俺たちは王族。魔族の頂点に立つ者だから軽々しく他者に服従の意思を示すわけにはいかない。」
「そういうことだ。」
パパも小さく頷いた。
「エレオノーラ。お前はまだ幼い。だから今すぐ全てを理解する必要はない。だが、自分の魔石だけは、何があっても守りなさい。」
私はそっと首の後ろへ手を当てた。
さっきまで、ただ綺麗な宝石だと思っていた。
でも違う。
これは私の命。
そして、魔族みんなの命でもある。
「……うん。」
私は真剣に頷いた。
「ちゃんと気を付ける。」
その言葉を聞いたパパは、ようやく安心したように小さく息を吐いた。
その日の夕方。
部屋へ戻る途中、私はもう一度だけ庭の大きな木を見上げる。
木登りは、しばらく禁止になるだろうな……。
少しだけ残念に思いながらも、私はパパに抱っこされたまま部屋へ戻った。
パパの腕は、いつもより少しだけ強く私を抱きしめていた。




