一音だけ
翌日、放課後。
辰哉は教室で帰る準備をしていた。
「昨日は見学しただけだ。今日は帰ろう。」
そう思って席を立つと――。
奈美「木谷!」
辰哉「また?」
奈美「また。」
神威「今日は逃がさない。」
辰哉「人聞き悪いな……。」
名寄「見学の続きをしよう。」
三人に連れられ、辰哉は再び軽音楽部の部室へ向かった。
部室の扉を開ける。
藍「こんにちは。」
狛似「木谷、今日も来たな!」
辰哉「お、お邪魔します。」
萌野先生は椅子に座り、ギターを磨いていた。
萌野先生「おっ、いらっしゃい。」
辰哉「こんにちは。」
部室では、それぞれが自由に練習をしている。
奈美は歌い、名寄はギターを弾き、藍は静かに鍵盤を鳴らす。
狛似のドラムに合わせて、神威は今日も楽しそうにボンゴを叩いていた。
萌野先生「神威。」
神威「はい!」
萌野先生「ボンゴの音、大きすぎ。」
神威「気持ちが乗っちゃいました!」
部室中が笑いに包まれる。
辰哉も思わず吹き出した。
辰哉「ふっ……。」
奈美「今、笑った!」
辰哉「違うって。」
その時だった。
萌野先生が部室の隅から一本のベースを持ってくる。
萌野先生「木谷。」
辰哉「はい。」
萌野先生「今日は弾けとは言わない。」
辰哉は静かにベースを見つめる。
萌野先生「でも、一音だけ鳴らしてみないか。」
辰哉「一音……。」
萌野先生「それだけでいい。」
部室が静かになる。
奈美たちも何も言わない。
辰哉はゆっくりとベースを受け取った。
懐かしい重さ。
左手をネックに添え、右手で弦に触れる。
指先が震える。
父と一緒に練習した日々。
家族で笑っていた時間。
彩が「辰哉、上手くなったね」と笑ってくれた日のこと。
いろいろな思い出が頭をよぎる。
辰哉は目を閉じ、小さく息を吸った。
ポーン――。
低く、優しい音が部室に響いた。
誰も拍手をしない。
誰も騒がない。
ただ、その一音を静かに聞いていた。
辰哉はゆっくりと目を開ける。
辰哉「……弾けた。」
萌野先生「ああ。」
奈美「いい音だった。」
名寄「ベース、似合うじゃん。」
藍「また聴きたい。」
狛似「今度は一緒に合わせよう!」
神威が勢いよく前へ出る。
神威「じゃあ俺はボンゴソロ!」
全員「それはまだ早い!」
神威は肩を落とした。
神威「なんでだよー!」
部室は笑い声に包まれる。
その笑い声を聞きながら、辰哉はもう一度ベースを見つめた。
辰哉(心の声)
「音楽は、まだ怖い。」
「でも……もう少しだけ、この場所にいてみようかな。」
その日、辰哉は軽音楽部の部室を出るとき、自分からこう言った。
辰哉「また……来てもいいですか。」
萌野先生は優しく笑った。
萌野先生「もちろん。軽音楽部は、いつでも歓迎だ。」
辰哉は小さくうなずいた。
それは、彼が再び音楽と向き合い始めた、小さくて大きな第一歩だった。




