第3話:動物への愛情と、白いネズミの再会
『ヒヒィィィィンッ!!!!』
狂乱したブラッドホースの蹄が、激しく地面を穿つ。
巻き上がる土煙の中、村人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた。
誰もが背を向けて逃げ出す地獄絵図。
だが、その中で唯一人、俺だけが暴れ狂う魔獣に向かって真っ直ぐに歩みを進めていた。
「おい、若者!? そっちに行ったら踏み潰されるぞ! 戻れ!!」
後ろから、さっきの農夫さんの悲痛な叫びが聞こえる。
しかし、俺の足は止まらない。
昔から動物が好きで、その一挙手一投足をずっと観察し続けてきた。
だからこそ、目の前で大暴れしているブラッドホースの動きに、ハッキリとした違和感を覚えていた。
「……怒っているんじゃない」
俺の目は、ブラッドホースの凶暴な赤眼ではなく、その『左後ろ脚』に釘付けになっていた。
「あれは、痛くて暴れてるだけだ。どこか悪いところがあるんだ」
よく見れば、太い脚の付け根に、どす黒く変色した巨大な毒虫の針が深く突き刺さっている。
あれだけの巨躯だ。激痛に耐えかねてパニックを起こし、助けを求めて暴れているに違いない。
『痛い、痛い、熱い! 誰か、これを抜いてくれ……!!』
耳を澄ませば、魔獣の悲痛な叫びが、俺の頭に直接流れ込んでくる。
動物のしてほしいことが直感でわかるこの体質。異世界に来ても、それは変わっていなかった。
『グルルルァァァッ!!』
俺の接近に気づいたブラッドホースが、血走った目でこちらを睨みつける。
山のような巨体が、俺を踏み潰そうと前足を高く振り上げた。
村人たちの短い悲鳴が響く。
だが、俺は驚くほど冷静だった。
「大丈夫だ。怖がらなくていい」
正面からゆっくりと、しかし一切の敵意を捨てて、俺は魔獣の懐へとスッと踏み込んだ。
自分では全く無自覚だったが、この時の俺の佇まいは、まるで陽だまりのように穏やかで、一切のトゲがない空気感をまとっていた。
振り下ろされる巨躯。その絶妙な隙間を縫うようにして、俺は魔獣の首筋へと優しく手を添える。
「痛かったな。よく耐えた。今、抜いてやるからな」
その瞬間、ブラッドホースの動きがピタリと止まった。
触れた手のひらから伝わる温もりに、魔獣のピリピリとした警戒心が嘘のように凪いでいく。魔獣の瞳から狂乱の光が引き、自ら俺の手に身を委ねるように頭を下げた。
俺は首筋を優しく撫でて安心させながら、素早く左後ろ脚へと回り込んだ。
「よし……一瞬、我慢しろよ?」
毎日何百本もの魚を捌き、肉の筋を的確に断ち切ってきた指先。
その正確無誤なコントロールで、俺はどす黒い毒針の根元をガッチリと掴み――一気に引き抜いた!
『フ、ブフゥゥゥンッ!!』
一瞬、ブラッドホースが痛みに身震いする。
だが、すぐに傷口から毒が抜け、痛みが引いていくのを実感したのだろう。
魔獣は大きく鼻を鳴らすと、信じられないことに、俺の頬にその大きな頭を嬉しそうにすり寄せてきたのだ。
「ははっ、くすぐったいって。もう大丈夫みたいだな」
俺が優しく鼻面を撫でてやると、ブラッドホースはもっと撫でてくれと言わんばかりに目を細めた。
「な、なんだと……!?」
「あの凶暴な野生のブラッドホースが、一瞬で大人しくなった……!?」
物陰から様子を伺っていた村人たちが、腰
を抜かしたまま絶句している。
力で屈服させるのが常識のこの世界で、丸腰の若者がただ寄り添っただけで、魔物自身が人間の力になりたいと寄り添ってしまったのだ。あり得ない光景に、周囲は静まり返っていた。
だが、俺の意識は別の音に向いていた。
大人しくなったブラッドホースのお腹から、「グゥゥ……」という、盛大で情けない音が鳴り響いたのだ。
「お前、お腹が空いて暴れてたってのもあるな?」
苦笑いする俺の耳に、パチパチと小さな拍手の音が聞こえてきた。
『――素晴らしい。お見事です。力ではなく、その不思議なほど心地よい空気感だけで魔獣の心を完全に掌握するとは。私の高度な演算をも超える、見事な手際でした』
「……え?」
頭の中に響く、聞き覚えのある透き通った女性の声。
声の主を探して視線を巡らせると、粉砕された木の柵の破片の上に、ちょこんと座る影があった。
手のひらサイズの、真っ白なネズミ。
「お前……! あの、裏路地の……!?」
俺が目を見開くと、白いネズミは前足を優雅に組み、不敵な笑みを浮かべるようにヒゲを揺らした。
『ええ、お久しぶりです、主様。この世界でのあなたの資質を見極めさせていただきましたが……文句なしの「合格」です。さあ、まずはそのお腹を空かせた魔獣と、私に、あの至高のご飯を振る舞う準備を始めましょうか?』
裏路地で俺を異世界へと誘った白いネズミが、今、ここに再登場したのだった。




