運命の出会い
松平忠輝は豊臣秀頼の右大臣就任の就任を祝うため大坂入りを果たす。
そこで忠輝は秀頼という終生の友と初めて顔を合わせるのだった。
慶長5年(1605年)、豊臣秀吉は右大臣へと昇進する。
これは、秀忠への牽制としてある程度の官位を豊臣家へと与える事により淀の方の迂闊な行動を思い留まらせる為の次郎三郎の計略であった。
その年に、次郎三郎は一度、豊臣秀頼という人物がどう育ったかを調べてみたいと思い立つ。
白羽の矢が立ったのは年が一番近い松平上総介忠輝であった。
忠輝は家康と次郎三郎の入れ替わりを知らずにいた。
次郎三郎は川中島の忠輝を伏見城へと召し出した。
忠輝は、供に愛洲斬陽を筆頭に数名の家臣を連れ伏見に参上する。
次郎三郎は、忠輝と二人で会う旨を伝える。
忠輝も承知し、伏見城天守閣へと向かう。
六郎は初めて見る斬陽の異様な剣気に圧倒されそうになった。
「柳生殿とは全く次元が違う・・・。」
六郎の率直な感想であった。
それもそのはず、斬陽はただの剣客ではないのだから、新陰流創始者である柳生石舟斎が勝てなかった剣聖・上泉伊勢守信綱の師と言われていた愛洲移香斎忠久の孫なのだから。
斬陽は赤子の時から剣聖の試練を受けてきた。
その試練とは忍びが赤子に施す鍛錬にも似たものがあった。
反射神経を鍛える為に赤子の内から様々な所に弱い攻撃を仕掛けるのだ。
痛いのを嫌がる赤子は徐々に攻撃を防ぐようになり、その試練を続ける事により音や気配で剣を受ける事が出来るのだ。
並の剣士ならこのような異常な訓練はしない。
剣術家としては愛洲一族のみが行っていた。
赤子から幼少になると敵に瞬間移動と見せる猿飛の術やおおよそ剣術に必要となる先読み、膂力、頭の回転を早くするために算術なども学ばされた。
時には伊勢神宮などで座禅を組まされ、脳内で将棋を打たされたり、それは壮絶な修行を積んできた。
斬陽を前にしたら柳生など赤子の手を捻るようなものであろう、と六郎は斬陽を評価したのである。
一方斬陽は始めてくる京・伏見城に若干浮ついていた。
初めて来る都。
信長公が入京した際はそれはひどい街並みであったと話には聞いたいたが、秀吉公の時代に変わり、京の都は再建され、美しい景色が戻っていると聞いていたのだ。
それに小田原城より壮大な天下の名城・大坂城も見てみたいと思っていた。
忠輝が家康公にどの様な指令を受けるかは知らなかったが、京見物や大坂見物をする時間くらいは作ってもらおうと今から楽しみでしょうがなかった。
天守に登った忠輝は、外を眺める次郎三郎の後姿を見て、平伏する。
「父上の御尊顔を恐悦至極に存じ上げます、父上にはご健勝の事誠に嬉しく喜ばしい限りと忠輝、謹んでお祝い申し上げます。」
と見事な口上を述べた忠輝を次郎三郎は振り向き眺め
「面を上げよ」
と申し渡す。
忠輝は次郎三郎の顔を見て、少々違和感を覚えた。
「父上と少し違う気がするが・・・」
しかしそれを口に出せば自分の命は無いかもしれないと察知し、余計な事は言わずに黙って次郎三郎の言葉を待つ。
「上総殿も聡明なお方だ、秀頼殿と良い友になれるかもしれん。」
次郎三郎は直感的にそう感じた。
「上総よ、お主に任を授ける大坂へ出向き、秀頼殿の人物を見てまいれ、名目はそうであるな、秀頼の右府就任(右大臣)の祝賀と言った所だろう。わしが思うに、秀頼殿は聡明な方である。あの御母堂さえいなければ豊臣家の行く末は変わるであろう。」
忠輝は、次郎三郎のこの言葉ではっきりと父家康が亡くなり、次郎三郎が代わりを務めている事を悟った。
家康ならば後々邪魔になるであろう豊臣家を何としても潰そうとするはずである。
しかし、今の次郎三郎に真実を問いただす事はしなかった。
忠輝とて、次郎三郎が「徳川家康」を名乗っていて、征夷大将軍を秀忠に譲ったものの次郎三郎が、朝廷により淳和奨学両院別当を拝命している事は知っていたからである。
朝廷が家康の入れ替わりに気付かぬ筈はない。
ならば相当の理由があり、次郎三郎は徳川の為に苦心しているのだ、とそこまで悟ったのだ。
「事情を聴くことはいつでも出来るな」
忠輝は次郎三郎の命を謹んで拝命仕り、徳川を代表し秀頼の右大臣就任の寿ぎの挨拶をするという大任を仰せつかった。
忠輝も斬陽も大坂城の壮大さには驚きを隠せなかった。
城攻めの名人たる太閤秀吉が、隅々まで趣向を凝らし、難攻不落とも謳われたのも納得のいく城であった。
大坂城謁見の間にて、忠輝は秀頼と面会する。
無論、御母堂である、淀の方の同席の下であった。
忠輝は秀頼の目を見て「彼は思った以上に聡明な方だ」と一瞬で見抜く。
また秀頼は初めて見る自分以外の「対等な立場で会話ができる男」と出会い心が躍った。
忠輝は古式儀礼に則り秀頼に右大臣就任の祝賀を述べ、徳川方の刺客かもしれぬという淀の方の疑心を取り除くため
「某はわんぱくゆえ、父上に於かれましては大層嫌われており申す」
などと平気な顔をして言ってのける。
淀の方はその言葉に安心したのか
「忠輝殿は秀頼と歳が近いゆえ、是非仲良くしてください」
などと忠輝を自陣へ取り込もうとする。
忠輝は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の例えを実践する。
「御母堂様に於かれましては宜しければ秀頼君と親しく面談などして、親しくお付き合いをさせて頂きたく存じますが、宜しゅうございますか?」
と淀の方に申し上げた。
これに異を唱えたのは大野治長である。
「忠輝殿は家康公の御子息にて秀頼君を篭絡せんとする策略ではありませぬか?」
などと言い出した。
秀頼は治長の見当違いの言いがかりを怒りで叱責しようとした所、忠輝が秀頼に微笑みかけ、
「某の姪は秀頼君の御正室にござりませぬか?今更徳川が豊臣を篭絡などという言葉は両家の和に禍根を残しかねぬ災いの種と思いますが、治長殿はいかがお思いか?」
と忠輝は言ってのけた。
さすがの治長もこの忠輝の申し状には反論も出来ず、淀の方は忠輝を大層気に入り、且元は秀頼君を御救い出来るとすればこの御方かもしれぬと心の中で忠輝を大いに評価したのである。
秀頼は、忠輝と二人での会談を望んだ。
まず忠輝が秀頼に古式儀礼に則った挨拶を交わす。
「この度は過分なる御計らい、忠輝・・・」
そこまで言いかけた時、秀頼は手で静止を促した。
「上総介殿、今この場にいるはただの秀頼と上総介殿二人でござる、堅苦しい挨拶は無用、私の事も秀頼と呼んで下され、私の方が年は一つ下にございます、それに上総介殿は某にとって叔父ではござりませぬか?」
忠輝は秀頼のざっくばらんな対応に驚いた。
「承知した秀頼殿、某の事は上総介ではなく、ただの忠輝とお呼び下され、失礼ながら、俺は秀頼殿が気に入った!今後徳川と豊臣がどうなろうとも秀頼殿は某の終生の友といたしとう存ずるが、秀頼殿は如何か?」
秀頼は目を見開き
「私でよろしいのですか?」
と忠輝に聞く。
「某は先ほどのやり取りで秀頼殿の人間を見たつもりだ、俺の考えが正しければ秀頼殿はかなりの知将、しかし、御母堂様の権勢と、奸臣大野治長の二名が秀頼殿の才気を押さえつけているように感じたのだが、如何か?」
秀頼は一度会っただけでそこまで読まれるとは思っても居なかった。
「忠輝殿の申す通り、私は豊臣家を、いや一大名で良いのだ。千姫と静かに暮らして良ければそれに越したことは無い。」
忠輝は大いに笑い
「お千は中々果報者であるな!!秀頼殿ほど素晴らしい婿殿はおりますまいて!」
秀頼は照れながら、頭を掻いた。
「いや、秀頼殿の御心は忠輝承知仕った。秀頼殿、安心召されよ、伏見の大御所様は秀頼殿の御身を気遣っておられる、何故かはわからぬが豊臣家をどの様な形を取ったとしても残したいと思っておられる様子にて、この度わしが遣わされたのだ。」
秀頼は驚いた、これまで淀の方を挑発した張本人が豊臣家を残したがっているという忠輝の言葉を信じられない訳では無いが鵜呑みに出来ない部分もあったのだ。
「大御所の御存念はわしの知る所ではないが、これだけは言える。大御所は豊臣家を残したがっている。これは確実である、某を信じてくれるなら、何かあれば伏見へ相談するのが宜しかろう。」
秀頼は忠輝の言葉を聞いて、自分は一人で孤軍奮闘をしているわけではなく、外からも救いの手が差し伸べられていた事を初めて知り、涙ぐむ。
「今迄辛ろうござりましたな。」
忠輝は秀頼を抱きしめ、秀頼は忠輝の胸で堰が切れた様に泣いた。
この時、豊臣秀頼と松平忠輝は莫逆の友となり、終生その友誼は切れる事は無かった。
ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。
誤字脱字等ありましたらご指摘頂ければ幸いです。
今後とも『闇に咲く「徳川葵」』をよろしくお願いいたします。




