第3話 夜市を開いたら、帝国で革命が売れた
前書き
「売れ残りしかない魔王城を、異世界最強の百貨店にする」
そんな無茶な挑戦から始まった物語は、ついに次の舞台へ進みます。
今回、直人たちが向かうのは、“売れ残りが一つもない帝国”。
一見すると、完璧な国です。
商品は余らない。
無駄もない。
誰も買い物に迷わない。
でも、その国には大きな問題がありました。
人々が、自分で「欲しいもの」を選べなくなっていたのです。
効率よく。
失敗なく。
無駄なく。
すべてが最適化された世界では、買い物すら「正解」を選ばされるようになっていました。
前作で直人が作ったのは、商品を売るだけの百貨店ではありません。
「どれにしよう」と迷う時間。
誰かのために贈り物を選ぶ時間。
必要ではないけれど、なぜか欲しくなるもの。
そんな、人が自分で選ぶ楽しさを守る場所でした。
だから今回、直人は再び問いかけます。
「売れ残りがゼロなら、本当に幸せなのか?」
リリスとの距離も少しずつ変わり、仲間たちとの日常や笑いもありながら、物語はやがて帝国そのものを揺るがす戦いへ進んでいきます。
剣や魔法だけでは変えられない世界を、
売り場と接客と「選ぶ自由」で変えていく。
『転生バイヤー、魔王城百貨店をはじめますⅡ』
売れ残りゼロの帝国で、「選ぶ自由」を取り戻した話。
前作より少し大きく、少し切なく、そしてもっと賑やかな物語を、ぜひ最後まで楽しんでください。
売り場を閉めれば、誰も傷つかない
地下倉庫の出口が、すべて閉ざされた。
鉄扉が床へ落ちる音が、腹の底まで響く。
赤。
青。
黄色。
俺たちが実験店舗に並べた商品と同じ色に塗られた《秩序騎兵》が、棚の奥から次々と現れた。
整然とした足音。
寸分の乱れもない隊列。
そこには怒りも迷いもない。
ただ、命令どおりに排除する機械の正しさだけがあった。
壁一面の表示板には、俺とリリスの名前が赤く点滅している。
《最優先排除対象》
高城直人。
リリス。
そして、彼女の名前の横には、冷たい文字が並んでいた。
《高城直人を守るためなら、国家へ反逆する可能性、九十九・八パーセント》
「ずいぶん高いな」
俺は喉の渇きをごまかすように言った。
「何がです?」
「俺を守ってくれる確率」
「残りの〇・二パーセントが気になるのですか?」
リリスは俺の前へ出ながら、指先に魔糸をまとわせた。
「そこは百パーセントと言ってほしかった」
「店長があまりに無茶をした場合、先に殴って動きを止める可能性があります」
「それは守っているのか?」
「結果的には」
後方で、ガルドが剣を抜いた。
「話は終わったか?」
「まだ重要なところだ」
「敵が百体ほどいるぞ」
「では、後にしましょう」
リリスの口元に笑みが浮かぶ。
その横顔を見て、胸の奥がわずかに軽くなった。
怖くないわけではない。
俺は剣を使えない。
魔法も使えない。
一体の秩序騎兵に正面から殴られれば、それだけで終わる。
それでも仲間がいる。
俺の指示を信じて動いてくれる人たちがいる。
だから俺は、戦うのではなく、売り場を見る。
敵の数。
通路の幅。
棚の位置。
荷車。
床の傾斜。
天井を走る商品搬送用の鎖。
戦場にしか見えない場所でも、俺にとっては巨大な物流倉庫だった。
「ガルド、正面の隊列を引きつけてくれ」
「倒していいのか?」
「棚を壊さなければ」
「難しいな」
「敵を壊すほうは許可する」
「それを先に言え!」
ガルドが駆け出した。
巨大な剣を横薙ぎに振るう。
秩序騎兵三体がまとめて壁へ吹き飛ばされた。
壁が割れた。
「棚を壊すなと言っただろ!」
「壁は棚ではない!」
「建物も商品資産だ!」
「注文が細かい!」
バルグが航海用の硬いパンを取り出した。
もう食べ物として扱う気はないらしい。
「店長」
「何だ」
「在庫は三個だ」
「何の在庫だ」
「パン弾」
「新しい商品名をつけるな!」
バルグが一個目を投げる。
硬いパンは秩序騎兵の頭部へ直撃し、兜ごと床へめり込ませた。
「残り二個」
「貴重な在庫みたいに報告するな!」
「補充予定はない」
「二度と作らなくていい!」
ゼファーは棚の陰から、制御用魔石を抜き取っていた。
「店長、この騎兵、色によって動きが違うぞ!」
「赤は?」
「攻撃型!」
「青は?」
「拘束型!」
「黄色は?」
黄色い騎兵がゼファーへ飛びかかる。
彼は慌てて棚の下へ滑り込んだ。
「たぶん、話を聞かない型!」
「全部そうだ!」
俺は天井を見上げた。
搬送用の鎖には、商品箱を吊るす金具が並んでいる。
床の傾斜は中央へ向かって下がっていた。
「リリス、赤い騎兵を中央通路へ集められるか?」
「できます」
「ゼファー、右の昇降機を動かせ!」
「電源が切られてる!」
「秩序騎兵の魔石を使え!」
「それ、保証対象外になるぞ!」
「誰の保証だ!」
ゼファーが停止した騎兵から魔石を抜き、昇降機へ押し込む。
轟音とともに床が動き始めた。
リリスの魔糸が、赤い騎兵の腕や脚へ絡みつく。
彼女は自分の体を軸にしながら、十数体を中央通路へ引き寄せた。
「今です!」
「バルグ、荷車を!」
バルグが鉄製の荷車を蹴り出す。
傾斜を滑った荷車が、赤い騎兵の隊列へ突っ込んだ。
「ガルド、鎖を切れ!」
剣が閃く。
天井から大量の商品箱が落下し、騎兵たちを覆い隠した。
箱の中身は布製品だった。
壊れにくく、衝撃を吸収する。
騎兵の動きだけを封じるにはちょうどいい。
「敵を商品で包んだのか」
ガルドが感心したように言う。
「梱包は物流の基本だ」
「その使い方は初めて見たぞ」
青い騎兵たちが、閉ざされた出口を守っている。
正面突破は難しい。
だが、地下倉庫には商品搬入口がある。
人間用ではない。
箱だけを運び出す、小さな搬送路だ。
「全員、あの荷台へ乗れ!」
俺は空になった大型搬送箱を指さした。
「狭すぎるでしょう!」
リリスが叫ぶ。
「五人なら入る!」
「私は数に入っていますか?」
「入ってる!」
「ではバルグは何人分です?」
バルグが搬送箱を見下ろす。
無言で首を横に振った。
「俺は走る」
「箱より速いのか?」
「たぶん」
「急に自信をなくすな!」
結局、俺、リリス、ゼファーの三人が箱へ入り、ガルドとバルグが後ろから押すことになった。
「出荷するぞ!」
ガルドが叫ぶ。
「人間を商品扱いするな!」
箱が搬送路へ滑り込む。
暗い通路の中を、すさまじい速度で進んだ。
「店長!」
リリスの声が耳元で響く。
「近いです!」
「箱が狭いんだ!」
「では少し離れてください!」
「これ以上離れたら壁に埋まる!」
「二人とも、今その話をするか?」
ゼファーが俺たちの間で押しつぶされていた。
「俺を挟んで照れるのをやめてくれ!」
「照れていません!」
「俺もだ!」
「声がそろってるぞ!」
搬送箱は地下水路へ飛び出した。
俺たちは積み上げられた古い袋の上へ落ちる。
その直後、ガルドとバルグも通路から飛び降りてきた。
追ってきた秩序騎兵が出口へ顔を出す。
バルグが最後の硬いパンを投げた。
石壁が崩れ、搬送路が塞がれる。
「最後の一個だった」
バルグが寂しそうにつぶやく。
「惜しむな」
「名作だった」
「食べ物としては駄作だ」
どうにか逃げ延びた。
だが、誰も喜べなかった。
俺たちが店を開いたことで、赤いリボンを選んだ少女は連れ去られた。
白パンを選んだ男性も。
花柄のカップを選んだ老女も。
名前を記録された人々は、すでに《反体制者候補》へ分類されている。
俺の売上が。
俺が誇りにしてきた販売記録が。
人を捕らえるための名簿になった。
その事実が、胸の奥に重く沈んでいた。
選ばせたことが、間違いだったのか
地下水路の先には、帝国の地図に載っていない小さな広場があった。
壊れた配給箱を組み合わせた家。
ひび割れた石壁。
天井から漏れる、ごくわずかな魔石灯の光。
そこには、多くの人が暮らしていた。
杖をついた老人。
病気で働けなくなった者。
片腕を失った職人。
子どもを抱いた母親。
俺たちを見ると、人々は一斉に家の中へ隠れた。
「ここは……」
「《返品街》です」
背後から声がした。
振り返ると、粗末な外套をまとったミレイア皇女が立っていた。
護衛はいない。
髪を布で隠し、帝国の紋章も外している。
「皇女殿下」
「ここでは、その呼び方はおやめください」
ミレイアは街を見回した。
「帝国の基準から外れた人々が送られる場所です」
「外れた?」
「病気で生産効率が落ちた者。高齢で配給量に見合う労働ができない者。規格どおりの品を作れない職人。決められた作物以外を育てようとした農民」
「人間を返品したのか」
喉の奥が熱くなる。
ミレイアは静かにうなずいた。
「表向き、帝国には貧困も失業もありません」
「存在しないことにしているだけか」
「はい」
俺はその場に膝をついた。
逃走の疲れではない。
体から力が抜けた。
「店を閉める」
言葉が勝手にこぼれた。
「店長?」
リリスが俺を見下ろす。
「販売実験は中止だ」
「なぜです?」
「分かっているだろ」
俺は拳を握った。
「俺が店を開かなければ、あの少女は連れていかれなかった」
「それは違います」
「違わない」
「違います」
リリスの声は静かだった。
その静けさが、余計に苦しかった。
「俺が赤いリボンを並べた。選んでいいと言った。名前を記録された人たちは、俺を信じて商品へ手を伸ばしたんだ」
「だから?」
「だから、俺が危険にさらした!」
声が地下街へ響いた。
隠れていた人々が、家の隙間からこちらを見ている。
「俺はお客様を守れなかった。売り場を作る資格なんてない」
その瞬間。
胸元をつかまれた。
リリスだった。
細い腕からは想像できない力で、俺の体が引き上げられる。
紫色の瞳が、目の前にあった。
「選ばせたことが間違いなのではありません」
「リリス」
「選んだ人を罰する国が、間違っているんです」
一言ずつ、俺の逃げ道を塞ぐように言う。
「店長が店を閉めたら、捕まった人たちは戻ってくるのですか?」
「……戻らない」
「この街の人たちは、帝国へ帰れるのですか?」
「帰れない」
「子どもたちは、もう一度欲しい物を口にできるのですか?」
答えられなかった。
リリスは俺の胸元をつかんだまま、さらに顔を近づけた。
「自分が傷つくのが怖くて、お客様から売り場を奪わないでください」
胸の奥に、鋭く刺さった。
俺は反省しているつもりだった。
責任を取ろうとしているつもりだった。
だが、本当は逃げようとしていたのかもしれない。
次に誰かが傷つけば、もう耐えられない。
だから店を閉める。
それは客を守る判断ではない。
自分の罪悪感から、自分を守る判断だ。
「ずいぶん厳しいな」
俺は絞り出すように言った。
「優しく言えば、聞いてくれましたか?」
「たぶん聞かない」
「だから胸ぐらをつかみました」
「接客研修では推奨していないぞ」
「店長はお客様ではありません」
「では、何だ?」
リリスの指が一瞬だけ緩んだ。
その問いだけは、彼女にも予想外だったらしい。
「……返品できない不良在庫です」
「ひどい分類だ」
「捨てられないという意味です」
彼女は俺を解放し、顔をそむけた。
薄暗い中でも、耳が赤いのが分かった。
俺の心臓が、遅れて妙な音を立て始める。
今は国を救う話をしていたはずだ。
どうして急に、自分の居場所を尋ねたような気分になるのだろう。
「店長」
ガルドが割り込んできた。
「いつまで見つめ合っている。腹が減った」
「見つめ合っていない!」
俺とリリスの声が重なった。
ゼファーが肩をすくめる。
「夫婦喧嘩は店の外で頼む」
「誰が夫婦だ!」
「そこまで否定しなくても」
リリスが不満そうに言う。
「いや、今のは言葉の流れで」
「知りません」
さらに機嫌を損ねた。
バルグが空になった食料袋を持ち上げる。
「食材がない」
俺は街の隅に積まれた木箱を見た。
曲がった野菜。
形の崩れたパン。
色むらのある果物。
割れた器。
縫い目がずれた布。
帝国の規格から外れ、廃棄された品々。
どれも使えないわけではない。
ただ、決められた形ではないだけだ。
その向こうで、一人の老職人がこちらを見ていた。
「それは売り物か?」
俺が尋ねると、老人は首を横に振った。
「売る店がない」
「欲しい人は?」
「こんな物を欲しがる人間はいない」
その言葉は、商品のことだけではない気がした。
この街の人々は、自分たち自身をそう思わされている。
役に立たない。
必要とされない。
選ばれなかった。
だから捨てられたのだと。
俺は立ち上がった。
「ミレイア殿下」
「何でしょう」
「この場所で商売をすると、罪になりますか?」
「帝国法では重罪です」
「では、今さらだな」
「最優先排除対象ですからね」
ミレイアの口元に、初めて小さな笑みが浮かんだ。
俺は街の人々へ向き直った。
「返品された商品なんてありません」
誰も反応しない。
「まだ、必要な人に出会っていないだけです」
家の隙間から、少しずつ顔が現れる。
「人も同じです。帝国の基準に合わないからといって、価値がなくなるわけじゃない」
老人が尋ねた。
「何をするつもりだ」
「店を開きます」
「ここに?」
「夜だけの店です」
俺は廃棄品の山を見渡した。
「帝国で最初の、自由に選べる夜市を」
返品街の夜市
準備は、昼過ぎから始まった。
長く商売を禁じられていた人々へ、いきなり店を開けと言っても動けない。
それでも、俺たちが壊れた屋台を起こし、布を張り、木箱を棚に変えていくと、一人、また一人と手を貸してくれた。
片腕の職人は、釘を使わず屋台を組み立てた。
足の悪い老女は、曲がった野菜を食べやすい大きさへ切った。
働けないとされた農民は、捨てられた果物から甘い香りの飲み物を作った。
「傷のあるリンゴは、煮れば分からない」
農民が言う。
「むしろ、熟して甘い」
「十分な商品だ」
「こんな物に、値段がつくのか?」
「値段は、見た目のきれいさだけで決まりません」
俺はリンゴを一つ手に取った。
「誰が作ったか。どう食べればおいしいか。誰の役に立つか。それを伝えれば、価値は変わります」
農民は、しばらくリンゴを見つめていた。
「……もう一度、畑をやってもいいのか」
「誰かに許可をもらう必要がありますか?」
彼は答えず、顔を伏せた。
肩が小さく震えていた。
夜市の中央では、売れ残り食材を使った料理大会が始まっていた。
最初の出品者はバルグだった。
嫌な予感しかしない。
大きな布をめくる。
そこには、巨大なパンが置かれていた。
「究極の保存パンだ」
「また硬いのか?」
「前作より改善した」
「柔らかく?」
「薄くした」
「硬さを変えろ!」
ガルドが試食しようと、パンへかじりつく。
歯が滑った。
「食えんぞ!」
「保存性は高い」
「食べられない物は永遠に保存できるだろ!」
バルグは真顔で考え込んだ。
「その発想はなかった」
「感心するな!」
最終的に、保存パンは屋台の土台を固定する重しとして使われた。
料理大会では失格。
建築資材部門では満点だった。
ガルドは子どもたちの輪投げ屋を手伝った。
「輪を棒へ入れればいいのだな?」
「そうだよ」
少女がうなずく。
ガルドは輪を投げた。
輪は棒を通り抜け、その後ろの景品棚まで粉砕した。
「入ったぞ」
「景品が全部なくなった!」
「成功ではないのか?」
「力を弱くしてください!」
二投目。
今度は慎重に投げた。
輪はふわりと飛び、ガルド自身の角へ引っかかった。
子どもたちが笑い転げる。
ガルドは真顔のまま、角に輪をかけて立っていた。
「これは成功か?」
「大成功!」
その夜、ガルドは輪投げ屋の看板役になった。
本人は最後まで納得していなかった。
ゼファーは偽名で露店を開いていた。
看板には、
《謎の仮面商人ゼット》
と書かれている。
ただし、その横には本人の顔を大きく描いた似顔絵があった。
「偽名の意味がないぞ」
俺が指摘する。
「顔を覚えてもらわないと、次の商売につながらないだろ」
「正体を隠すか、宣伝するか、どちらかにしろ」
「両方欲しい」
「選択の自由を間違って使うな」
さらに魔王ヴァルディスが、遠隔通信の鏡から夜市へ参加してきた。
映像の中で、魔王は曲がったキュウリを指さしている。
『三本で銅貨一枚にしろ』
「魔王様」
俺は額を押さえた。
「値切らないでください」
『客には交渉の自由があるのだろう?』
「生産者が困る値段を押しつけるのは自由ではありません」
『では二本で銅貨一枚』
「値上がりしています」
『交渉とは難しいな』
「魔王様は、お城で正規価格の商品を買ってください」
『部下の店で値切るのが楽しいのだ』
「最低の上司だ!」
鏡の向こうで魔王が豪快に笑う。
その笑いにつられ、夜市の人々も笑った。
最初は小さかった。
遠慮がちな声だった。
だが、一人が笑うと、隣の人も笑った。
料理の失敗を笑う。
ガルドの角にかかった輪を笑う。
自分の選んだ商品を見せ合って笑う。
返品街に、笑い声が満ちていく。
俺は少し離れた場所から、その光景を眺めた。
売上は多くない。
屋台の数も少ない。
商品も不揃いだ。
日本の百貨店なら、改善点を何十個も書き出していただろう。
それでも、今まで見たどんな完璧な売り場より、美しいと思った。
「店長」
隣にリリスが立っていた。
「成功ですね」
「まだだ」
「相変わらず厳しいですね」
「店を開いただけじゃ足りない。選んだ人が罰せられない仕組みを作らないと、本当の成功とは言えない」
「でも、今夜くらい喜んでもいいのでは?」
リリスが一つの屋台を指さす。
赤、青、黄色。
さまざまな色のリボンが並んでいる。
その前で、一人の少女が迷っていた。
長い時間をかけて、青いリボンを選ぶ。
母親は止めなかった。
店員も正解を教えなかった。
少女は自分で選んだリボンを胸へ抱き、笑った。
「……そうだな」
胸の奥に、温かなものが広がる。
「今夜だけは、喜んでもいいか」
「はい」
リリスも笑った。
その髪には、赤いリボンが結ばれていた。
日本へ帰れると言われたら
夜市が終わったのは、日付が変わる少し前だった。
片づけを終え、俺とリリスは地下街の屋上へ上がった。
屋上といっても、地上ではない。
天井に近い岩棚から、夜市の灯りを見下ろせる場所だ。
俺たちは並んで座り、余ったパンを食べた。
バルグの保存パンではない。
老女が焼いた、柔らかな蜂蜜パンだ。
「おいしいですね」
リリスが言う。
「少し焦げている」
「そこがいいんです」
「商品として出すなら、焼き時間を統一したほうがいい」
「店長」
「何だ」
「今は仕事を忘れてください」
「難しい注文だな」
「ガルドと同じことを言っていますよ」
それは少し嫌だった。
俺はパンを一口かじり、夜市の灯りを見る。
小さな光。
帝国の地上からは見えない、ささやかな売り場。
それでも、今夜ここにいた人たちは、自分で選んだ。
食べる物を。
身につける色を。
笑うことを。
「店長」
リリスの声が、いつもより静かだった。
「日本へ帰れると言われたら、帰りますか?」
思いがけない問いだった。
すぐには答えられない。
日本の街が浮かぶ。
閉店間際の百貨店。
雨の日の地下食品売り場。
売れ残った弁当へ値引きシールを貼る店員。
何度も通った駅。
もう会えない家族。
かつての同僚。
すべてが胸の奥で、長く閉じていた箱からこぼれ出す。
帰りたいと思わなかったわけではない。
ただ、考えないようにしていた。
帰れないと決めてしまえば、諦められる。
選択肢がなければ、迷わずに済む。
それは、黒瀬が作った帝国と同じではないのか。
「分からない」
俺は正直に答えた。
「帰りたい気持ちはある。でも、この世界にも……置いていけないものが増えた」
「そうですよね」
リリスは笑った。
だが、その横顔が少し寂しそうに見えた。
「リリスは、俺に帰ってほしいのか?」
「どうでしょう」
「質問したのは君だろ」
「答えを聞く準備ができていませんでした」
彼女は膝を抱える。
髪に結ばれた赤いリボンが、夜市の光を受けて揺れた。
「あのリボン」
俺が言う。
「第一話の少女へ渡せなかった物か?」
リリスの指が、髪のリボンへ触れた。
「はい」
「どうして身につけている?」
「忘れないためです」
「何を?」
「欲しいと言っただけで、手を伸ばせなかった子がいたことを」
彼女は少し考え、言葉を続けた。
「それから……私が何を大切にしたいと思ったのかも」
「何を大切にしたいんだ?」
リリスが俺を見る。
紫色の瞳が、すぐ近くにある。
「それを私に言わせるのですか?」
「聞いたのは俺だ」
「店長は仕入れ交渉では鋭いのに、こういう時だけ鈍いですね」
「何の話だ」
「もう結構です」
彼女は顔をそむけた。
俺にはまだ、答えが分からなかった。
いや。
たぶん、分かり始めている。
けれど、それを認めれば、俺も何かを選ばなければならない。
日本か、この世界か。
過去か、未来か。
仕事仲間か、それ以上か。
選ぶことは怖い。
黒瀬の言葉が、ほんの少しだけ理解できた。
それでも。
迷うことまで捨てたくはなかった。
その時だった。
遠くで、金属が擦れる音がした。
一つではない。
何十。
何百。
夜市を囲む地下通路に、赤い光が灯る。
秩序騎兵。
「店長」
リリスが立ち上がる。
「どうやら閉店後の苦情対応です」
「予約は聞いていないな」
「悪質なお客様ですね」
「返品不可だ」
俺たちは同時に走り出した。
選んだ人々が、自分で戦う夜
秩序騎兵は、地下街の全出入口を封鎖していた。
『無許可市場を確認』
『選択行動の集団発生を確認』
『反体制活動として排除を開始する』
人々が悲鳴を上げる。
屋台を放り出し、逃げようとする。
だが、通路はすでに騎兵で埋め尽くされていた。
「ガルド、北通路!」
「任せろ!」
「バルグは食料庫を守れ!」
「分かった」
「ゼファー、子どもと高齢者を裏道へ!」
「料金は?」
「命が助かったら、俺が払う!」
「高くつくぞ!」
「今は早く行け!」
俺は夜市の案内図を引き剥がし、地面へ広げた。
売り場の配置。
屋台の位置。
地下通路。
水路。
倉庫。
昼間作った案内図が、そのまま戦術地図になる。
「東側の屋台を倒せば、騎兵の進路を一本に絞れる」
「店長」
片腕の職人が近づいてきた。
「屋台は俺たちが組み替える」
「危険だ。避難してくれ」
「俺たちの店だ」
職人は残った腕で金槌を握った。
「選んで作った店を、また黙って壊されるのは御免だ」
その後ろに、料理人たちが並ぶ。
「鍋の湯が残っている」
「敵の関節へかければ動きが鈍るはずだ」
農民たちは木箱を運び始めた。
老女たちは布を結び、即席の担架を作る。
子どもたちは地下通路の位置を伝え合う。
「待ってくれ」
俺は言葉を失った。
「これは俺たちの戦いだ」
少女が首を横に振る。
「違うよ」
髪には、自分で選んだ青いリボンが結ばれている。
「私たちも、ここにいたいって選んだの」
胸が震えた。
人々は戦うことを命じられたのではない。
自分で選んで、ここに立っている。
「分かった」
俺は地図を指さした。
「では、お客様ではなく仲間として頼みます」
料理人たちが熱湯で騎兵の進路を塞ぐ。
職人たちは屋台を組み替え、移動式の防壁を作る。
農民が果物箱を転がし、敵の足を止める。
子どもたちは狭い通路を走り、商品と負傷者を運んだ。
「北側、赤が五体!」
「南から青が来るよ!」
「ガルドへ伝えてくれ!」
「分かった!」
リリスが屋台の上へ飛び上がる。
夜市に残された無数のリボンが、彼女の周囲へ浮かび上がった。
赤。
青。
黄色。
緑。
色とりどりの布が魔糸へ変わり、地下街全体へ広がっていく。
「好きな色を選んでください!」
彼女が叫んだ。
人々は戸惑う。
「選んだ色の糸が、避難路へ導きます!」
一人が赤い糸をつかむ。
一人が青を選ぶ。
黄色。
緑。
それぞれが自分で選んだ糸をたどり、安全な場所へ走る。
同時に、リリスの魔糸が秩序騎兵の関節へ絡みついた。
「店長!」
「中央の柱へまとめろ!」
色とりどりの糸が敵を引き寄せる。
「職人さん、今だ!」
屋台の固定具が外される。
巨大な屋根が倒れ、騎兵たちをまとめて覆った。
ガルドが剣の峰で装甲を砕く。
バルグが最後まで取っておいた保存パンを、柱の隙間へ打ち込む。
「まだ持っていたのか!」
「予備在庫だ」
「在庫管理が優秀なのが腹立たしい!」
保存パンがくさびとなり、倒れかけた柱を支えた。
建築資材として、また活躍してしまった。
戦いは長く続いた。
住民の中に負傷者は出た。
それでも、誰一人として命令を待たなかった。
助ける相手を選び。
守る場所を選び。
逃げる道を選んだ。
最後の秩序騎兵が倒れた時、地下街に歓声が上がった。
勝った。
剣の力だけではない。
自分たちの街を守ると決めた、一人ひとりの選択が勝ったのだ。
俺は息を整えながら、夜市を見渡した。
壊れた屋台。
転がる商品。
ちぎれたリボン。
それでも、人々は笑っていた。
泣きながら。
抱き合いながら。
自分たちで選んだ勝利を、確かめるように。
「リリス」
俺は彼女を探した。
少し離れた場所で、リリスが立っている。
髪の赤いリボンは無事だった。
俺と目が合う。
彼女が笑った。
その瞬間。
帝国全土を揺らすほどの鐘が鳴った。
ゴオオオオオン。
地上から。
中央塔から。
地下街の壁そのものから。
魔導映像板が一斉に白く染まる。
黒瀬征司の顔が映し出された。
彼は怒っていなかった。
むしろ、悲しそうに俺たちを見ていた。
『高城君』
「黒瀬」
『君は証明した』
彼の声が、帝国全域へ響く。
『選択は、人を団結させる』
「それが怖いのか?」
『ああ』
黒瀬は迷わず答えた。
『人は好きな物を選び、好きな者のために戦う。そして、互いの違いを理由に争い始める』
「だから全部消すのか」
『好みがなければ、奪い合いもない』
映像板に、巨大な魔法陣が表示される。
真っ白な円。
その中心に刻まれた文字。
《白紙の日》
ミレイアの顔が青ざめた。
「まさか……完成していたのですか」
「何だ、それは」
「全国民の《選好》を消す魔法です」
選好。
何を好きだと思うか。
何を大切にするか。
何を選びたいと願うか。
人の心が向かう先。
『好きな食べ物』
黒瀬が読み上げる。
『好きな色』
魔法陣が回転を始める。
『大切な人』
白い光が、地下街の天井から降り注ぐ。
『将来の夢』
人々の顔から笑顔が消えた。
「伏せろ!」
俺が叫ぶ。
光は壁も屋根も通り抜けてくる。
防げない。
ミレイアが魔法障壁を張る。
ガルドが剣を突き立てる。
バルグが俺たちの前へ立つ。
それでも白い光は止まらない。
『二十四時間後、《白紙の日》を発動する』
黒瀬の声が響く。
『人々は二度と、選ぶことに苦しまずに済む』
魔法陣から一本の光が放たれた。
狙いは俺だった。
「店長!」
リリスが俺の前へ飛び込む。
「リリス、避けろ!」
間に合わない。
白い光が、彼女の胸を貫いた。
音はなかった。
血も出ない。
リリスの体から力が抜ける。
俺は倒れる彼女を抱き止めた。
「リリス!」
返事がない。
髪から赤いリボンがほどけ、床へ落ちる。
「目を開けろ!」
彼女のまぶたが、ゆっくりと開いた。
紫色の瞳。
いつも俺をからかい、怒り、笑い、見つめていた瞳。
そこには、何の感情も浮かんでいなかった。
「リリス……?」
彼女は俺の顔を見上げる。
知らない客を見るように。
警戒も好意もない。
ただ、空白だけを宿して。
「申し訳ありません」
静かな声だった。
「あなたは、どなたですか?」
俺の呼吸が止まった。
赤いリボンが、二人の間へ落ちる。
その瞬間、帝国中の魔導映像板に数字が浮かび上がった。
《白紙の日》発動まで。
二十三時間五十九分。
時計が、一秒ずつ減り始める。
そして表示板の隅に、もう一つの文字が現れた。
《第一選好消去、完了》
対象者。
リリス。
第3話・完
次回
第4話
「好き」を忘れた彼女に、もう一度恋を届ける
名前も、戦い方も覚えている。
それなのにリリスは、自分が何を好きだったのか、なぜ百貨店で働いていたのか、直人をどう思っていたのかを忘れてしまった。
直人は思い出を説明するのではなく、彼女が過去に選んだ商品を集め、もう一度選んでもらうことを決意する。
しかし、《ゼロ・マーケット》の中枢には、国民全員から奪われた記憶が保存されていた。
装置を壊せば、過去が消える。
壊さなければ、未来を選べなくなる




