第92話:休息がもたらしたものと、一瞬の邂逅
私の今日の目的地は、中層の第11区画だ。
壁面や床面が滑らかな石灰質の沈殿物と鍾乳石に覆われ、透明な冷水が絶え間なく流れている半水没の回廊である。
ここは環境の変容の兆候こそ観測されていたものの、決定的なモンスターの変異や大規模な地形変動はまだ起こっていないと報告されているエリアである。
実際、ここに至るまでのルートに、変容は確認できなかった。
あるいは私自身が気づいていないだけで、何かしらの変容は起こっていたのかもしれないが、身の危険を覚えるようなものは何もなかった。
そうしていざ、エリアに接続する通路に差し掛かった時、私は足を止めた。
肌を撫でる冷気の温度。
鍾乳石から滴る水滴の反響音。
澄んだ水気の奥に混じる、極めて薄い生臭さ。
従来、このエリアでは感じることのないそれらは、私の五感を通して、強い違和感を与えた。
ノイズの可能性もある。
変容に対して敏感になりすぎているせいということだって考えられる。
その時、前方の通路から、複数の足音が水飛沫を上げて慌ただしく近づいてきた。
息を乱した探索者のパーティーだ。
彼らは私の横を足早に通り過ぎていく。
「急に水深が深くなりやがった……!」
「このエリアは変容が起こってないんじゃなかったのかよ……!?」
彼らの言葉が本当だとすれば、変容が発生しているのだ。
つまり、私が覚えた違和感は、それに対するものだったのだ。
なぜ、まだ足を踏み入れてもいないのに気づくことができたのだろうか。
……ああ、そうか。
私はその答えに深く納得した。
昨日、休息を取った。
それが理由だ。
これまでの私は、変容に対して過敏になっていた。
記録が通じず、経験を欺かれ、機材すら意味をなさなかった。
それが心身を極度の緊張状態に追い込んでいた。
だが、昨日、私は休息した。
ダンジョンのことを考えず、一日を過ごした。
思えば、『私』が私になってから、そんなふうに過ごした日はなかった。
しかし、そのおかげで、ほぼ麻痺していた感覚が戻ってきたのだ。
初めてダンジョンに入った時のように。
あの時は、協会が開示しているダンジョンのデータをすべて頭に叩き込んで、臨んでいた。
だが、データと現場が違うことは間々あり、その時は現場で感じる空気を大事にした。
その時と同じ感覚だ。
私は慎重に、エリアに足を踏み入れた。
感覚が戻ってきたとしても、その感覚が完璧というわけではなかった。
違和感があり、慎重に距離を詰めて確認してみれば、実際には何もないこともあった。
ただの水流の変化であったり、古い岩の崩落跡であったりだ。
ダンジョンが変容しているのではないかと警戒するあまり、何もない正常な空間すらも変容に感じてしまっていたのだ。
いわゆる、幽霊の正体見たり枯れ尾花である。
だが、その過敏さが杞憂に終わらず、実際に変容が起こっていた箇所もいくつもあった。
立ち止まり、疑い、確認する。
私がやっていること自体、これまでと何も変わりがない。
だが、休んだことには、決して少なくない、確かな意味があった。
足首まで浸かる冷水を掻き分けながら、鍾乳石の回廊をさらに奥へ進む。
前方の水底に、周囲の岩肌と完全に同化したシルエットがうずくまっているのを発見した。
両生類型のモンスター、岩隠擬蛙だ。
見た目はこれまで何度も処理してきた個体と変わらないように見える。
私は岩陰に身を潜め、息を殺して観察した。
関節の動き。
水流への反応。
皮膚の質感。
どれだけ見つめても、過去のデータとの明確な差異は見当たらない。
これまでどおりならば、死角から接近してサバイバルナイフを突き立てれば処理できる。
……だが、背中のいぼの膨らみが、以前よりわずかに張り詰めているような気がした。
本当に、微かな違和感だ。
気のせいかもしれない。
私は水際から手頃な石を拾い上げた。
対象の斜め前方、少し離れた水面へ向けて投げた。
石が水面に落ちた、その瞬間——。
水底の対象の口が大きく開け、そこから圧縮された超高圧の水弾を、石が落ちた箇所へ向けて猛烈な勢いで撃ち出したのだ。
水弾は石灰質の岩柱に命中。
深く抉り取る破壊音が回廊に響いた。
もし、あの微かな違和感を無視していたら。
胸の奥が冷たくなる。
だが、足を止めて観察をした。
さらに、昨日休んだことで、感覚が研ぎ澄まされていた。
だから、違和感に気づくことができた。
私が新しい手帳の1ページ目に書いた、あの棘を飛ばす変容個体とはまったく違う攻撃だったが、それでも、あの時の経験がなければ、今回の気付きは生まれなかっただろう。
恐れを感じながら、それでも積み重ねてきた手順は、間違いではなかった。
その事実に、私の胸の奥には熱が生まれた。
だが、その余韻に浸っている余裕は、ダンジョンには存在しない。
対象の攻撃の射程と、次の水弾を生成するまでの間隙。
何度か石を投げることでそれを確認した私は、新たな対処の段取りを頭の中で組み上げた。
対象が水弾を吐き出した直後の数秒、死角から踏み込む。
私は行動に移した。
サバイバルナイフは、対象の側面の急所へ正確に差し込まれた。
結果、私は魔石を手にすることができた。
もちろん、私のこの感覚で、すべての変容が確実に見抜けるわけではない。
いつか見落とす時が来るかもしれない。
それでも、未知の変容個体に対処できたという事実は揺るがない。
私はその後も極限まで慎重な観察を繰り返し、安全を確認できた対象のみを処理していった。
そうして、変容が起きる前には及ばないものの、ここ数日よりは魔石を多く回収することができた。
定刻を迎え、私は地上へ帰還するため、来た道を引き返し始めた。
「これは……」
その途中、初めて見るルートが石灰質の壁面に口を開けていた。
崩落ではなく、自然に形成されたような滑らかな岩の通路だ。
無視して通り過ぎることもできる。
だが、帰還ルートのすぐ脇にこのような変容が発生した以上、そこに私の退路を脅かす脅威が潜んでいないか、確認しておく必要があった。
私はサバイバルナイフの柄に指をかけ、足音を完全に殺して、その未知のルートを慎重に進んだ。
水気を含んだ空気の匂い。
気流の変化。
五感を限界まで研ぎ澄ませるが、有毒ガスの臭いも、モンスターの気配も感じられない。
脅威は、どこにも存在していなかった。
そうして短くはない通路を抜けた先は、開けた空間だった。
やはり、モンスターはいない。
だが、
「これは……」
私はそれ以上、何も言えなかった。
壁面や天井に無数の鉱物の結晶が露出していて、そこに自生する発光苔の淡い青白い光が反射し、さながら空間全体が星空のように静かに輝いていたのだ。
常に死が隣り合わせのこのダンジョンの中に、まさかこれほど綺麗だと思える空間が存在するとは。
いつまでも見ていたい、そんな気持ちになった。
だが、私はここに安らぎを求めにきたわけではない。
脅威がないと確認できた以上、これ以上の滞在は無用だ。
私は踵を返し、元の帰還ルートに戻った。
安全な水路に足を踏み出し、最後にもう一度だけ、あの光景を記憶に留めようと振り返った。
「——ッ」
ルートが存在していなかった。
ただの硬く冷たい鍾乳石の壁が続いているだけだった。
ダンジョンの気まぐれな変容が生み出した、幻想的な空間。
「……こういう変容なら、むしろ積極的に歓迎できるのですが」
私は微かに緩んだ口元を引き締め、帰路を急いだ。
換金を担当してくれたのは井葉さんだった。
彼女は今日の魔石の量を見て、僅かに目を丸くすると、すぐに私を見て、
「……無理をした、というわけではないのですよね? 静河さん、珍しく昨日はお休みしていましたし」
「ありがとうございます。無理はしていません」
「やり方を見直したから、ですか?」
「そうですね。そのおかげです」
笑顔の彼女に見送られ、私は協会を後にした。
スーパーマーケットに寄って、宿舎に帰ってきた。
確かな手応えを感じることができた今日の夕食は、少し手間をかけようと思った。
厚切りの豚バラ肉と大根を、醤油と砂糖、味醂、酒で煮込んでいく。
やがて、甘辛い香りが湯気とともに立ち上ってきた。
炊きたての白米と、豆腐の味噌汁とともにテーブルへ。
豚肉を頬張った。
豚の旨味を吸った大根もだ。
「……美味い」
白米を追いかけるように掻き込む。
そうやって食事を進めながら、私は今日のことを頭の中で反芻していた。
今日、事前の違和感に気づけたのは、休養によるリセットのおかげが大きい。
ダンジョンで生きていくために、ダンジョンに行かない。
そんな日をこれからも作った方がいいのかもしれない。
私は豆腐の味噌汁を飲んだ。
それもまた、美味かった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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