第93話:過去の遺産と、未来への宛先
中層、『淀みの窪地』へと続く斜面を下りながら、私は周囲を探っていた。
休息を取ったおかげで、自分の五感が正常に機能しているという実感があった。
実際、ここに至るまでも、これまで正常だったルートに変容が発生していたが、違和感として認識し、事前に回避することができた。
変容に対する恐れがなくなることはないだろう。
それでもやっていけるという、確かな手応えがあった。
私は窪地の底へと視線を巡らせた。
「あれは……」
立ち止まる。
岩盤の上に、夥しい数の魔石が転がっていた。
探索者であれば、魔石を放置して立ち去ることはあり得ない。
いや、そうせざるを得なかった状況があったのかもしれない。
たとえばモンスターを倒しはしたが、傷つき、倒れたとかだ。
しかし、周囲を見回しても、探索者の遺体もなければ、血の匂いもない。
だとするなら、モンスター同士の争いだろうか。
「……いえ、それにしては数が多すぎます」
これまでもモンスター同士の縄張り争いのようなものは目撃したことがあるが、ここまでの規模のは見たことがない。
これも変容だろうか?
その時、一つの考えが頭をよぎった。
できることならば、外れて欲しい可能性だ。
それは、既存の生態系を容易く蹂躙するような、強力な個体がこのエリアに発生したのではないか、ということだった。
もしそうだとしたら、この数の魔石も納得できる。
そしてそれが事実だった場合、今もまだ、この近くにその個体が潜んでいる可能性もある。
無数に転がる魔石。
欲を出して拾いに行くことで、その未知の脅威と遭遇するかもしれない。
確証はなく、すべて想像の話だ。
だが、ここはダンジョンで、変容が起こっている。
可能性を排除することはできない。
ならば、私が取るべき道は一つしかなかった。
撤退である。
私は無数の魔石に背を向け、来た道を静かに戻った。
私は予定を改め、『泥濘の迷宮』へと向かった。
岩盤が途切れ、足元が重い粘性を持った泥へと変わる。
ここもまた、変容の波を免れてはいなかった。
泥の表面から立ち上る酸の臭気が、以前よりも明らかに強くなっている。
一方で、変わらないものもあった。
岩壁の基部に、私が過去に打ち込んだ鉄の楔と、それに固定された合成樹脂製の足場板だ。
変容に飲み込まれることなく、また、モンスターや他の探索者にも破壊されず、そこに残っていた。
だが、私が設置したままというわけでもなかった。
ところどころに補修された箇所が見受けられた。
利用した探索者によるものだろう。
私が設置し、私が利用しない間も、誰かの生活を支える基盤になっていたのだ。
私はその足場板の上に、慎重に足を乗せた。
体重をかけた途端、落ちるということもなく、靴底に確かな安定感が伝わってくる。
……問題ない。
足場を伝って、私は奥へと進んだ。
前方の泥が、不自然に隆起した。
過去のデータと経験に従えば、泥に擬態したマッド・ゴーレムか、泥沼蜥蜴が現れる予兆だ。
だが、過去に盲目に従うような真似をしてはいけないのだ。
何が現れるのか、私は目を細め、見極めた。
明確な輪郭を持たない、巨大な軟体生物だった。
マッド・ゴーレムの鈍重な姿とも、泥沼蜥蜴の四足歩行の形状とも全く異なっている。
それが何かはわからない。
だが、私を獲物として認識していることだけは間違いなかった。
腐敗した水草と泥が絡みついた半透明の体は絶えず微細な気泡が弾け、這い進むのではなく、体液を撒き散らしながら泥の上を滑るように迫ってくるのだから。
その体液は強い酸性を帯びているようで、まだ距離があるというのに独特の臭気を漂わせていた。
私は対象を処理するための観察の時間を確保しようと、距離を取ろうとした。
だが、対象が体を大きく伸縮させ、予想外の角度で跳躍してくる。
さらに体液まで振りまきながら。
私は退避するため後退しようとして、
「——ッ」
足場板の端を踏み外した。
安全靴の底についていた泥のせいだ。
そして、その泥の中へ落ちそうになった。
咄嗟に岩壁に手を伸ばし、そこに打ち込まれていた鉄の楔を掴んだ。
一気に全体重を支えたため、肩に走った衝撃と痛みは相当なものだった。
だが、問題なかった。
岩壁に食い込んだ楔は、私の体重を完全に支えた。
微動だにしなかったのだ。
その事実に胸の奥が少しだけ熱くなる。
しかしすぐに、息を吐き出し、意識を切り替える。
着地した対象はまだ動かない。
動けないのが正しいのかはわからない。
私はその間に足場板の上に登り、体勢を立て直した。
対象を観察する。
動き始めた。
さっきと同じ、私を捕食しようと滑るように迫ってくる。
そして、体を伸縮させ、予想外の角度で跳躍してくるのも同じだった。
さっきと同じ轍は踏まない。
慌てず、だが安全な距離を保って退避を完了させる。
着地した対象は、やはりその場から動かない。
そもそも跳躍することが負担になっているのか。
あるいは、一度、体勢を崩すと、そこから立ち直るのに時間がかかるのか。
何にしても、この膠着時間を逃すつもりはなかった。
私は素早く対象に近づき、その深部に潜む核にサバイバルナイフを突き立てた。
あとは当然の結果が待っているだけだ。
対象は光の粒となって霧散、魔石が転がる。
私はそれを拾い上げ、息を吐き出した。
改めて、私は足場板と、それを支える楔を見た。
変容が起こっていても、問題なく機能した。
いつまで機能するかはわからない。
明日——いや、この後すぐ、もしかしたら機能しなくなる可能性も否定できない。
それでも、かつての自分が、今日の自分を救った。
それだけは事実だった。
定時に地上へと帰還した。
あの後も同じ未知の対象を処理し続け、変容前にはまだ及ばないが、それでも相応の魔石を回収することができた。
換金カウンターで魔石を提出し、明細を受け取った。
「……変容が進んでいる中、それでもこれだけの魔石を納品できるなんて」
呟きが聞こえたが、職員の独り言だと判断し、私はそのまま出口に向かった。
その途中、ロビーの柱の陰で、壁に背を預けて座り込んでいる小柄な人影を見かけた。
極寒冷地での活動を前提とした、分厚い耐寒装備。
狩能氏だ。
彼女の装備は、ところどころが焦げ、あるいは破れたような状態だった。
何より目を見張ってしまったのが、彼女の傍らに置かれている主武装——身の丈ほどもある巨大なパイルバンカーが、無惨な姿を晒していたことだった。
赤熱し、白霜狼の装甲を打ち砕く杭がひしゃげて折れ曲がり、外装の金属はひび割れ、内部の機構が黒く焼け焦げているのが見えていた。
立ち止まった私に気づいたのだろう、彼女が顔を上げた。
私を見る。
その、ゴーグルの奥の瞳には、かつて極寒の谷で見せたような鋭い光はなかった。
「……助けてくれたの、この子が」
そう言って、彼女は破損したパイルバンカーを見た。
その眼差しは驚くほど優しげで、私は再び目を見張った。
「『白霜の凍谷』にも変容は起こったわ。白霜狼がね、明確な群れを作って、系統だって動くようになったの。それでも対応しようとして無茶をした時、この子が暴発して……白霜狼を道連れにしてくれたから、わたしは今、ここにいられる」
彼女は動かなくなったパイルバンカーに、そっと手を触れた。
「……修理はできないのですか」
私が尋ねると、彼女は力なく首を振った。
「……無理。これを設計し、組み上げた人間は、もうこの世にいないから」
その口調がどこか淋しげで、
「……お知り合いの方ですか?」
「……わたしの、双子の妹」
私はかけるべき言葉を持たなかった。
「これは、このパイルバンカーは、あの子が自分の夢や想いを全部詰め込んだ、あの子そのものだったの」
元々体が弱く、しかし未知のモンスターと戦う夢を持っていたという彼女の妹は、探索者になれないのなら、せめてモンスターを倒す武器を作ろうと思い至ったらしい。
そうして彼女の妹が、こんな武器でモンスターを倒すとか絶対にかっこいいと、心血注いで完成したのが、狩能氏の主武器であるパイルバンカーだった。
元々、狩能氏は探索者には興味がなかったというのだが、妹の代わりに、妹の作った武器でモンスターを倒すため、探索者になったのだという。
「……その妹も今はいないし、妹が作ってくれた武器も壊れて、直せない」
彼女が呟くように言った。
「潮時なのかもしれないわね」
狩能氏を見る。
泣いてはいない。
だが、まるで子どもが泣きじゃくっているように感じられた。
私はバックパックから手帳を取り出し、白紙のページを一枚破るとペンを走らせた。
書き終えた紙片を、彼女の前に差し出した。
狩能氏が怪訝そうな顔でそれを見る。
「私が使用している機材を製作してくれた工場の住所です。彼の腕は確かで、信頼できる職人です」
私は手帳をバックパックに戻した。
「ただし、依頼を受けるかどうかは、彼次第です」
そして、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「そこへ行くかどうかも、あなた次第です」
私は紙片を彼女の前に置いた。
「……では、また」
狩能氏から、返事はなかった。
だが、それでもいい。
それが彼女の選択だ。
私は彼女に背中を向け、歩き出す。
「……ありがとう、静河くん」
紙片を手に取る音が、かすかに聞こえてきたような気がした。
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