第91話:機材の裏切りと、探索者の休息
石鹸を泡立てて手を洗いながら、私は今日のダンジョンでの出来事を思い返していた。
今日、私は新しく導入した機材を試した。
岩盤内部の密度を測るための小型超音波センサーだ。
これまでの打音検査に加え、数値による裏付けを得ることで、安全の確度を上げるための備えだった。
現場で岩壁にセンサーを当てた時、液晶画面に表示された数値は安全を示した。
だが、確認のためにハンマーで軽く叩けば、手に伝わってきた反発は、明らかに危険を告げる鈍い感触だった。
機械の数値か、自分の感覚か。
私はハンマーを握り直して、少しだけ強めに岩壁を叩いた。
結果、岩壁は崩れ落ちた。
頼れると考えていた機材すら変容は容易く欺いてくる。
結局、今日は別ルートで迂回し、目的のエリアで魔石を回収した。
迂回したことと、機材すら欺く変容を目の当たりにしたことでさらに注意深く慎重に進め、以前とは比べものにならないくらい成果は乏しかったが。
成果は成果だ。
とはいえ、これまでの記録も、機材も信じることができない、そんな日が来るとは予想もしていなかった。
私は鏡の中の顔を覗き込む。
疲れた顔をしていた。
疲労が溜まっているというだけでなく、精神的な疲れも滲んでいた。
私は重い息を吐き出して、そこでようやく、今まで出し続けていた水道の水を止めた。
気がつけば、こんなに長く手を洗い続けていた。
だが、そのおかげか、張り詰めていた緊張の糸が、少しだけ緩んだような気がした。
夕食は買ってきたシュウマイ弁当を食べた。
美味かった。
翌朝。
目を覚まし、ベッドから身体を起こそうとして、布団を退かそうとした指が微かに震えていることに気がついた。
それだけではない。
力が上手く入らなかった。
痛みはない。
ただ、自分の身体が自分の意志通りに上手く動こうとしない。
……覚えがある。
かつての『私』も経験した。
慢性的な疲労の蓄積。
それと、過去の記憶を捨ててすべてをゼロから警戒し続けるという、連日の極度の緊張。
肉体と神経にストレスをかけすぎた結果だ。
ダンジョンは死がすぐそこにある世界だ。
ましてや変容が起こっている今、以前よりもその距離は近くなっている。
僅かな不調ですら命取りになるのに、今のこの状態でダンジョンに向かうことは、命を無駄に捨てる行為に他ならない。
「……今日は休みましょう」
私は口に出してそう言った。
機材の手入れもしない。
明日の段取りも行わない。
ダンジョンの存在を今日だけ、完全に思考から切り離して、心身をリセットするための時間を取るのだ。
私は起き上がり、ベッドから降りた。
まずは深呼吸を行いながら、全身の筋肉をゆっくりと伸ばしていく。
血流を促進させる、軽いストレッチ運動だ。
その後、浴室へ向かい、浴槽にぬるめの湯を張った。
入浴剤を溶かし入れ、ゆっくりと肩まで浸かる。
熱すぎない温度が、連日の極度な緊張で強張っていた神経を少しずつ解きほぐしていくのを感じた。
湯上がりには、冷蔵庫からクエン酸を含む飲料を取り出し、喉へ流し込んだ。
酸味が疲労の抜けを促してくれるはずだ。
午前中はそうやって過ごし、午後からは外へ出た。
空模様は曇天だったが、雨は降っていない。
すれ違う人たちの生活の気配みたいなものを感じながら、やってきたのはスーパーだ。
いつもとは違い、あれこれ迷う楽しみを味わいながら、時間をかけて食材を選んだ。
そして宿舎に戻ってきた私は、鶏肉のトマト煮込みを作った。
玉ねぎとニンニクを炒め、表面に焼き色をつけた鶏肉をトマト缶で時間をかけて煮込む。
酸味と旨味が溶け合った熱いスープが、体に沁みた。
生きている。
ふと、そんな実感を得て、私は笑った。
栄養のある食事をしっかりと食べた後は、何も考えずに眠った。
翌日、すっきりした目覚めだったからこそ、体の芯に不快な重さがあったことを、今さらながら実感した。
大丈夫だ。
私は朝食を取ってから、バックパックを背負うと部屋を出た。
探索者協会のロビーに足を踏み入れた。
空調の効いた室内は、いつもの朝とは違う、ざわついた空気に包まれていた。
壁面に設置された掲示板の前に、多くの探索者が群がっている。
私は人垣の後ろから、それを見た。
『変容エリアへの入場条件の厳格化、および一部エリアの要申請化について』
変容の激しい危険区域への立ち入りが、実質的に制限されるという内容だった。
周囲からは、不満を露わにして声を荒げる探索者たちの怒号が聞こえてくる。
だが、その一方で、どこか安堵したような表情を浮かべている者たちがいることにも気がついた。
行かないのではない。
協会が制限したから行けないのだ。
自分の意思ではなく、外部の規則によって危険から遠ざかる理由ができたことに、安堵した彼らは密かに救われたのだろう。
誰もが、今のダンジョンの異常さに心を削られている。
私は黙って、通達の全文を目で追った。
このタイミングでの厳格化。
協会内部の焦りが透けて見えた。
事態を完全に把握しきれていない中、犠牲者を多く出し、管理責任を問われることを恐れているのだ。
かつて山のような書類を読んできた経験が、行間に隠された組織の都合を読み解いた。
だが、彼らが何を恐れ、どのような線を引こうとも、私には関係なかった。
私は私が生きていくために、私自身の判断で現場へ向かう。
準備広場へ移動し、いつものベンチに腰を下ろした。
新しい機材は変容に欺かれた。
だが、欺かれない機材もある。
あるいは、まだ欺かれていない機材といった方が正しいのかもしれないが。
現時点では問題のない、そして必要な装備を一つずつ確かめていく。
これで大丈夫かという心の中での問いながら。
「あの、少しよろしいですか」
遠慮がちな声に顔を上げれば、あまり見かけたことのない探索者が立っていた。
だが、防具には使い込まれた感じがあり、雰囲気も落ち着いている。
新人ではなく、中堅に違いない。
なら、これまでは私とはダンジョンに向かう時間帯が重ならなかったということなのだろう。
「チョークの粉を撒いて、床の沈み込みを見破るやり方、どこで覚えたんですか?」
彼は真剣な眼差しでそう尋ねてきた。
一見すると乾燥した岩盤に見える変容後の流動体トラップに対して私がとった、即席の検証行動のことを言っているのだろう。
それを誰かが見ていて、その誰かが彼に話した。
過去のデータが通用しない現場で生き残るため、探索者たちは皆、必死に模索している。
私のそれを知りたいと思うのも、その一つだろう。
「現場で考えました」
特別な知識があったわけではない。
その場にあるものを使い、変化した現場の理不尽に対して仮説と検証を尽くしただけだ。
彼は私の顔をじっと見つめた後、しばらく黙り込み、やがて静かに息を吐いた。
「……なるほど、現場で」
「はい」
「……あなたほどの人でも、藻掻いているのですね」
独り言だったのかもしれないが、その声は私の耳に届いた。
「ありがとうございました。自分たちも藻掻いて、足掻いて、食らいついていきたいと思います」
頭を深く下げ、自分のパーティーが待つ場所へと戻っていく。
私は立ち上がった。
準備は終わっている。
ダンジョンに向かう。
先程の彼が、私をどのような人間だと思っているのかはわからない。
ただ私は、自分にできることをしているだけだ。
生き残るため、必死になって。
昨日、休息を取って、心と体はリセットできた。
問題ない、と確信はできない。
ダンジョンに入る。
目の前にある岩の硬さ、空気の匂い、聞こえてくる微かな音。
今、そこに存在する事実だけを手がかりにして、私は今日も生き残ってみせる。
必ず。
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