第90話:無垢な足跡と、無言の相席
新しい手帳の1ページ目に、私は棘を飛ばす変容個体の特徴と、ゼロから観察して得た対処の手順を書き留めた。
中層を、既知の現場ではなく、完全に未知のダンジョンとして記録し直すという決意とともに。
では、2ページ目には?
何を書くべきだろうか——。
私は五感を研ぎ澄ませながら、中層の岩場区画を歩いていた。
過去に安全だったルートの記憶を廃棄し、すべてを疑いながら進む。
そう決めたはず、だったのだ。
だが——。
「——ッ」
右足を踏み出そうとして私は、強引に体重を左足へと引き戻した。
右の安全靴のつま先が触れた岩の表面が、目の前で音もなく崩れ落ちていく。
乾いた岩肌に見えたそれは、薄皮一枚だけが残されたトラップだったのだ。
崩れ落ちた暗い穴の奥から、ツンとした刺激臭が立ち昇ってくる。
おそらく、酸性のガスによって、内部が完全に空洞化していたのだろう。
ダンジョンによくあるトラップだ。
しかし、ここに、このエリアに、このようなトラップは存在していなかった。
私は一歩後退した。
冷たい汗が背中を伝い落ちていく。
これまで以上に慎重に観察し、足運びを決めていた。
少なくとも、そのつもりだった。
だが、あの岩の形状、あの影の落ち方。
「……身体が過去を覚えている」
かつて数え切れないほど通り抜けたことで、安全なのだと体が覚えていた。
要するに、このエリアで長く活動してきたベテランほど、その染み付いた習慣が命取りになるトラップとも言えるだろう。
まさか過去の経験が、今の私を殺そうとしてくるとは。
私は壁面に背を預け、乱れた心拍が落ち着くのを待とうとした。
その時、通路の方から微かな音が聞こえてきた。
モンスターの気配ではない。
私は岩陰に身を隠し、音のする方へ視線を向けた。
桜色の、まだ真新しい防具を身に纏った小柄な少女、見て盗むと私に宣言したあの新人探索者だった。
彼女は慎重に岩壁に身を寄せながら、こちらの通路へと歩みを進めてくる。
私に気づいている様子はない。
私は声をかけず、彼女の動きを観察する。
彼女は、私が先ほど踏み抜きそうになった空洞のトラップの手前で足を止めた。
空洞になった場所を見つめ、それから別の場所を見つめる。
しばらく考え込んだ後、感触を確かめるように、爪先で軽く触れた。
岩が崩れ、空洞が現れる。
彼女はそれを何度か繰り返した後で、壁面の僅かな突起へ靴底を乗せて、軽やかに跳躍した。
跳躍した先は完全に安全な足場だった。
運動には自信があると、彼女は言っていた。
その言葉通り、彼女の身体能力は確かなものだった。
そしてまた、観察眼もなかなかだと言うべきだろう。
どこが危険で、どこが安全であるかを見抜いたのが、その証拠だ。
思えば、準備広場で私に声をかけてきたのもそうだ。
私の準備作業を見抜いていた。
今、探索者を続けている者たちの中には、雑な準備を行う者たちはほとんどいない。
皆、自分なりとはいえ、丁寧な準備作業を行うようになっている。
なのに、私のそれが一番丁寧だと、彼女は言っていた。
見抜く力、あるいは見極める力というべきなのかもしれない。
探索者になるのだと、やってくるだけのことはある。
そして、もう一つ、彼女の動きから、気づくことがあった。
それは、彼女には、このエリアに対する過去の記憶が一切存在しないということだ。
当然だ。
彼女は新人探索者である。
だが、それはつまり、この変容したダンジョンこそが、彼女にしてみれば、普通のダンジョンなのだ。
私や、他のベテラン探索者にあるような、以前は安全だったという先入観がないのだ。
目の前にある岩の凹凸。
空気の匂い。
ただそれだけを事実として受け入れ、最も確実な場所に足を置き、進んでいく。
彼女のあの跳躍を、私がそのまま真似ることはできない。
身体能力が違いすぎる。
しかし、それ以外ならば、どうだろうか。
彼女の動きの根底にある、目の前の事実だけを前提とする重心の置き方は、取り入れることができるのではないか。
過去の残像を捨て去り、一歩ごと、足元の強度をゼロから評価する。
私は彼女が通路の奥へと消えていくのを見送った後、ゆっくりと岩陰から歩み出た。
まずは観察。
問題ない。
次に爪先を岩肌に触れさせる。
目で見た情報だけではわからない、爪先から伝わる微細な反発力を確かめ、安全だと確信してから体重を乗せる。
……いけた。
このやり方では、歩幅は自然と狭くなり、進む速度は格段に落ちた。
これまでなら数分で行けた距離が、倍以上は軽くかかった。
通路の陰から、土属性の小型モンスター——岩擬蜘蛛が現れた。
これまでなら対象が飛び出してくる特有のリズムを予測し、処理していた。
しかし、それはもうやらないと決めたのだ。
それでも予測し、処理しようとする思考と体を呼吸のテンポを変えることであえて乱し、私は対象の挙動をゼロから観察した。
今、対象の硬い装甲の隙間が一瞬だけ開く、その事実だけを見極めてサバイバルナイフを滑り込ませた。
魔石を拾い上げてケースに収めた。
静かに呟く。
「……今日の手帳に書くべきことが、決まりました」
私は新しい足運びを意識しながら業務を続けた。
そのおかげかどうかはわからない。
ただ事実として、昨日よりも多くの魔石を回収することができた。
定時になり、地上へ帰還する。
探索者協会のロビーへ足を踏み入れる。
夕刻の空調の効いた空気は、重苦しい疲労感に満ちていた。
換金カウンターで手続きを終え、明細を受け取って振り返った。
壁際に座り込んでいる探索者に気がついた。
私が探索者として登録した一年前には、すでに中堅としてこのロビーで幅を利かせていた男だ。
彼の腰には、高価な魔剣が下げられていて、その魔剣は失われていない。
だが、男の表情は昏かった。
ロビーの床の一点を、ただ見つめていた。
変容が起こる前から、彼はダンジョンという不条理を生き抜いてきた。
だからこそ、変容した中層にも対応できると考えていたはずだ。
これまでもできた。
これからもできる、と。
だが、変容の不条理はその上をいく。
私は昨日、これまでの経験が通用しない事態に遭遇し、今日はこれまでの経験に殺されそうになった。
だが、それでも、ダンジョンで生き残るために足掻いている。
彼は——。
私は彼に背中を向け、協会を出た。
風に湿気の匂いを強く感じる。
梅雨はまだ明けず、一雨来るのかもしれない。
ならば、急いでスーパーに寄り、宿舎に戻るべきだった。
だが、今日は一人で食事をしたくなかった。
私は大通りを適当に歩き、目についた大衆食堂の暖簾をくぐった。
店内は適度に混み合っており、探索者や地元の労働者たちがそれぞれのテーブルで食事をとっていた。
私はカウンターの隅の席に腰を下ろし、店に入った時、客が食べていたハンバーグ定食を注文した。
しばらくして私の前に、湯気を立てるハンバーグと白米、そして味噌汁が運ばれてきた。
箸を取り、ハンバーグを口へ運ぶ。
合いびき肉を使っているのだろう、牛と豚の肉の旨味が口の中に広がる。
それを逃さないよう、追いかけるように白米を掻き込む。
顔見知りではない。
誰かがいる。
一人ではない。
その中で私はハンバーグを食べ、米を食べ、味噌汁を飲み、呟く。
「……美味い」
その時、引き戸の開く音がして、私の隣の席に誰かが座った。
その誰かは唐揚げ定食を注文した。
彼だった。
先程協会で見かけた、あの中堅探索者だ。
彼の前にも唐揚げ定食が運ばれてきて、彼は無言で食べ始める。
だが、いつまでも無言ではいられなかった。
「……美味えなあ」
思わずこぼれ落ちる呟き。
私は頬が緩むのを止められなかった。
彼は私に気づいていない。
だから私は何も言わない。
最後まで、偶然、食事の時間が重なっただけの隣人として過ごした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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