第89話:記録のノイズと、真っ白な手帳
宿舎を出ると、雨が降っていた。
梅雨はまだ終わっていない。
中層第6区画、『淀みの窪地』。
すり鉢状の地形の底に滞留する湿気と、壁面に密生する白い真菌類や発光苔が独特な景観を作るこの場所を、私は本日の業務エリアとした。
私は防毒マスクを装着し、周囲を観察する。
地形の起伏。
空気の重さ。
風向き。
匂い。
協会が開示しているデータと、私が自身で蓄積してきた記録とを合わせて照合し、エリア自体に変容がないことを確認する。
それでも万が一のことを考え、慎重に窪地の底に近い層へと足を進めると、岩陰にうずくまるシルエットを発見した。
背面の分厚い装甲に発光苔を自生させた、澱殻蟹だ。
鈍重な巨体の姿勢制御を行うため、歩脚の基部には構造上の隙間が存在する。
これまでの業務で何度も繰り返し処理し、私の中で完全に手順が確立されていた。
私は足音を殺し、対象の死角へ回り込んだ。
腰から引き抜いたサバイバルナイフを、装甲の継ぎ目に差し込もうと踏み込んだ。
……いや、踏み込まなかった。
違和感があったから。
これまでであれば無防備な隙間の奥に、不自然な赤黒い膨らみが見えたのだ。
直後、その赤黒い膨らみから、鋭利な棘が散弾のように発射された。
風を切り裂く音とともに、私の眼前僅か数cm先を棘が通り過ぎ、背後の岩盤に深く突き刺さった。
——もし、これまでと同じ感覚で処理しようとしていたら。
——もし、違和感に気づかず、あのまま踏み込んでいたら。
あの棘は顔面を貫いていただろう。
そう考えた瞬間、嫌な汗が全身から噴き出した。
心拍数が上がる中、私は努めて冷静に間合いを取り直した。
対象を深く観察する。
棘は一度発射されれば、それで終わりなのだろうか。
普通に考えれば、それはあり得ない。
対象が変容し、何のためにその機能を獲得したかを推測すれば、至極当然のことだった。
対象はそこが弱点だった。
私はこれまで散々、そこを突くことで処理してきた。
その対象が、そこに攻撃手段を仕込んだ。
ならば、あれで終わりであるわけがない。
実際、慎重に覗き込めば、赤黒い膨らみはまだそこに確認することができた。
だが、先程より、その膨らみは小さい気がする。
それはどういうことだろうか。
先程確認した大きさが発射可能を示すサイズというのであれば、今はまだ、発射できないということか。
可能性にかける?
そんなものに自分の命をかけることはしない。
そんなことをしていたら、私はすでに未帰還者リストに名を連ねている。
私は手頃な石を拾い、隙間目掛けて、正確に投擲した。
棘は発射されなかった。
その後、時間を開けて、私は隙間を目掛けて石の投擲を続ける。
やはり、赤黒い膨らみが先程と大きさにならないと、棘が発射されることはないことを確認することができた。
赤黒い膨らみが先程までと同じ大きさになるまでの時間もすでに計測済みである。
また、投擲している間、それ以外に対象にこれまでと違う箇所が存在しないことも確認しておいた。
処理するなら、今だ。
私は観察したとおり、棘は発射済みで、赤黒い膨らみがないことを確認して、刃を突き立てた。
対象は魔石へ。
私はそれを拾い上げ、表面の汚れを布片で拭き取った。
見た目はこれまでと同じだ。
だが実際には、テスターにかけるまでわからない。
ケースに収めてから、気がつけば私は深い息を吐き出していた。
深層から波及する変容は、地形や気候を変えるだけではなく、出現するモンスターにまで及んでいる。
深層は危険だった。
だが、今や中層も同じくらい危険な場所になっていた。
そこまで考えた時、ふと思った。
本当にそうだろうか、と。
私は岩壁を背にし、視線を通路の奥へ巡らせ、安全を確保してから、自らの内側にさらに問いかけた。
確かに、あのように棘を飛ばす澱殻蟹は危険だ。
だが、その危険の正体は、モンスターそのものではなく、私自身の中にあったのではないか。
——このエリアの対象はこういう動きをする。
これまで私が蓄積してきたデータ。
それがあるから、予期せぬ攻撃に晒され、冷や汗をかくことになったのでは?
もしここが初めて足を踏み入れる未知の領域で、目の前のモンスターが全くの未知の存在だったら。
最初から、対象がどんな攻撃をしてくるかわからないと警戒し、注意深く観察を行っていただろう。
そうすれば、あのような肝を冷やすような場面には遭遇しなかったはずだ。
変容していないことを確認するのではなく、すでにすべてが変容していることを前提に日々の業務に当たれることにすれば……。
私は周囲の空間を見渡した。
足元に広がる粘性の高い泥。
すり鉢状の壁面に密生する発光苔の明滅。
体にまとわりつく、重く淀んだ湿気。
それらを、今日初めて足を踏み入れた場所を歩くように、一つひとつ慎重に確かめていく。
気流の微細な乱れを肌で探り、カビの匂いの奥に混じる異臭はないか嗅覚を研ぎ澄ませた。
一歩を踏み出す。
靴底が泥を押し潰す感触さえも、新たな情報として収集していく。
通路を進めば、岩陰にうずくまるシルエットを発見した。
澱殻蟹だ。
——いや、澱殻蟹であるというラベルを剥がす。
あれがどう動くのか、どんな性質を持っているのか、私は何も知らない。
壁に背を預け、気配を殺したまま、対象の挙動をゼロから観察する。
歩脚を動かす際の関節のきしみ。
重い装甲を支えるための重心の移動。
周囲の環境音に対する触角の反応速度。
すべてを白紙の状態から見極める。
やがて、対象が泥を這い、姿勢をわずかに崩した。
築き上げてきたタイミングに合わせるのではない。
目の前で対象の筋肉が弛緩し、装甲の隙間が無防備に露出した。
赤黒い膨らみは存在しなかった。
——変容している個体と、そうでない個体が入り混じっている?
いや、この思考自体もノイズだ。
初めて見る相手ならば、そんな思考すらも最初から存在しない。
私は再び対象の筋肉が弛緩して、隙間が露出されるタイミングを観察し続けた。
まだ。
……まだ。
…………まだ。
——今。
私は踏み込んだ。
対象が私に気づき、反撃の予備動作に入るより早く、私はサバイバルナイフをその柔らかい組織の深部へと正確に突き刺した。
対象は光の粒となって霧散した。
魔石が泥の上に落ちた。
私はそれを拾い上げ、握りしめた。
冷たくて、硬くて、重い。
……いけた。
確かな実感が、私の内側に静かな熱を伴って広がっていくのを感じた。
目の前の事実を正確に観察して、対処の論理をその場で構築して、そうすれば対応できる。
私はその後も、極限まで慎重に、すべてをゼロから確かめながら探索と処理を継続した。
一歩の歩幅。
刃を振るう角度。
そのすべてを対象を観察することで、リアルタイムで修正しながら進んでいった。
やがて、腕時計が定刻の到来を告げた。
「……今日の業務はここまでです」
帰路についた。
夕刻の探索者協会のロビーは、重苦しい空気に包まれていた。
壁際に座り込んでいる中堅の探索者たちがいた。
彼らに見覚えがあった。
彼らの防具はひどく傷つき、泥と血にまみれている。
これまでの彼らであれば、どこの居酒屋で打ち上げをやるかと盛り上がっていたはずだ。
だが、今は違う。
彼らは業務に失敗したのだ。
私は息を吐き出してから、換金カウンターへ向かった。
トレイの上にハードケースから取り出した魔石を置く。
今日の担当は、井葉さんだった。
「お疲れ様です、静河さん。……今日は、少し少なめですね」
彼女はケースの中の魔石をテスターにかけながら、気遣うように言った。
「やり方を見直す必要が出たもので」
「やり方、ですか?」
「はい」
テスターの確認が終わり、魔石には変容はなく、明細が差し出される。
受け取った明細に印字された金額は、変容が発生する前の稼ぎには及ばない。
「静河さんなら大丈夫だってわかっていますけど、無理だけは絶対に駄目ですよ。その時は大丈夫でも、大丈夫じゃない時が絶対にきますから」
「ありがとうございます、井葉さん」
「では、また明日です!」
「ええ、また明日」
笑顔の彼女に見送られ、私は協会を出た。
朝に降っていた雨は、止んでいた。
今日の夕食は、塩鮭を焼くことにした。
フライパンに薄く油を引き、鮭の切り身を乗せる。
しばらくすれば、皮が焦げる香ばしい匂いが漂ってくる。
大根おろしをたっぷりと添え、醤油を少しだけ垂らした。
炊きたての白米と一緒に、鮭の身を口へ運ぶ。
程よい塩気と脂の旨味を堪能する。
「……美味い」
次は大根おろしも一緒に。
最後まで満足できる、確かな美味さだった。
食器などの後片付けをした後、私は机に向かった。
バックパックから、使い込まれた古い手帳を取り出した。
ページを捲る。
そこには、私が探索者になってから蓄積してきた、中層の地形、気圧の変動パターン、モンスターの弱点がびっしりと書き込まれていた。
これが私の命を今日まで繋いできた。
だが、今はもう、私がダンジョンで生きていく上で、ノイズになっていた。
今日、ダンジョンで、私は一つの考えを実行に移した。
中層を、すでに知っている狩場ではなく、完全に未知のダンジョンであると認識し直したのだ。
これまで蓄積したデータに依存せず、エリアも、環境も、モンスターも、すべてを初めて遭遇する未知の脅威と想定して観察し、対処した。
その結果、私は今日を生き延び、確かな手応えを得て帰還することができた。
私は古い手帳を静かに閉じ、引き出しの奥深くへしまった。
そして新しい手帳を取り出し、真っ白な一ページ目を開く。
ペンを取り、今日遭遇した、棘を飛ばす変容個体の特徴と、ゼロから観察して得た新たな対処の手順を書き留めた。
中層を、初めてのデータとして改めて記録し直していくのだ。
すべてはここからだ。
英雄になりたいわけでも、名を挙げたいわけでもない私は、一歩ずつでも確実に歩んでいければ、それでいい。
私はペンを置き、新しく書き込まれた最初の一行を、静かに見つめた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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