第88話:即席の呼吸と、A定食の味
探索者協会のロビーに入れば、見知った顔があった。
上近少年だ。
そして彼に声をかけているのは、私に「見て盗む!」と宣言したあの小柄な少女だった。
泥沼のトラップの手前で姿を見なくなっていたが、どうやら無事だったらしい。
彼女は真剣な眼差しで、上近少年に何かを語りかけていた。
上近少年は少し驚いたように目を丸くしていたが、やがて小さく頷き、彼女に言葉を返した。
そして二人は並んで、準備広場の方へと歩いていく。
二人の選択がこの先、どのような未来を引き寄せるのかは、神ならぬ私にはわからない。
……ただ、少しだけ眩しかった。
私は息を吐き出し、意識を切り替える。
環境モニター、掲示板のチェック。
未帰還者リストに視線を走らせ、そこに見知った人物の名前がないことを確認する。
その後、私はいつものベンチに向かい、腰掛け、準備を始める。
問題がないかどうかは、潜ってみるまでわからない。
つい昨日、私の長年の経験が欺かれたばかりだ。
だが、行かないという選択肢は私にはない。
不確かなダンジョンで生きていくと決めたからだ。
本日の目的地は、中層の浅い区画を選んだ。
乾燥した岩肌が続くこのエリアは、本来であれば防毒マスクなど必要ない。
だが、足を踏み入れた瞬間、気がついた。
空気が異様に重い。
それだけではない。
吸い込んだ空気に、細かい砂と金属の粉を混ぜ合わせたような、不快なざらつきがあった。
喉の奥にそれが張り付き、それを排出しようと咳が出た。
脈拍が上がる。
昨日のことがあり、慎重に慎重を重ねて、ここまで進んできた。
だが、ここまでは何もなかった。
なのに、一歩、足を踏み入れた途端、これだ。
変容の恐ろしさを改めて痛感する。
背筋を冷たい汗が伝うのを感じながら、それでも私は焦らず的確に首から下げていた防毒マスクを装着した。
不快なざらつきが遮断される。
安心はできない。
変容がこれだけとは限らないからだ。
私は歩みを再開した。
より慎重に、だ。
岩壁に沿って進んでいく。
だが、少しもいかないうちに、呼吸に強い抵抗を感じるようになった。
マスクのフィルターが、急速に目詰まりを起こしているのだ。
未知の何か——微粒子的な何が、想像を越える密度でこの空間に充満しているとしか思えない。
酸素が薄れていく圧迫感が、冷静な思考を削り取りそうになる。
このまま進めば、遠からず呼吸困難に陥る。
……撤退だ。
私は踵を返そうとして、それに気がついた。
前方の岩陰に、不自然な形で横たわる二つの影だ。
上近少年と、あの少女だった。
近づく。
上近少年は、自分の身体で少女の口元を覆い隠すように倒れ伏していた。
幸いと言っていいだろう。
上近少年の胸は上下に動き、生存を伝えてくれていた。
少女も同じくだ。
だが、上近少年の防毒マスクのフィルターは、すでに限界を超えているだろう。
探索者は自己責任だ。
彼らを助ける義務は、私にはない。
踵を返す。
それが私が生き残るための戦略だ。
だが——。
彼らをここに置いたまま立ち去ることが、今の私にはできなかった。
……できなかったのだ。
しかし、だからといって、感情のままに動いても、共倒れになるだけだ。
私の防毒マスクも長くは保たない。
どうする?
呼吸が苦しくなってきた。
それだけじゃない。
頭痛もするし、目がまわり、吐き気もある。
だが、それでも、私は考え続けた。
そうして、今、私にできることを見つけ出した。
バックパックを下ろし、中から予備の防塵フィルターシートとダクトテープを取り出した。
さらにペットボトルの水。
しかし使うのはペットボトルであり、中身は捨てた。
それからサバイバルナイフを引き抜くと、ペットボトルの底を正確に切り落とした。
丸めたフィルターシートを、その中に限界まで詰め込んだ。
即席のプレフィルターの完成だ。
それを上近少年たちにすぐに装着できる状態にしてから、私は胸ポケットからポーションを取り出した。
上近少年のマスクを僅かにずらして、隙間からポーションを流し込む。
そして、すかさず彼のマスクの吸気口に先ほどのプレフィルターを被せ、ダクトテープで隙間なく何重にも巻きつけて密閉した。
ポーションの細胞活性化作用が即座に機能し始めたのだろう。
上近少年が激しくむせ返り、ゆっくりと目を開けた。
「……し、静河、さん……? どう、し、て……」
「無理に話す必要はありません。立つことは可能ですか?」
「……は、はい。何とか。……でも、僕、確かここで——」
その時、上近少年が私の手に握られているポーションの空き瓶に気がついた。
「……ありがとう、ございます」
「お礼を言うのはまだ早いです。まずはここから脱出しなければ」
私は同じように少女にもポーションを流し込み、フィルターを被せた。
意識を取り戻した彼女も私を見て驚いたような顔をしていたが、今はここから脱出することを専念させる。
ポーションを摂取し、回復したとしても、二人とも、まだ足元がおぼつかない。
私自身も相当足元がふらついている。
典型的な酸欠の症状に襲われ続けている。
それでも立ち止まらない。
私たちはお互い支え合いながら、一歩ずつ、エリアの外へ向かって足を動かし続けた。
エリアの外へ出てすぐ、私は防毒マスクを急いで外し、新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んだ。
生きている。
私だけではない。
上近少年も、彼女もだ。
私たちはこのまま地上に戻ることにした。
準備広場まで戻ってくると、私は彼らを壁際で休ませた。
ポーションで傷ついた肺は回復しただろうが、体力までは回復させることはできないからだ。
今日の成果はゼロだ。
魔石一つ、回収できなかった。
むしろポーションを使用し、それ以外にもマスクのフィルターなどの経費も考えれば赤字である。
その時、上近少年が、
「静河さん……!」
と私を呼んだ。
一休みしたことで体力が少しは回復したのだろう。
上近少年が、まだ多少はふらつく足で立ち上がると、私に向かって深く頭を下げた。
「ありがとうございました! 僕だけだったら、未帰還者リストに名前が載っていました」
少女も上近少年の隣に立ち、少し気まずそうにだったが、それでもしっかりと頭を下げた。
「あなたがたが無事で本当によかった」
それは紛れもない本心だった。
「では」
彼らに背中を向けた。
ひどく疲れた。
まだ少し頭痛も残っている。
換金する魔石がないため、カウンターには向かわない。
だが、それでも、胸の中には、確かな満足感があった。
今日の夕食は何を食べよう。
「……刺し身にしましょうか」
そんなことを思って、協会を出ようとした時だった。
「静河さん……!」
と再び、上近少年に声をかけられた。
振り返れば、少女の姿はすでになかった。
彼女は彼女で思うことがあったのだろう。
それはいい。
「どうしましたか?」
「あの! もしよければ、今日の夕食、僕に奢らせてください……!」
彼が真っ直ぐな瞳で、私を見た。
「命を助けてもらったお礼をさせてほしいんです……!」
私たちが向かったのは、大通りから少し外れた場所にある、古びた定食屋だった。
店に入り、テーブル席に向かい合って座る。
壁に貼られた手書きのメニューを眺めた。
「静河さん、何でも好きなものを頼んでください!」
「好きなもの、ですか」
「はい! 本当に何でも大丈夫です!」
「そうですか」
私はメニューを見て、決めた。
「では、刺身定食で」
私がそう口にした瞬間、上近少年が「ああ……!」と小さな呻き声を漏らした。
私が見れば、
「い、今のは、別に、その、なんでもないです……! ……僕は水だけにすれば何とか」
聞こえないと思っているのかもしれないが、その呟きは思いのほか大きく、しっかりと聞こえてしまった。
私は口元が緩みそうになるのを堪え、告げた。
「気が変わりました。今日はA定食にしましょう」
「えっ? いや、でも刺身定食でも本当に大丈夫ですよっ!?」
彼はそう言うが、その顔には隠しきれない安堵が浮かんでいた。
「A定食は、豚の生姜焼きでしたよね。豚肉のビタミンB1と生姜の血行促進効果で疲労回復には最適です。副菜はひじきの煮物ですか。これはまた渋い。ですが、美味そうです」
私がそう言うと、上近少年は嬉しそうに笑って、
「すみません! A定食、二人前、お願いします!」
店員に注文を伝えた。
運ばれてきたA定食。
甘辛いタレの香りが鼻をくすぐる。
豚肉を一枚箸でつまみ、白米と一緒に頬張った。
肉の脂とタレの味が、口の中に広がる。
副菜のひじきの煮物も、味噌汁も、すべてが、
「……美味い」
この定食屋のレベルが高いこともあるだろう。
だが、それだけではない。
誰かと摂る食事は美味いのだ。
宿舎で一人で食べる時より、ずっと。
颯真くん。
種田精密の人たち。
『赤き戦斧』のメンバー。
それに上近少年。
彼らの顔を思い出しながら、もう一口、生姜焼きを頬張る。
二人とも無言で食事を楽しんでいた。
だが、上近少年がぽつりと溢した。
「……ダンジョン、どんどん変わっていきますね」
「はい」
上近少年なら掲示板に張り出された協会からの報告を見ているのは間違いないし、今日、実際に経験している。
「でも、僕は探索者を続けます。静河さんのように、ここで生きていきたいんです」
その眼差しに、恐怖は滲んでいた。
だが、それでも覚悟を決めたのだという、意思の輝きがあった。
私は箸を置き、彼を見た。
「私も、続けます。明日も、明後日も」
「はい……!」
私の言葉に、何故か上近少年はうれしそうに笑ったのだった。
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