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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾
第9部

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第87話:ゼロから、一歩から


 ダンジョンに入ってすぐだったが、私は足を止め、振り返った。


 数m後ろ、桜色した真新しい防具を身にまとった小柄な少女が立ち止まる。


 私と同じように背後を振り返り、


「何もないよ?」


 私に向かって、そう言った。


 私はそれには応えず、告げた。


「この先は、完全な自己責任になります」


 彼女は真っ直ぐに私を見て、言った。


「知ってる。受付で、同意書? にサインしたし。こう見えて運動とか得意」


 私はそれ以上何も言わず、前を向いて歩き出した。


 同意書にサインをしたと彼女は言った。


 何よりダンジョンは、自分の足で立つと決めた者すべてに開かれた場所だ。


 かつての私がそうだったように——。




 浅層の乾燥した道を抜け、中層への連絡路である大竪穴(スパイラル・ピット)に到着した。


 巨大なすり鉢状の空間を螺旋状に下るこの場所は、一部のルートが崩落しており、ロープによる降下が必須となる難所だった。


 かつて私が自らの手で鉄の楔を打ち込み、安全な支点を確保した場所でもあった。


 私は岩壁に近づき、バックパックから旧式のねじ込み式カラビナとロープを取り出した。


 自分が構築した鉄の杭にカラビナを掛け、ネジを限界まで締め込む。


 降下の姿勢に入り、ハーネスを通じて全体重を岩壁の支点に預けようとした。


 その時、岩の内部から軋む音が響いた。


 私は反射的に体重を足元へ戻し、ロープから手を離して壁際から距離を取った。


 支点の見た目は、以前と変わらない。


 だが、体重をかけた瞬間に伝わってきたのは、岩盤の内部に何らかの問題が発生し、強度が致命的に低下しているという事実だった。


 つい昨日までは問題なく使用できていたものが、ダンジョンの変容によって罠に変化していた。


 私は即座に見切りをつけ、カラビナを外してロープを回収した。


 さらに、腰からハンマーを引き抜き、かつて自ら打ち込んだその鉄の杭を側面から叩いた。


 力はほとんど入れていない。


 なのに、それは簡単に岸壁から落とすことができた。


 昨日までのデータを信じていた時のことは、想像したくなかった。


 背後で見ていた少女が、不思議そうに首を傾げた。


「せっかくの杭を落としちゃって……そこから降りるんじゃないの?」


 何も知らない彼女にしてみれば、そう思うのは当然だ。


「私が叩き落とした杭に体重をかけていれば、岩盤ごと崩れて底まで落ちていたでしょう」


 私が告げれば、少女は顔色をなくし、一歩後ずさった。


 私だから気づけたわけではない。


 黒木氏や颯真くん、他にも顔見知りの探索者たちや、今日まで生き残ってきた探索者なら気づくことはできただろう。


 だが、微細な変化に気づかない探索者がいて、あの杭を信じていたらどうなった?


 命を落としていただろう。


 そして血の匂いを撒き散らし、捕食モンスターを呼び寄せるのだ。


 その先は言うまでもないだろう。


 機能しなくなった設備は、二次災害を防ぐために排除しておくのが最も確実なリスク管理だった。


 ……さて、既存のルートは使用不可となった。


 落胆している暇はない。


 失われた安全は、自らの手で一から構築し直すしかない。


 私は腰からハンマーを取り出した。


 壁面に沿って歩きながら、岩肌を叩き始める。


 音の反響と手首に伝わる反発力から、岩の内部の密度を測り、崩落の危険がない箇所を探していく。


 打音検査である。


 背後から、少女の視線が私の手元と岩壁に釘付けになっているのを感じる。


 音で安全な岩盤を見分けるのだと、表面的に学習しているのだろう。


 ……初めて出会った時の上近少年のことを思い出した。


「……笑ってる? そんなに面白いの?」


 彼女の呟きが聞こえたが、私は特に応答しなかった。


 数分間の試行の末、最も硬質な反響を返す岩盤を見つけ出すことができた。


 私は予備の鉄の楔を取り出し、ハンマーで岩の隙間へと深く打ち込んだ。


 確かな手応えとともに、新たな支点が完成した。


 カラビナを掛け、ロープをセットし、張力を確かめる。


 ……問題ない。


 ——いや、本当にそうだろうか?


 深層でそうだったように、突然、変化するという可能性もゼロではない。


 私は完全に体重をかける前に、何度も張力を確認した。


 だが、いつまでもそうしていては、業務を始めることができない。


 背中を伝う嫌な感じの汗を意識の外に締め出し、私は真新しい支点に全体重を預けて、大竪穴の底へと降下を開始した。




 何事もなく、底へ辿り着くことができた私は、中層へと続くスロープを下りていく。


 肌に触れる空気の質感が、昨日と僅かに違うように感じた。


 カビの匂いに混じって、土が腐敗したような、今までここでは嗅いだことのない臭気が漂っていた。


 壁面の岩肌にある発光苔の光量も不均一だ。


 ……ダンジョンの変容は、確実に進行している。


 私が手帳に書き留めてきたデータは、もはや安全を保証しない。


 だがそれは、私が培ってきた経験そのものが失われたことを意味しているわけではない。


 気流の乱れを肌で感じとること。


 足裏から伝わる岩盤の振動を測ること。


 異常を感知すれば、それが何であるかを推測し、仮説を立てること。


 その泥臭い試行錯誤の過程は、この理不尽な環境で生き残るための武器なのだ。


 背後から、真剣な視線が私に向けられているのを感じる。


 私の足運び、視線の配り方、立ち止まるタイミング。


 そのすべてを観察し、吸収しようとする貪欲な気配は、やはり上近少年によく似ていた。


 少し開けた岩場に差し掛かった時、前方から複数の足音が慌ただしく近づいてきた。


 息を切らし、装備を泥で汚した探索者のパーティーだった。


「……あそこはもう通れないぞ」


 彼らの一人が、肩で息をしながら忌々しげに吐き捨てる。


「ただの乾燥した岩場だと思って踏み込んだら、いきなり足が沈んで。危うく腰まで呑み込まれるところだった」


 彼らは足を止めることなく、出口へ向かって足早に通り過ぎていった。


 私は彼らの言葉を拾い上げつつ、すれ違いざまにその背後を観察した。


 先頭の探索者は太ももまで泥が跳ねていた。


 一方で、最後尾の探索者は足首まで。


 そこから推測できることは、沈下速度には数秒の猶予があり、水ではなく高粘度の流動体に近いと考えられる。


 それらのデータを元にして、脳内で状況を組み立てた。


 前方にあるのは、本来なら硬質な花崗岩が続く安定したルートだ。


 それが今、泥沼に変わっている。


 岩盤そのものを液状化させる未知のモンスターの分泌物か、あるいはもっと単純にダンジョンの変容かもしれない。


 私はポーチから建築用の粉チョークを取り出し、先へと進んだ。




 該当するエリアの境界に到着した。


 ……なるほど。


 見た目は、普段と変わらない乾燥した岩の床が続いている。


 だが、見た目通りならば、先程すれ違った探索者たちは先へ進んでいたはずだ。


 私はキャップを弾き、粉チョークを前方の床に向けて広範囲に撒いた。


 粉チョークが岩盤に落ちた瞬間、表面が微かに波打ち、ゆっくりと沈み込んで消えていった。


 表面の薄皮一枚だけが乾燥した岩の形を保ち、その下は流動体に変化している。


 底はないと考えるべきだろう。


 視覚情報だけを信じて踏み込めば、一瞬で呑み込まれる悪辣な罠である。


 私は視線を上へ向けた。


 通路の側面の岩壁には、いくつか突起や亀裂が走っていた。


 足元が使えないのなら、壁面にロープと楔で即席のルートを構築して横移動するしかない。


 私はハンマーと鉄の楔、それに予備のロープを取り出した。


 ロープの片端を最も手前にある強固な岩角に結びつけ、張力を確認する。


 そこから壁面に身を寄せ、ハンマーで岩肌を叩き、打音検査を行った。


 硬い反響音が返ってくることを確認して、楔をあてがい、ハンマーを振り下ろす。


「……よし」


 楔が岩にしっかりと噛み合った。


 カラビナを通してロープを掛けた。


 そうやって私は少しずつ確実な足場を作り、新しく発生した罠の上を移動していく。


 作業も中盤に差し掛かってきた頃だった。


 壁面の突起に右足を乗せた。


 打音検査を行い、確かに硬質な音が返ってきたのに、足元から伝わってきたのは岩が崩れる嫌な感触だった。


 ロープのお陰で、私は底なしの泥沼に落ちずに済んだ。


 だが、ダンジョンの変容は、私の長年の経験すらも欺いた。


 もしこれが足元ではなく、楔を打ち込んだ場所だったら?


 私は震える息を長く吐き出し、張り詰めた神経を強制的に落ち着かせた。


 まだ泥沼の通路は残っている。


 永遠に辿り着けないのではないかという錯覚に襲われながら、それでも私は集中力を切らさず、岩の硬度を手で確かめ、渡り切ることができた。


 そうして辿り着いたエリアは、


「……変容は、ない」


 少なくとも、私が知覚する限り、ここは以前と同じエリアだと思われた。


 岩陰から、このエリアに本来生息している土属性の小型モンスターが姿を現した。


 環境が変わっていないのであれば、対処の手順は同じで問題ない。


 だが、油断は禁物だ。


 エリアに変容が及んでいない場合でも、モンスターに変容が現れている時がある。


 私は注意深く観察した。


 ……同じだ。


 ならば——。


 私はサバイバルナイフを引き抜き、動きの緩慢な対象の死角へ回り込んで処理した。


 拾い上げた魔石をケースに収めた。


 ふと思い出して振り返れば、泥沼のトラップの手前で少女が立ち往生していた。


 私が構築したロープはすでに回収している。


 彼女は悔しそうに岩壁と泥沼を交互に見て、ハンマーを取り出すと壁面を叩き始めた。


 だが、その表情はすぐに絶望に染まった。


 彼女はハンマーを固く握りしめ、私に視線を向けた。


「あたしには安全な音がわからない! どうやればいいの!?」


 大声で問いかけてくる彼女に、私はサバイバルナイフを鞘に戻しながら答えた。


「……見て盗むのではなかったのですか」


 その言葉に、少女はハッと息を呑み、慌てて口をつぐんだ。


 形だけ真似しても、本質を理解していなければ死ぬ。


 それを悟って俯く彼女をそのままに、私は業務を再開する。


 今はまだ、ここで安全に魔石を回収することができる。


 だが、いつまでそれが続くかは、わからない。


 明日なら、まだマシだ。


 最悪、次の瞬間に変容が起こる可能性も否定はできない。


 ここは安全なのだと考えず、これまで以上に慎重になりながら、私は対象を見つけては処理し、魔石を回収していった。




 本日のノルマを達成することができた。


 泥沼の先を見れば、少女はもういなかった。


 引き返したのか、あるいは別のルートを探しに行ったのか、それはわからない。


 私は来た時のルートを辿り、しかし決して信じすぎず、安全かどうか確認しながら、帰路についた。


 探索者協会のロビーで魔石を換金し、周囲を見渡す。


 少女の姿は見当たらなかったが、颯真くんの姿はあった。


 彼も私に気づき、右の拳を突き出してきた。


 届く距離ではない。


 私は微かに苦笑いをしながら、同じように拳を突き出して、彼の快活な笑顔に見送られて協会を出た。




 宿舎に戻ってきた私は、スーパーマーケットで購入した食材で親子丼を作った。


 簡単に作れるのに、なぜこんなにも美味いのか。


 そんなことを思いながら、同時に今日のことを考えていた。


 中層はすでに私の知っている場所ではない。


 むしろ深層と同じだと想定した方がいいだろう。


 なら、どうする?


 今日と同じロープと楔だけでは、私が求める安全には全く届かない。


 打音検査だけでなく、岩盤の奥の密度を測るための小型の超音波センサーを導入するのは?


 さらに、接着型のアンカーもいいかもしれない。


 検証すべき仮説。


 調達すべき資材。


 ゼロから始めるのだ、中層での業務を。


 そうして一歩ずつでも進んでいけば、それがいつか安全なルートになるはずだから。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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