第82話:噛み合う二人と、変容の手がかり
ダンジョンへ降りながら、私は昨夜のことを思い出していた。
夕食に何を食べるか、颯真くんと意見が合わず、結局、焼肉屋で食事をすることにした。
そして、意見が合わなかったのは、最初から最後までずっとだった。
まず、肉の種類から意見が割れた。
颯真くんはカルビを最初に頼み、私はロースから始めようとした。
次に意見が割れたのは、白米をいつ食べるか。
彼は最初から、私は終わりに。
飲み物も、サイドメニューも、最後のデザートまで、私たちの意見が一致することはなかった。
それでも彼は楽しそうで、それは私も同じだった。
「……昨日より、できる気がする。たぶんだけどな。よくわかんねえけど」
境界線を超えた直後、颯真くんがそう言った。
防毒マスクのフィルターを通した声は少しくぐもっていたが、彼が本気でそう思っていることは伝わってきた。
「私も同じです」
颯真くんが私を横目で見た。
私もまた、不思議とそう思っていたので、頷いてみせた。
一緒に食事をしたのは、今回が初めてというわけではない。
だが、昨夜のように遠慮なく衝突したのは初めてだった。
負けず嫌いで即断する彼の本質みたいなものが、はっきり見えた気がした。
その事実が、私に颯真くんと同じ感触を抱かせていた。
境界線から20分ほど歩いたところで、通路が二股に分かれていた。
昨日のものとも違う。
右の通路からは乾燥した風が、左の通路からは重く湿った風が吹いてきている。
私の五感と経験則が危険を告げるような明白な兆候は、どちらの通路にも見当たらなかった。
颯真くんは左の通路を見据えたまま、大剣の柄に手をかける。
「……危ねえな、こっち」
颯真くんが低く唸るように言った。
「俺の勘が、ハンパじゃなく嫌な感じがするって警報を鳴らしてやがる」
「……なるほど」
私は即答せず、しばらく考えてから、彼に告げた。
「そういうことならば、左に行きましょう」
颯真くんが驚いたように私を振り返った。
「……静河、お前、俺が今、危ねえって言ったの聞こえてなかったのか?」
「いえ、聞こえていました」
「なら、右じゃねえのかよ!?」
「そうですね。これが魔石を回収する普段の業務であれば、間違いなく右を選んでいたでしょう」
ですが、と私は続けた。
「私がここへ来た目的を思い出してください」
「……確か、中層を変容させてる、深層の震源地、その正体を掴むため、だったか」
「ええ、そうです。であれば、最も危険な場所にこそ、核心があるのではないか」
私は颯真くんを見た。
「つまり、あなたの直感が最大級の危険を告げているなら、そこに正解がある——というのが私の仮説です」
颯真くんが息を呑むのがわかった。
それから、彼は微かに笑って言った。
「……俺の勘を、そこまで信じるのかよ」
「ええ、信じています。あなたは私にはない素晴らしいものを持っている。その事実は何があっても揺るがない」
「……へえ、そうかよ」
何故か颯真くんは私から視線を逸らし、呟くように言った。
それから彼は短く息を吐きだすと、大剣を引き抜き、左の通路に向き直った。
「……行くぜ、静河」
「行きましょう、颯真くん」
左の通路は、歩くごとに様相が変わっていった。
壁面の亀裂の深さ、床面の岩盤の色の濃さ、足裏から伝わる振動の感覚。
当たり前だが、中層のパターンは通用せず、そして私はここの一次データを持ち合わせていない。
やはり、私のやり方は深層では機能しない——そう思った時、一方でこうも思った。
本当にそうだろうか、と。
かつての『私』にも、初めての現場は存在した。
まったく知らない施設、初めての工程、初めての人間関係。
深層と違い、事前資料はあったが、資料と現場が違ったことも当たり前のようにあった。
その時、『私』はどうしたか。
過去に、別の現場で学んだことを活かしたのではなかったか。
空間の読み方、人の動き方、異常の前触れがある時の空気の変わり方。
培ってきたものが、初めての現場でも機能したではないか。
経験は無駄にならないのだ。
私が『静河くん』になって一年。
ダンジョンで生きるようになって一年、だ。
今日まで生き残ってきた経験が、その事実が、今の私にはある。
岩盤が不安定な場所を踏む時の重心の置き方。
壁面を視覚だけでなく、音の反響で読む方法。
中層で積み重ねてきた事実が、今ここで、違う形で使うことができる。
五感だけではなく、これまで積み重ねてきた記憶を働かせながら、私は進んだ。
途中、颯真くんが僅かに驚いたような顔で私を振り返った。
彼の歩みにほぼ遅れることなく、私がついていったから。
だが、何も言わなかった。
彼も、私も。
そうして通路が小さく広がり、再び分岐する手前まで来た時だった。
前方の空気が変わった。
壁面の反響が、一点だけ吸い込まれるように消えた。
私が「そこです」と言いかけた、まさにその同じ瞬間に、颯真くんがそこを見た。
そしてそこから、それが現れた。
壁の継ぎ目が分かれ、半透明の体が這い出てきた。
長さは1mほどか。
全身が薄い青白い膜で覆われており、内側の器官が透けて見える。
頭部はなく、前端と後端の区別がほとんどない。
多数の細い脚が床を這い、上半身を持ち上げるように体を立てた。
内部で何かが圧縮されるように動いている。
中層では見られない異形。
元よりモンスターとはそういう存在だが、深層のそれは中層とは一線を画す。
生理的嫌悪、さらには本能的な恐怖が刺激される。
だが、それを抑え込み、颯真くんが踏み込もうとした。
対象を倒すために。
「……駄目です!」
私の声に颯真くんの足が止まり、彼が踏み込もうとした場所に衝撃波が打ち込まれた。
モンスターが放ったものだ。
「助かった、静河! けど、どうやって——!?」
「中を見ました」
それだけではない。
中層においても似たような攻撃をしてくるモンスターはいた。
その時の挙動が重なったのである。
攻撃を避けられると思っていたのか、対象から苛立ちのようなものがた伝わってきた。
そして、また、内部の動きが加速していく。
前端を持ち上げ、体内の圧力を高めている間、後端が浮いた。
脚が岩盤を離れ、腹の中央部が露出している。
「颯真くん!」
と、私がその名前を呼ぶ前に、彼はすでに動いていた。
対象がそんな颯真くんに気づき、彼を標的に選んだ。
体内の圧力を高め、衝撃波を放つ——そんなことはさせない。
私は足元に転がっていた、手頃な大きさの石を拾い上げた。
そして、颯真くんを標的に絞った対象の前端へ向けて、正確な軌道で投擲した。
石が対象の前端に直撃した。
対象は、不意の衝撃に忌避反応を示し、衝撃波を颯真くんではなく、私を標的にして放った。
来る、とわかっていた。
だから、躱した。
——そんなふうに言えば、まるで英雄か何かみたいだが、実際は違う。
紙一重だった。
だが、隙を作ることはできた。
彼が——颯真くんが大剣を振り抜く。
露出した腹の中央部に、その剣が深く、鋭く、突き刺さる。
深層のモンスターが颯真くんの一撃によって、光の粒になって霧散した。
青みがかった魔石が、岩盤に転がった。
颯真くんが拾い上げた魔石は、中層では見たことのない、薄く透き通った水色だった。
彼はそれをしばらく見つめていたが、何かに気づいたように私を見て、言った。
いや、興奮した口調で叫んだ。
「おい、静河! 今、俺たち、連携したんじゃねえか……!?」
「はい。いけましたね」
「何でだ!? 昨日は全然だったのに!」
「カルビです」
「……は? お前、何を……」
颯真くんが戸惑うのがおかしくて、私は少しだけ笑った。
今のは少し、いや、かなり意地悪な言い方だったかもしれない。
私は言い直した。
「昨夜、一緒に焼肉屋に行きましたよね」
颯真くんが頷く。
「あなたがカルビを焼き始めてから、食べるまでを見ていました。火加減。肉を返すタイミング。焼いている間、肉に触れる回数。……本気で意見をぶつけ合って、さらに観察して、あなたという人間が、完全とは言えませんが、それでもわかりましたから」
「……そんなことでわかるのは、この世界中でお前だけだろうよ、静河」
颯真くんが呆れたように笑った。
しかし、すぐに、こう続けた。
「けど、俺もわかったぜ。お前の好みってもんが。お前、石を使うの好きだよな?」
「……特に好きというわけではありませんが」
そこにあるものを利用しているというだけで。
「いいんだ。大丈夫だ。隠さなくても」
言いながら、彼が笑う。
それだけで、冗談だと伝わる。
「やっぱり、昨日よりできるぜ」
「……はい」
次、その次と、前の個体と同じ対象が現れ、それに対処する私たちの連携は段々とスムーズになっていった。
そして——。
4体目が壁から這い出てきた時、颯真くんが動き、私も動いた。
声はない。
確認もだ。
それでも私たちは連携して、深層のモンスターを処理することができた。
魔石が落ち、颯真くんが私を見た。
私も颯真くんを見た。
どちらも何も言わなかった。
ただお互いに、上手くやれると、そんな確信を強く持っていた。
奥へ進み、分岐が現れ、そのたびに颯真くんの直感が危険だと告げる方へと進んでいく。
そうして、
「静河……こいつはヤバい」
それ以上、彼の言葉は続かなかった。
何度目の分岐だろうか。
颯真くんが右の通路を見て、唇を強く噛み締めていた。
……なるほど。
その先か。
「……行くぜ、静河」
「はい」
それでも、私たちは、その通路を選択し、進んだ。
空気が変質していく。
防毒マスクのフィルター越しに、鉄錆の臭いに混じって、生臭さみたいなものが微かに絡みついてくるようになった。
足裏から伝わる振動もこれまでのダンジョンの脈動とは違う、もっと粘り気のある不快な感じだった。
「…………おい、静河。壁が」
隣を歩いていた颯真くんが足を止め、大剣を握ったまま壁面を睨みつけた。
私もライトの光を壁へ向けた。
「これは……」
金属のような鈍い光沢を放つはずの深層の岩盤が、異常な変質を起こしていた。
壁面一面に、青黒い結晶体が隙間無く群生していたのだ。
……いや、違う。
結晶というより、それは、薄く、鋭く、そして一枚一枚が重なり合うようにして岩肌に張り付いていて、
「……鱗みてえじゃねえか」
颯真くんの言う通りだった。
まるで巨大な生物の鱗のようだった。
鉱物という無機物でありながら、生物的な脈動すら感じさせるその光景は、生理的嫌悪感を抱かせるのに充分だった。
私は壁面に近づき、直接触れることは避けながらライトの角度を変え、その結晶の群れを観察した。
「……向きが、揃っています」
「向き?」
「はい。この鱗のような結晶は、ランダムに生えているわけではありません。すべてが、通路のさらに奥——北西の深い方向を指し示すように、重なり合っています」
川の流れに水草がなびくように。
あるいは、強烈なエネルギーの奔流がこの通路を絶え間なく吹き抜け、岩盤をこのような異常な形に書き換えてしまったかのように。
颯真くんが、結晶が指し示す暗闇の奥を見据えた。
「……ああ、そうだな。俺の勘も、この奥には行くなって言ってやがる。つまり、元凶は——」
私は手帳を取り出し、座標と結晶の向き、角度、この生物的な様相を素早くスケッチして書き留めた。
そして、手帳をバックパックに収めると、颯真くんに向かって告げた。
「帰りましょう」
「……行かねえのか。この先が震源地だぞ」
「今の私たちの装備と情報量では、この先に踏み込んで無事に帰還できる保証がありません。手がかりを得た。今日の業務はこれで完了です」
颯真くんは、鱗の生えた壁面と、その奥の暗闇を数秒間睨みつけていた。
やがて、短く息を吐き出し、告げた。
「……わかった。静河の判断に従う」
私たちは不気味な回廊に背を向け、来た道を引き返し始めた。
だが、途中で私は一度だけ立ち止まり、振り返った。
地上へ帰還した。
換金を済ませ、井葉さんに今日の記録を提出した。
詳細な説明を求められるかと思ったが、彼女は「預かります」とだけ言って、スケッチのページを慎重に扱った。
そして、こう付け加えられた。
「……また、明日ですよ、静河さん」
「……ええ、わかっています。また明日」
それで、彼女はぎこちないながらも、微笑んだ。
協会のロビーを抜け、外に出た。
颯真くんが隣に並んだ。
「今日も行くだろ?」
「ええ、行きましょう」
私たちは顔を見合わせ、どこで食べるかを口にした。
「私は洋食屋で」
「俺は寿司だな」
一瞬の間があって、颯真くんが吹き出した。
「おいおい! ダンジョンではあんなに息がぴったりだったじゃねえか!」
「不思議ですね」
「全然不思議がってねえだろ」
私たちは歩き出した。
結局、どちらの希望でもなく、少し歩いたところにあった牛丼のチェーン店に入った。
運ばれてきた颯真くんのトレイを見て、私は密かに嘆息する。
特盛に肉を追加し、生卵を二つ落とし、さらに無料の紅生姜を山のように乗せている。
後先を考えない、直感と欲望のままのカロリー摂取だ。
対して私のトレイには、並盛のつゆだくと、生卵。
そして、標準の味噌汁から変更した豚汁。
かつての『私』が、日付の変わる限界の残業明けに編み出した、数百円の予算内で疲労と空腹を最も効率よく癒やすための、ささやかな贅沢のセットである。
生卵は溶きすぎず、卵白のコシを軽く切る程度に留める。
次に、丼の中央の肉を箸でわずかに寄せて窪みを作り、そこへ卵を流し込む。
最後に七味を、肉ではなく卵の表面にだけ軽く振る。
この手順を踏むことで、つゆの染みた肉と、純粋な卵のまろやかさを段階的に味わうことができる。
颯真くんが紅生姜の山をかき分けながら、私の丼を顎で指した。
「美味いのかそんなんで」
「私の最適解です」
「俺には理解できそうもねえな」
颯真くんが豪快に肉をかきこむ。
私も牛丼に箸をつけた。
甘辛いタレの染みた牛肉と七味の香りが効いた卵が、白米とともに口の中に広がる。
次に、豚汁を一口。
根菜の甘みと豚肉の脂が溶け出した熱い汁が、何とも言えず、
「……美味い」
私と颯真くんの言葉が期せずして重なった瞬間である。
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