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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾
第8部

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第81話:噛み合わない二人、それでも

第8部、始まりです。

 今日から、業務の形が変わる。


 一人ではなく、二人——私と颯真くんで、ダンジョンへ潜る。


 私のこれまでのダンジョンにおける生存戦略に、他者の直感という私にはない要素を組み込む。


「大丈夫だ。俺たちなら上手くやれる!」


 朝、顔を合わせた時、颯真くんが言った言葉だ。


 そして私たちは防毒マスクを装着し、境界線を超え、深層へと足を踏み入れた。


 圧倒的な重圧。


 足元の岩盤からは微細な振動が絶え間なく伝わり、壁面は金属のような鈍い光沢を放っている。


 前回、私が深層に踏み入った時にはあった、陽炎のような歪みがない。


 昨日安全だった道が、今日は死地に変わる——。


 入院中だった颯真くんに言われた言葉だ。


 中層であれば、過去の記録との差分を探せばよかった。


 だが、ここではすべてが、私にとって初めて観測する一次情報である。


 足裏から伝わる岩盤の異常な硬度。


 等間隔で響いてくる微細な振動の波長。


 鉄錆とオゾンのような刺激臭が、フィルターの寿命をどれだけの速度で削っていくかの推測。


 私は一歩を踏み出すごとにそれらの未知の要素を脳内に展開し、ゼロから安全マージンを設定するための土台を構築していく。


 当然、歩みは極端に遅くなる。


 颯真くんもまた、この異質な空間が放つ暴力的な気配を直感で感じ取り、不用意に前へ出ることを警戒しているようだった。


 そうして神経を限界まで張り詰めながら慎重に進んでいけば、前方の空間が僅かに広がり、通路が二つに分岐していた。


 正面と右。


 正面の通路の奥からは、重く、湿った風が吹き付けてくる。


 颯真くんがその正面を見据え、背中の大剣の柄に手をかけた。


「……正面だ。何かがいる。——が、行ける。問題ねえ」


 私は彼の直感を信じ、それに合わせようと一歩を踏み出しかけた。


 だが、私のこれまで築き上げてきた生存戦略が強烈な警告を発した。


 周囲を観察する。


 正面の通路は壁が不規則に隆起し、足元には鋭利な岩の破片が散乱している。


 死角が多く、不測の事態に陥った際の撤退時の足場も悪い。


 一方、右の通路は風の流れも穏やかで、極端な地形の歪みも見受けられない。


 安全マージンを確保できるルートだ。


 これまでの私であれば、間違いなく右の通路を選んでいただろう。


 だが、私のやり方では、深層の理不尽には届かない。


 足りないものを補うため、私は彼の直感を頼り、彼と組んだ。


 ならば、ここで私の手順を優先し、我を通すことは、彼と組んだ意味を根底から否定することになる。


「……わかりました。正面に行きましょう」


 そう告げれば、颯真くんは驚いたようにわずかに目を見開いた。


 私のこれまでのやり方なら、絶対に選ばないルートだとわかったからだろう。


「おう。俺の勘を信じろ、静河!」


 マスク越しでも颯真くんが笑ったのがわかった。


 私は短く頷き、ルートを確認するため、先行して正面の通路へ踏み出すと、半歩遅れて颯真くんが続いた。


 正面の通路は、奥へ進むほどに徐々に天井が低くなっていく構造だった。


 岩壁に、何かが残した痕跡がある。


 ライトで照らし出し、表面を観察する。


 爪痕にしては、深さと間隔が規則的すぎる。


 かといって、人工的な器具の跡にしては削り口が不均一だ。


 床からの高さで推測すれば、成人の腰より低い位置を中心にその痕跡が集中している。


 単なる通過時の摩擦痕か、それとも特定のモンスターが縄張りを主張するためのマーキングか。


 私は背後の気流と前方の静寂に異常がないことを確認し、バックパックのサイドポケットへ手を伸ばした。


 手帳にこの一次データを書き留めるため、足を完全に止める。


「止まるのか」


 背後から、颯真くんの切迫したような声が降ってきた。


「記録をつけます」


「……後じゃダメなのか?」


 手帳のページを開きかけていた私の手が止まる。


 彼の声には、深層で呑気に手帳に記録している場合かという怒り、あるいは苛立ちみたいなものはなかった。


 焦り、危機感——声にあるのは、そう言ったものだった。


 私には感じ取れない何かを、彼の本能的な直感が感じ取り、立ち止まるべきではないと告げているのだろう。


 だが、記録を残さない観察は、翌日以降の仕事に一切の情報を還元しない。


 記憶しておき、あとで手帳に記録することもできるが、大事な情報が抜け落ちてしまうこともある。


 一年以上、経験を積んだ中層であれば、それでも構わない。


 だが、ここは深層だ。


「1分かかりません」


「……わかった。周囲は見ておく」


 颯真くんはそれだけを言って、大剣の柄に手をかけたまま警戒してくれた。


 私は手帳にペンを走らせ、痕跡の座標、形状、床からの高さを簡潔に書き留めると、即座にバックパックへ戻した。


「終わりました」


「……おう」


 歩行を再開する。


 背後で、颯真くんの足音が続いた。




 最初の事故が発生したのは、狭い通路が緩やかに湾曲し、少し開けた空間へと接続するその手前だった。


 私の後ろを歩いていた颯真くんが、突然、私の視界を遮るように前へ出た。


「来るぞ」


 私がその言葉の意味を脳内で処理し、前方の状況を認識するより早く、彼の身体はすでに跳躍していた。


 背中の大剣を抜き放ち、岩壁の死角から這い出てきた何かの懐へ肉薄する。


 私は一拍遅れて、状況を把握した。


 前方の岩壁に走っていた亀裂が内側からの圧力によって押し広げられ、全長3mを超える巨躯が這い出てきたのだ。


 そして、その後方からもう一体。


 結晶質の外皮が、頭部から尻尾までを強固な鎧のように覆い尽くしている。


 その外皮は、周囲の金属質な岩壁と完全に同化する光沢を放っており、もし静止していれば、ただの岩の隆起と見誤るだろう。


 一歩、対象が前肢を踏み出すたびに、足元の床が自重で軋む。


 腹部の奥深く、外皮が僅かに薄くなっている継ぎ目から、生体熱を示すような鈍い赤みが脈動するように透けて見えた。


 内部で内燃機関のような器官が駆動していることを示唆している。


 これまで中層で処理してきた対象とは、生物としての設計思想が根本的に違う。


 私のサバイバルナイフで、あの結晶質の外皮を貫くことは不可能だ。


 だが、あの熱源が露出している薄い継ぎ目ならどうだろうか。


 私の腰のポーチには、常備している捻挫用の携帯冷却スプレーがある。


 これを対象の高熱部位に直接吹き付ければ、かつて極寒冷エリアで実証したのとは真逆のアプローチ——極端な温度差による熱衝撃(サーマルショック)を引き起こし、コンマ数秒の隙を作れるのではないか。


 私はその仮説を実行するため、ポーチへ手を伸ばし、スプレーの円筒を掴み取ろうとした。


 だが、その前に颯真くんの大剣が、対象の強固な外皮の継ぎ目を正確な角度で叩き割っていた。


 ……物理打撃が通る。


 彼は対象を視認したその一瞬で、装甲の強弱と攻撃すべき一点を直感で割り出していた。


 私はボトルを引き抜くのをやめた。


 颯真くんは正面の二体を、大剣の膂力とステップで同時に捌いている。


 私は自身の担当領域として、後方および側面の空間の走査へ移行した。


 外皮は岩盤の光沢と同化している。


 それでも慎重に見極めれば——。


 いた。


 一体。


 岩壁の極めて高い位置に、張り付いていた。


 正面の二体に意識を集中している颯真くんは、頭上のその脅威に気づいていない。


「上、右です!」


 私は短く、位置情報だけを声に出した。


 颯真くんが反射的に視線を右上へ動かした刹那、壁面に張り付いていた一体が岩を蹴り、彼を押し潰すための落下軌道に入った。


 間に合わない。


 私は前に踏み出した。


 落下してくる対象の軌道の外側へ自らの身体をねじ込み、腰からサバイバルナイフを抜き放つ。


 狙うのは、落下姿勢によって一瞬だけ無防備になる、外皮の薄い腹部側だ。


 そこへ切っ先を突き出したが、対象の落下の運動エネルギーが、私の想定を上回っていた。


 直撃は避けられなかった。


 肩に重い衝撃が叩き込まれ、私は岩壁の方向へと弾き飛ばされた。


 背中から岩盤に激突し、衝撃で呼吸が止まった。


「静河!」


 背後から、颯真くんの切迫した声が聞こえた。


 だが、振り向いて応答する余裕はない。


 私に刃を弾かれた対象が、体勢を立て直して再びこちらへ向かってくる。


 腹部側にはナイフによる浅い切り傷が入っているが、運動機能に支障をきたすようなダメージには至っていない。


 背後で、颯真くんが大剣で正面の一体を完全に仕留めた重い音が響いた。


 だが、彼がもう一体と向き合い、後退しながら大剣の間合いを調整していたせいで、私たちは互いの位置関係を把握しないまま、狭い通路の奥へと押し込まれていた。


 私の前方に、対象が一体。


 私の後方に、颯真くんと交戦中の対象が一体。


 通路の幅が極端に狭い。


 私は自分の前方にいる対象を確実に処理するため、即座に計算を走らせた。


 正面から突進を受け止めることは不可能だ。


 ならば、対象を引きつけ、右後方へと斜めにステップを踏んで軌道から外れ、すれ違いざまに腹部の継ぎ目を突く。


 それがこの狭隘な空間において、私が導き出した最も安全な手順だった。


 対象が踏み込むタイミングに合わせ、私は計算通りに右後方へ身体を沈み込ませた。


 だが、そこにあるはずの空間は、空いていなかった。


 颯真くんに激突したのだ。


 彼は彼で、目の前の対象を大剣のフルスイングで確実に仕留めるため、無意識のうちに最も力が乗る位置——左後方へと大きくステップを踏み込んでいたのだ。


 互いが自身の敵を処理するため最適な一歩が、この狭い通路において完全に交差してしまった。


 背中合わせでの衝突。


 想定外の衝撃により、私の重心が大きく崩れる。


 同時に、颯真くんも踏み込みの体勢を崩され、大剣を振り抜くための空間とタイミングを完全に失っていた。


 私が躱すはずだった対象の突進が、体勢を崩した私へと迫る。


 そして颯真くんの側も、彼が仕留め損なった対象が牙を剥いて迫っているはずだ。


「……舐めんなッ!」


 颯真くんが吼えた。


 彼は大剣を振り直す余裕がないと悟るや否や、無理やり両足で硬い岩盤を踏み抜き、下半身のバネだけで強引に上半身を捻った。


 そこには、私が重んじる論理的な挙動も、剣術の美しい型も存在しない。


 ただ純粋な、生存本能に基づく暴力的なまでの力技。


 その圧倒的な膂力は、私の筋肉構造では決して出力できないものだった。


 私を襲おうとしていた対象の突進力ごと、彼は自らの肩と腕の力で押しつぶすようにして、岩壁へと叩きつけた。


 岩盤がひび割れる凄まじい音が響く。


 私は即座に反転し、颯真くんの背後——彼が仕留め損なったもう一体へと向き直った。


 サバイバルナイフのグリップを強く握り直す。


 これまでの一次データはない。


 だが、中層で処理してきた甲殻類・粘性体モンスターの経験則から導き出せば、頭部後方から体の中心軸にかけての内部に、生命活動の核が存在する確率は極めて高い。


 確証はない。


 だが、今はその仮説を実行するしかない。


 私は腰のポーチから捻挫用の冷却スプレーを引き抜き、対象の腹部、生体熱が透けて見える外皮の薄い継ぎ目へ向けて、至近距離で吹き付けた。


 マイナス数十度の冷気が高熱部位の温度を急激に奪い、熱衝撃を引き起こす。


 微細な亀裂音とともに、対象の動きが一瞬だけ完全に強張る。


 そのコンマ数秒の遅滞の間に、右手のナイフの切っ先を深く押し込んだ。


 刃が核を貫く、確かな手応えが掌に伝わってきた。


 対象が光の粒となって霧散する。


 背後で、颯真くんが岩壁に押し付けた対象を完全に仕留めた音がしたのは、私とほぼ同じ時だった。


 通路に、完全な静寂が戻った。


 3つの魔石が岩盤の上に落ちている。


 颯真くんが大剣を鞘に戻し、壁に背中を預けて荒い息を整えていた。


 私もまた、岩壁に手をついた。


 アドレナリンが引いていくにつれ、痛みが遅れて主張し始める。


 骨に異常はないが、筋肉の深部に強い打撃が残留しているのがわかる。


 しばらくの間、私たちはお互いに口を開かなかった。


 沈黙を破り、先に声を漏らしたのは颯真くんだった。


 そしてその声には、微かな笑いが混ざっていた。


「俺が前に出すぎた」


「私の後方確認が遅かったです」


 互いの失敗を短く報告し合う。


 颯真くんが私を見た。


「……お互いに気を使いすぎたな」


「はい」


 颯真くんが腰を落とし、岩盤に転がっていた魔石を二つ拾い上げた。


 手袋に包まれた掌に乗せ、ライトの光で眺める。


 深層のモンスターの魔石は、中層で回収してきたものとは明確に色の深みが異なっていた。


 黒地の結晶の中に、深い金色の脈が滲むように走っている。


「……だが、俺たちは生きてる」


「……ええ」


「今日は失敗した。けど、よく言うだろ。失敗は成功のもとって。つまり、これから先、俺たちは絶対に成功する!」


 颯真くんが笑った。


 少し前までの私ならば、楽観的すぎると考えただろう。


 だが、今日の私は違った。


「……ええ、そうですね」


 そう肯定することができた。


 私は残り一つの魔石を拾い、ケースに収めた。


「とはいえだ。このまま進むのは絶対に危険だ」


 私のダメージ、颯真くんの体力の消耗。


 何より、互いの連携に関する事前データの決定的な不足。


「戻りましょう」


 私たちは来た道を引き返した。




 境界線を越え、中層に戻ってきた。


 私たちは防毒マスクを外し、呼吸を整える。


「さて、また行くのは当然だけどよ。このまま行っても」


「ええ、今日と同じことの繰り返しになるでしょう。お互いに歩み寄り、相手の挙動に合わせようとするだけのやり方では、不測の事態において機能しないことが証明されましたので」


 颯真くんが私を見た。


「じゃあどうする?」


「……お互いに歩み寄るのではなく、お互いをもっと理解すべきなのかもしれません」


「理解、か」


 颯真くんは短く呟いた。


 それから何か考え込み始めたようで、私たちは黙って、中層の通路を歩き始めた。




 地上へ帰還し、探索者協会での換金手続きを済ませた。


 カウンター越しに、井葉さんが私を見た。


 魔石が深層で回収したものであることは、すでにテスターを通したことで判明している。


 だが、彼女はそれについて深く言及することはなかった。


 明細をトレイに置いて手渡す時、


「……気をつけてくださいね」


 と、言ってくれた。


 颯真くんも換金を終え、私を見た。


「静河、飯に行こうぜ」


「颯真くん、食事に行きましょう」


 図らずも、私たちの声が重なった。


 私たちは顔を見合わせ、颯真くんが吹き出した。


「ダンジョンであれだけ息が合わなかったのに、こんなタイミングで息が合うとか。最高かよ」


 腹の底からおかしいと、そう感じているような笑い方だった。


 そしてそれは私も同じだった。


「けど、珍しいよな。静河から飯を誘うって。何でだ?」


「お互いを理解し合うための第一歩として、いいのではないかと考えました」


「好みを把握することは大事だもんな」


「……いや、それはまた話が違うと思いますが」


「違わねえよ。そういうことなんだよ。で、俺も同じ理由で、飯をくおうと誘ったわけだ。じゃあ、行こうぜ」


 颯真くんが歩き出す。


 私もそれに続く。


「いつか行った定食屋でいいよな」


「中華にしましょう」


 今度は息が合わなかった。


 彼が笑い、私も笑う。


「なあ、今日失敗したのって、お互いに遠慮したからだよな?」


「ええ」


「なら、俺は譲らねえよ? 失敗したくねえからな」


「そういうことなら、私も譲れませんね」


 結局、夕食は定食屋でも中華でもなく、焼肉にした。


 こういう日があってもいいだろう。

最後まで読んでいただきありがとうございます。


第8部は第86話で完結する予定です。

第5部から続いてきたダンジョンの変容に対する答えを出しつつ、皆さんに楽しんでいただけるものになるよう、頑張って更新したいと思います。


もし、少しでも『面白い』『続きが気になる』と思っていただけましたら、

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