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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾
第7部

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第74話:深淵の境界と圧倒的な不足


 そこは、中層と深層の境界面、第12層の手前と呼ばれる場所だった。


 その先に深層がある。


 変容の震源地は深層だと考えている。


 深層に入ることで、変容について明らかにすることができるのか、それはわからない。


 それでも行くしかない。


 だから、行く。


 深く潜るにつれ、肌にまとわりついていた中層特有の湿気が薄れ、大気の質が変わっていくのを感じた。


 私は立ち止まり、ショルダーストラップに固定したアナログ式の温湿度計と気圧計に視線を落とす。


 気温は中層の平均より数度高い。


 だが、湿度は極端に低く、何より気圧の数値が異常だった。


 緩やかな斜面を下っているだけのはずなのに、計器の針は、まるで分厚い水底に沈められたかのような急激な気圧の上昇を示している。


 見えない壁に全身を圧迫されるような、物理的な重圧。


 呼吸をするたび、カビの匂いの代わりに、鉄錆とオゾンのような刺激臭が鼻の奥を突く。


 視線を壁面に向ける。


 岩肌は、まるで金属のような鈍い光沢を帯びていた。


 私は腰からハンマーを引き抜き、その表面を軽く叩いて確かめる。


 甲高く耳障りな反響音。


 ハンマーを握る手に、骨まで痺れるような強い反発が返ってきた。


 花崗岩や石英といった、これまでの地質の延長線上にある硬度ではない。


 差し迫った脅威がないことを確認してから私は手帳を取り出し、これらの一次データを記録した。


 そして、安全確認のルーティンとして、足元の岩の欠片を拾い上げ、数m先の空間へ向けて軽く放り投げた。


 放物線を描いた岩の欠片が、空中に生じていた陽炎のような微細な歪みに触れた、その瞬間だった。


 音はなかった。


 ただ、岩の欠片が微塵に粉砕されて砂のように崩れ落ちたのだ。


 トラップであって欲しかった。


 だが、そうではない。


 大気そのものが、物理法則を無視した暴力を内包しているようにしか感じられなかった。


 背筋に冷たいものが走り、私は颯真くんの言葉を思い出した。


 深層は常識が通用しない場所だ、と。


「……今日は、ここまでです」


 手帳を収め、来た道を引き返す。


 私は途中で一度だけ、振り返った。




 探索者協会のロビーに戻ってくると、見知った顔があった。


 黒木氏だ。


 彼は掲示板の前に立ち、腕を組んでいた。


 私は自販機で缶コーヒーを二つ買い、彼に近づいた。


「……黒木さん」


 声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。


 缶コーヒーを差し出せば、無言で受け取った。


 すぐには口をつけず、冷めた視線をロビーの虚空に向けた。


「……気が変わって、俺の誘いを受ける気になったか?」


 かつて、公衆の面前で受けた深層の観測手としての誘い。


 その言葉に、私は頭を振った。


「光栄なことですが、違います。私個人の業務として、深層についてお聞きしたいことがあります」


 黒木氏は太い指先でプルタブを弾いた。


 コーヒーを一口飲むと、こちらを見る。


「……一人で行くつもりか」


「はい」


「やめておけ、とは言わん。お前のことだ。磁気干渉への対策くらいはしてあるんだろうな」


「アナログの計器を揃えました」


 黒木氏は短く息を吐いた。


「俺たちが地上や中層で信じてきた物理や化学の法則が、あそこでは狂う。どれだけ経験を積んでも、パターンは読めない。常に手探りだ」


 ベテランである彼でさえ、法則を見出せない。


 予測を拒絶する空間。


「……黒木さんは、あのような環境へ、何を持ち込まれているのですか」


 私の問いかけに彼は答えず、缶コーヒーを口に含んだ。


 彼はロビーの探索者たちを眺め、私もそれに倣うように彼らを見た。


「……役に立たないとわかっていても、持ち込めるだけのアナログだ」


 黒木氏が呟くように言った。


「極端な温度でも硬化しない高粘度の潤滑油。硬すぎる岩盤に退路を固定するための接着型アンカーと粘着性のマーカー。だが……」


 彼は遠い眼差しをした。


「それでも足りない時は、足りない」


「……ありがとうございました」


 私は一礼して、彼のもとを離れた。




 数日後。


 私は準備広場のいつものベンチで、装備の最終確認を行っていた。


 境界面で得たデータと、黒木氏の言葉を考えながら、選び抜いたものだ。


 重い鉄の杭とハンマーは機動力を落とし、それは深層において致命的だと考え、黒木氏が言っていた軽量の接着型アンカーと粘着性の高いマーカーにした。


 次に、防毒マスク。


 足を踏み入れた時に感じた鉄錆とオゾンのような刺激臭を考慮し、フィルターは最高等級のものへとなっている。


 そして光源は、電源を必要としないケミカルライトの束。


 颯真くんのアドバイスを受けた気付け薬の小瓶。


 指先で感触と重さを確かめながら、一つずつ確認していく。


 私の目的は、深層でモンスターを処理し、魔石を回収することではない。


 生きて深層の観測データを持ち帰ることだ。


 そのために特化した、これが必要最低限の装備一式だった。


 バックパックのバックルを締める。


 立ち上がると、その重量はいつもよりずっと軽かった。


 スロープの前に立つ。


 ダンジョンの奥から湿った風が吹き上げてくる。


 脳裏にフラッシュバックするのは、先日見た光景だ。


 空間の歪みに触れた石が、微塵に粉砕されて砂のように崩れ落ちた。


 判断を誤れば、あの石のように自分がなる。


 叫び出したくなるような恐怖に襲われ、足がすくむ。


 だが、ここで引き返す、そういう選択肢はなかった。


 これからも中層で業務を継続していくため、これは必要なことなのだ。


 私は深く息を吸い込み、深層へ向かうための一歩を、今、踏み出した。




 中層を抜け、数日前に調査した境界面へ到達した。


「…………」


 一歩、踏み入れる。


 入った。


 第12層。


 深層の浅い部分。


 空気が、重圧となって全身にのしかかってきた。


 静かだ。


 だが、その裏側に圧倒的な暴力の気配が潜んでいると、理屈ではなく感覚としてわかった。


 こんなことは初めてだった。


 足元から、微かな振動が伝わってくる。


 私はケミカルライトを壁面へ向けた。


 緑色の淡い光が照らし出したのは、硬質なはずの岩肌が、どろりと粘り気を帯びて蠢く様だった。


 巨大な肺が呼吸を繰り返すように、壁がゆっくりと膨らみ、そして不自然な角度で窪んでいく。


 岩の裂け目からは、内臓を思わせる湿った光沢が覗き、光が届かない影の奥で、地形がドロドロと再構築される粘着質な音が聞こえるようだった。


 地形そのものが一定の形を保っていない。


 ——昨日安全だった道が、今日は死地に変わる。


 颯真くんが言っていた言葉を思い出すと同時に、私は確信もした。


 やはり、ここが変容の震源地である、と。


 だが、私がダンジョンで生き残るために拠り所としてきた計算式が、ここでは根底から否定される。


 進めば、確実に死ぬ。


「……撤退だ」


 生き残らなければ、次はない。


 私は深層に背を向けた。


 手帳の余白に書き残した問い。


『深層には、何があるのか』


 答えられない。


 今は、まだ。




 宿舎の自室で、私は塩むすびを食べた。


 本当は何も口にしたくなかった。


 だが、それでは駄目だと、かろうじて食べられそうなのがこれだったのだ。


 米の甘みと、塩のしょっぱさ。


 それはわかる。


 だが、わかるだけだった。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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