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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾
第7部

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第73話:手探りの領域と、彼の問い


 準備広場でいつものベンチに腰を下ろそうとして、私は少しだけ視線を巡らせた。


 広場の空気は、以前のような根拠のない熱狂や、見えない脅威に怯えるだけの沈んだものではなくなっていた。


 探索者同士が集まり、床に広げた手書きの地図を指さして意見を交わしている。


 別の探索者たちは、未知のガスに備えてか、互いの防毒マスクの気密性を念入りに確かめ合っていた。


 ダンジョンが姿を変えようとしている。


 その不条理を前に、彼らはただ悲観するのではなく、生き残るためのそれぞれのやり方を模索し始めている。


 誰もが、自分の足で立とうとしていた。


 彼らもまた、理不尽な現場で今日を生き抜こうと足掻く人間だった。


 私はベンチに座った。


 最終工程を行うことで、日常からダンジョンへと、私の意識を強制的に切り替えていく。


 この地味な確認作業の一つひとつが、私が明日を迎えるための命綱だった。


全条件(コンディション)規定値内(オールグリーン)


 私は立ち上がり、私の現場であるダンジョンに向かった。




 本日の目的地は、中層の南東に位置する『砂礫の迷宮(グラベル・メイズ)』と呼ばれているエリアだ。


 ここは足元が細かい砂で覆われ、歩を進めるたびに靴底が深く沈み込む。


 視界は常に微小な砂塵によって遮られ、防塵ゴーグルとマスクが必須となる。


 当然、体力と注意力の消耗は激しい。


 その分だけ競合する探索者は少なく、一定の利益を確保しやすいという利点があった。


 だが、ここでも、いつ変容が発生するか、あるいはすでに発生しているか——。


 私は足の裏から伝わる砂の流動を感じ取りながら、いつも以上に慎重に、岩壁に沿って進んでいく。


 砂の表面に、微かな隆起が生じ、私は足を止めた。


 気流の乱れではない。


 砂の下を、何かが移動している。


 砂潜鋏角(サンド・アラクニド)


 砂の中に身を潜め、振動を感知して獲物を強襲する多脚のモンスターだ。


 隆起の移動速度と方向から、対象の軌道を脳内で予測する。


 対象が砂から飛び出し、鋭い鋏を振りかざしてくる一拍前、私は半身を引いてその軌道から外れた。


 空を切った鋏の付け根、装甲の薄い関節部分へ、サバイバルナイフを正確に突き立てる。


 対象は光の粒となって霧散し、砂の上に魔石が残された。


 それを拾い上げ、確認する。


 これまで処理してきた同個体と同じように見えるが、テスターにかけてみないとわからないこともある。


 とりあえず、あの個体は変容していなかったし、モンスターに変容は見られなかったと考えてもいいだろう。


 私は魔石をハードケースに納めた。


 そして、次の対象を探そうとした時だった。


 足元の砂が、音もなく陥没した。


 気流のせいではない。


 足首から膝下まで、一瞬にして砂に飲まれる。


 周囲数メートルの砂面が、すり鉢状に崩落を始めていた。


 自然の罠ではない。


 すり鉢の底から、赤黒い巨大な鋏が突き出し、不気味に開閉するのが見えた。


 砂渦の捕食者(サンド・ボルテックス)


 流砂を作り出し、落ちてきた獲物を捕食する大型の待ち伏せ型モンスターである。


 崩れ続ける砂の斜面は、足掻けば足掻くほど私を深く沈み込ませ、底へと引きずり落としていく。


 あの巨大な鋏と正面からやり合えば、致命傷は免れない。


 心拍数が上がるが、私は努めて冷静に周囲を素早く観察し、距離を測った。


 最も近い岩壁まで約3m。


 もがいて斜面を登り切ることは物理的に不可能だ。


 バックパックからロープを取り出している猶予もない。


 ——どうする?


 私は腰のポーチへ手を伸ばし、発泡ウレタン充填剤のボトルを引き抜いた。


 対象に向けて撃ち込むのではない。


 私と岩壁の間にある、激しく流動する砂の斜面に向けてトリガーを引いた。


 噴出された薬剤が砂と混ざり合い、急激に膨張する。


 数秒で硬化したウレタンが、流れる砂の斜面に一時的な足場となる固い塊を作り出した。


 私の身体はすでにすり鉢の底へと迫っている。


 モンスターの鋏が、私の靴底を掠めた。


 私は沈み込む足を強引に引き抜き、砂の中に固定されたウレタンの塊を力強く蹴りつけた。


 流れる砂からは得られない、確かな反発力。


 それを推進力に変え、流砂の引力を振り切るように岩壁へと跳躍した。


 岩の突起に両手の指をかけ、身体を一気に引き上げる。


 眼下の底で、獲物を逃した対象が苛立たしげに鋏を打ち鳴らしているのが見えた。


 追ってくる気配はない。


 自ら罠を出てまで追撃はしないという、私が記録しているデータ通り。


 つまり、あのモンスターにも変容は起こっておらず、そして無理をして対処する必要はないということだ。


 私は岩壁に背を預け、細く、長く息を吐き出した。


 肺を満たす冷たい空気が、早くなっていた心拍数を押し下げてくれた。




 その後も、砂の振動に意識を集中させ、予定通りの処理を重ねていった。


 ノルマの七割を消化したところで、少し開けた空間に出た。


 足元の砂の色が、これまでの記憶にあるものより、わずかに黒ずんでいるように見えた。


 私は振り返り、来た道にモンスターの気配がないことを視覚と聴覚で確認する。


 さらに岩壁のくぼみに背を預け、完全な死角を潰した状態を作ってから、バックパックから手帳を取り出した。


 砂の色の変色。


 ダンジョンの変容だ。


 その一次データを、日付とともに書き留める。


 手帳を閉じ、バックパックに収めた。


 残りのノルマを完遂し、通常業務に加えた亀裂の観測に向かう。


 変化なし。


 私は定時に地上へと帰還した。




 探索者協会のロビーで換金を済ませる。


 今日もまた担当だった井葉さんに短く会釈をしてから、私は協会を後にした。


 そのまま宿舎へは戻らず、足を向けた先は総合病院だった。




 病室のドアを軽くノックする。


「どうぞ」


 聞き慣れた声に促され、私はドアを開けた。


 ベッドの上には、颯真くんがいた。


 包帯とギプスの痛々しい姿は、先日、見舞いに訪れた時と変わらない。


 だが、顔色は幾分良くなっているように見えた。


「ダンジョンの帰りか」


 彼はいつものように笑みを作った。


「ええ。本日の業務を終えてきたところです」


 私は彼から少し離れたパイプ椅子を引き、腰を下ろした。


 他愛のない言葉を交わす時間は、今の私には必要なかった。


 彼にとっても、それは同じだろう。


 私は真っ直ぐに彼の瞳を見た。


「颯真くん。今日は、あなたに聞きたいことがあって来ました」


「聞きたいこと?」


「ええ」


 私はゆっくりと、だが明確に告げた。


「……私は、深層に行こうと考えています」


 病室の空気が、一瞬で張り詰めた。


 颯真くんの瞳が、わずかに見開かれる。


「……なぜだ」


 低く、絞り出すような声だった。


 彼にとって、私の宣言がどれほど予想外だったかは、その表情が雄弁に物語っていた。


「ダンジョンが変容しているからです。私がこれまで蓄積してきた記録が、確実にそれを証明しています。そして、その変容の震源地は、深層にあると考えています」


 膝の上で軽く手を組んだ。


「ダンジョンがなぜ変容しているのか。その理由を知らないままでは、私はここで、自分の生活を維持するための探索を続けることができません。未知の脅威を放置することは、私の生存戦略において最大の不確定要素となります。ならば、震源地と思われる深層へ行く必要がある」


 だから、と私は続けた。


「あなたの知る、深層の話を聞かせてほしい」


 颯真くんは黙っていた。


 窓から差し込む夕日が、彼の横顔に濃い影を落としている。


 長い沈黙の後、彼は重く息を吐き出した。


「……深層は、常識が通用しない場所だ」


 ぽつりと、こぼすように颯真くんは言った。


「中層みたいに、地形やモンスターの配置にセオリーがない。昨日安全だった道が、今日は死地に変わる。同じ状況なんて、二度と起こらねえ」


 彼の言葉には、実際にそこを歩き、血を流した者だけが持つ、重い実感があった。


「事前の準備なんて役に立たねえ。毎回、手探りで、一歩ずつ死に怯えながら潜り続けなきゃいけねえ。……そういう場所だ」


 彼の視線が、私を射抜いた。


「それでも、いくか?」


 明確な問いだった。


 恐怖を煽るためではない。


 私という人間が、本当にその領域に踏み込む覚悟があるのかを問う、探索者としての真摯な確認だった。


 私は彼の目から視線を逸らさなかった。


「————」


 短く、事実だけを答えた。


 颯真くんは私の目を見つめ返し、やがて、小さく口元を緩めた。




 病院を出ると、日はすでに落ちていた。


 冷たい夜風が首筋を撫でる。


 スーパーマーケットに立ち寄り、食材を購入して宿舎の自室へ戻った。


 装備の整備を終え、キッチンに立つ。


 今日は、温かいうどんを作ることにした。


 鍋に湯を沸かし、市販の白だしを注ぐ。


 刻んだネギと、薄切りの豚肉を入れる。


 丼に茹で上がったうどんを移し、熱い汁をかけた。


 箸を取り、麺をすする。


 出汁の塩気と、豚肉の脂の旨味が、沁みる。


「……美味い」


 出汁を最後の一滴まで飲み干し、私は箸を置いた。


 窓の外は雲が広がっていた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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